自衛隊警務官(20)─陸軍憲兵から自衛隊警務官に(20) 宣戦布告について

はじめに

 憲兵史から少し外れますが、国際人道法(戦争法規)について、不勉強を反省しながら自分がまとめたいと思っています。陸上自衛隊でもその研究の最高権威だった佐藤庫八(さとう・くらはち)元1佐のお許しをいただき、その研究成果をご紹介させていただきます。
 近頃の話題ですが、ある県の知事さんが「国民への給付金」を県庁職員から取り上げてコロナ・ウィルスへの対策資金にしたいなどと言いました。中には支持者の方もおられるのでしょうが、そういう施策のねらいを理解しない発想が出ることに驚かされます。
 まず、給付金の性格です。もちろん、一つの目的として生活に窮している方への援助があります。そういう意味では県庁職員は公務員であり、給与が下がることもなく、生活も安定しているでしょう。だから棚ぼたの10万円を県政のために出せというのはおかしくはありませんか。そういうことではないでしょう。
 消費を少しでも増やして、景気の刺激にしようということではありませんか。また、最高権力者である知事がそういうことを言いだしたら、仕方なく応じる人も出てきます。これはわが国社会の現況から考えれば十分にあり得ます。
 さすがに翌日には「言葉選びを誤った」と撤回したそうです。しかし、間違ったのは言葉選びではなく、最高責任者としての判断でしょう。県庁の職員方は懸命に働かれていたと思います。また、市区町村の方々も同様です。そういう事態の中にあって、知事の言葉にはリーダーシップのかけらもありませんね。

なぜ「戦争法規」は必要か?

 有賀博士は佐藤元1佐の著作によれば、「開戦の詔勅」を解釈されたという。なぜ、日露は開戦しなくてはならなかったかである。
歴史学界の大勢はいまも、わが国の大陸への野望、侵略への道という見方のようだ。教科書もそうした書きぶりが主流になっている。たとえば、検定に合格している中学校歴史教科書(日本文教出版)には次のように書かれている。
「ロシアは満州(中国東北部)に軍隊をとどめ、清や朝鮮への影響力を強めました。そのため、朝鮮へ勢力をのばそうとしていた日本は、ロシアとの対立を深めました。(中略)日本は、満州はロシアの、朝鮮は日本の支配下におくという交渉を行いましたが、両者の対立は大きく・・・」
という書き方で開戦の理由づけをしている。
 教科書であるから学会の通説を当然、反映しているだけである。しかも、教科書はページ数も少ないので、簡単にもなっている。ここで当時の国際法の権威である有賀博士の書かれた解説を佐藤元1佐の教えに従って読んでみよう。当事者がどのように考えていたか理解できるからである。歴史学者の語る論評の多くは「後出しジャンケン」であり、結果論からさかのぼることが多い。そこで、当時の人たちがどういう思い、考えで判断を下したかを知っておくことは事実に迫る重要な手だてになる。
「いずれの国の政府も国家、国民の発達を図る責任がある。独立国家として、ある条件がこの発達のために必要やむを得ないと認めながら、たまたま、その条件が他の国の発達条件と衝突したときに、これを貫徹しないで止めてしまった場合、国家、国民として果たすべき義務に背くものと言わざるを得ない。清国の満洲における主権を維持させること、韓国をいずれの国の勢力にも屈服させないことは、日本の国家、国民の将来のために必要やむを得ない条件である」
 当時、ロシアは満洲から撤兵せず、むしろ兵力を増加し、南下する意欲を十分にもっていた。それもまたロシアからすれば、国家、国民の発達の最大要件なのだ。朝鮮を統御し、アジアに勢力を伸ばすことがロシアの意思だったのだ。わが国の話し合いの要求にも、それを譲ることもなく、さらに朝鮮との国境に備えを始めた。わが国の政府、軍は武力攻撃を受ける切迫事態にあると認識していた。
 戦争法規の制定について有賀博士は、その要因を述べている(「日露戦争国際法論」を読み解く-武力紛争法の研究:佐藤庫八・2016年、並木書房)。
「戦争は二国間の衝突を解決する最後の手段として、反対の一方の意思を屈服させることを唯一の目的とするものであるから、交戦する軍隊はこの目的を達するに必要以上の強力を用いず、また、その必要以上の惨害を加えることは必要ないのである」

ロシアは「陽に平和を唱道し・・・」

 開戦をロシアの立場に立って非難した「国際公法学者」に対して、有賀博士は反論している。
「(ロシアの態度は)陽に平和を唱道し、陰に海陸の軍備を増大し、我を屈従しようとした」ということだ。以下、佐藤元1佐の論稿から引く。
 具体的には、1903(明治36)年4月には、2回目の満洲からの撤兵に際して、ロシアはその約束を守らなかった。しかも、それ以後、ロシアの軍備増強はどうか。
 戦闘艦3隻、装甲巡洋艦1、巡洋艦5、駆逐艦7、砲艦1、水雷敷設艦2の合計19隻、排水量の合計は8万2415トンにのぼった。ほかに駆逐艦の建造材料を鉄道で旅順にまで急送し、すでに竣工しているのが7隻ある。また、義勇艦隊に属する汽船2隻をウラジオストックで武装させ、軍艦旗を揚げている。さらには戦闘艦1、巡洋艦3、駆逐艦7と水雷艇4の合計3万740トンがウラジオストックに回航中である。これらを合計すれば、増強される艦隊は、総排水量約11万3000トンにもなる。
 陸軍は、やはり1903(明治36)年6月29日に、西シベリア鉄道輸送試験を口実にして、歩兵2個旅団、砲兵2個大隊、騎兵、輜重兵各若干を送ったのを始めとして、その後も将兵を輸送し、本年2月上旬までにその兵員数すでに4万人に達し、なお必要な場合は20万余の兵士を輸送することを計画している。
 具体的にさらに旅順、ウラジオストックの戦備の状況を書いた。2月3日にはウラジオストック軍港の知事が、本国政府の命令によりいつでも「戒厳令」を布告することができることをうけて、在留日本人にハバロフスクに退去するように日本貿易事務官に要求した。
 これらから有賀博士は堂々と、自衛のためにわが国が立ち上がったことの正当性を主張したのだ。

「宣戦布告」とは何か?

 アメリカでは、日本は宣戦布告もしない開戦の常習者だった。日清戦争も日露戦争もそうである。卑怯な国民であり、国際法を守らない。そんなことを聞かされたこともあるだろう。これらはおおよそ大東亜戦争後の占領軍の意図から出たものである。1941(昭和16)年の真珠湾攻撃を「卑怯な騙し撃ち」とするアメリカの宣伝を広めたものだ。敗戦国民だった日本人の多くは、そうだったのかと肩を落とした。自信を失わされたのである。
 しかし、事実は異なった。なぜなら、「開戦に関する條約」は日露戦争後の1907(明治40)年の第2回万国平和会議に制定されたものだった。
「文明国の国民」は不意に他の国民を襲撃する権利はない、と主張したのはロシアのマルテンス博士だった。しかし、博士は同時に開戦のための宣言は必要としないという信念はもっているという。その開戦宣言を必要としない条件は次の通りである。(1)双方が確固たる事実により、相互の間に交戦状態があること。(2)いつ敵対行為が始まるかどうか分からないことを承知していること。だから「宣戦」が必要ではないと言えるのは、明らかな目前の事実によって、一方がいつ敵対行為を受けるか計り知れないと承知する場合においてだけである。
ロシアの側から言えばとマルテンス博士はいう。日本公使館の通牒の提出で、日露の関係に断絶が生まれたのを知ったのは2月6日の午後だった。ただし、この通牒には、一言も「抗敵」が始まることは書かれていなかった。もしも通牒にこれについての数語があれば、公明な戦争が行なわれたのだと博士は主張した。

事実の解説をしておこう。

 小国・日本が大国ロシアに勝つためには、緒戦で勝利を得ることはきわめて有利になる。差し迫った必須要件は、陸軍にとっては韓国の制圧であり、海軍にとってはロシア太平洋艦隊(旅順)に対する一撃である。兵力が少ない日本は、やはり奇襲がもっとも有利だった。とはいえ、条約にはないといえ、やはり国際的な非難は受けたくない。
 2月5日、陸軍が動き出す。韓国の京城に進出する韓国臨時派遣隊の出発である。これは第23旅団長木越少将が指揮をとっていた。輸送船に乗り組み、やがて連合艦隊とともに佐世保を出港することになっている。
 この派遣隊は、福岡の歩兵第24聯隊、小倉(北九州市)の同14聯隊、大村(長崎県)の同46聯隊、大分の第47聯隊から各1個大隊が抽出されていた。計2252人、馬は26頭、資材53駄ということだ。午前6時には各大隊は営門を出て、汽車で佐世保に向かった。
 
 午前11時には、海軍大臣山本権兵衛中将、軍令部長伊東祐享(いとう・ゆうこう)大将、軍令部次長伊集院五郎中将が参内して天皇に「大海令第一号」の裁可を求めた。その内容は、(1)聯合艦隊司令長官と第三艦隊司令長官は、東洋に在る露国艦隊の全滅を図るべし。(2)聯合艦隊司令長官は速やかに発進し、先ず黄海方面に在る露国艦隊を撃破すべし。(3)第三艦隊司令長官は、速やかに鎮海湾を占領し、先ず朝鮮海峡を警戒すべし。
 この命令は既に封緘(ふうかん)命令として聯合艦隊、第三艦隊司令部に渡されていたその開封時刻は午後1時30分である。その理由は、小村寿太郎外相が駐ロシア栗野公使に断交訓令電報を打つ予定が午後2時だったからだった。
 この後に起こる交戦の内容は、まさに「戦時国際法」に関わることばかりである。次回は時系列でそれを追って見よう。わが国の陸海軍が国際非難を浴びるようなものだったかを調べなければならない。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(令和二年(2020年)4月29日配信)