自衛隊警務官(3)─陸軍憲兵から自衛隊警務官に(3) 遅れた憲兵の登場

ご挨拶

 令和元年の暮れも近づきました。今年をふり返ると、台風による風水害の多さに驚かされます。わたしたちは、ついつい大地震にばかり関心をもち、それへの備えについての議論ばかりをしてきました。それはそれで間違ってはいませんが、それよりも蓋然性というか起こる可能性が高かった風水害への備えを「うかつにも」忘れてきたのではなかったかと考えます。
 防衛問題も同じです。たしかに北朝鮮の核ミサイルも大きな脅威ですが、尖閣諸島への中国の主権侵害行為も重要なのではありませんか。さらにはロシアによる漁船5隻の連行も起きました。そうしたことへの備えに「うかつさ」があっていいわけではありません。もちろん、各所で懸命に対策を練っておられる方々も当然、現場から離れているわたしたちも忘れないようにしたいものです。
 来年は明るい希望に満ちた年であって欲しいと願っております。

明治初めの警察の事情

 歴史の教科書だけを読むと、近世(江戸時代)が終わると近代(明治時代)が始まります。徳川幕府が滅び、明治新政府ができる。社会の変化がこれでもか、これでもかと書かれています。しかし、その中で暮らす人々は、わたしたちとどれほど違うのでしょうか。後世からみれば、いまの私たちだって、大変な変化の時代にいるように書かれるかもしれません。
変化はたしかに突然訪れますが、人は案外保守的で、それまでの暮らしやしきたりを急に大きく変えられるものではありません。たとえば、江戸(東京・とうけい)や京、大坂などの治安を守ったのは誰でしょうか。それはやはり、旧幕府時代からの江戸町奉行所、京町奉行所、大坂町奉行所の仕組みであり、与力や同心、町役人といった人々だったのです。
兵隊たちはどうしたのでしょう。よく知られているように、明治4(1871)年7月14日に廃藩置県の大命が布告される前は、各藩(大名領の組織や機構)が独自の軍隊(藩兵)をもっていました。各藩は大名がその統治権をもっていたからです。だから明治維新を成し遂げた官軍とはいうものの、天皇の手持ちの兵力などは1人もなく、各藩の有志連合軍だったのです。
 廃藩置県の前には1871(明治4)年4月23日には東山道鎮台(本営は現在の宮城県石巻市)と西海道鎮台(本営は現在の北九州市小倉、分営は福岡県博多と大分県日田市)を置いて、8月20日には、東京・大阪・鎮西・東北の4個鎮台となります。このとき、各藩の士族兵は解散され、志願者から選ばれた人だけが近くの鎮台に入りました。
そのときに置かれたのが3府302県、そうして統廃合が進み、すぐに3府72県となりました。このとき、各藩の独自兵力はなくなり、志願した者は壮兵(そうへい)といわれて新しい陸軍の将兵となります。この後は、いよいよ徴兵令です。その前には1972(明治5)年11月に「徴兵の詔勅」が下り、翌年1月には徴兵令が発布されて、士族以外の平民(商・工・農)もまた現役兵として鎮台に入営することになりました。
それでは、3府をはじめとして各県の警察業務は誰が行なっていたのでしょう。

江戸時代の警吏(けいり)

 各種の捕物帳(とりものちょう)シリーズや、「鬼平犯科帳(おにへい・はんかちょう)」などの時代小説でよく知られているように、幕府直轄の大都市にはどこでも「町奉行」が置かれていた。大坂、京都、奈良、長崎、伏見ほかである。
町奉行所は行政、司法を扱うところで、どこでも高級旗本がその長官となって江戸から赴任していた。その下には、親代々の勤めを続ける騎乗格の与力(よりき)と足軽格の同心(どうしん)がいて奉行の職務の支援を行なった。
なかでも将軍のひざ元であり、人口も100万人を超す大都会の江戸町奉行の権威は高かった。犯罪の種類も規模も大きく、小は荷物の置き引き、かっぱらい、スリ、空き巣から始まり、博打(ばくち)、喧嘩、傷害、恐喝、誘拐、殺人、強盗、詐欺、公文書偽造といった破廉恥罪から幕藩体制に弓を引こうという思想犯まで、その範囲の大きさはまったく現代と変わらない。
犯罪捜査の現場には「岡っ引き」とか「御用聞き」といわれた庶民出身の協力者がいた。フィクションの世界では大活躍して、朱房(しゅぶさ)の十手(じって)などを振り回すが、あれは誇張されすぎている。彼らは幕府から正式に存在を求められたことはない。あくまでも同心の私的な雇い人でしかなかった。その収入の主となっていたのは、窃盗犯などの裁判に関わることだった。
裁判に被害者として呼び出されるのは大きな負担になっていた。町役人(ちょうやくにん)といわれた大家(おおや)やその代理人に付き添ってもらい、食事を出し、礼もする。それならいくらか出して、なかったことにしてもらおう。そう考えるのが普通である。そこで自分の親しい御用聞きに頼んで、被害の実態そのものを消してしまう。消してもらうためには、犯罪者を捕まえた御用聞きに交渉して、金で買い取ることになる。
奉行所では犯罪の捜査や容疑者の補縛にあたるのは三廻り同心(さんまわりどうしん)の仕事である。いつも町を巡回する「定廻り(じょうまわり)」、「臨時廻り」、それに「隠密廻り(おんみつまわり)」だった。
犯罪者の取り調べや捜査書類作成にあたるのは与力の中でも吟味方(ぎんみがた)である。多くの案件は、彼らによって調べられ、過去の判例と比べられ、奉行のもとに判決書が出された。

野戦憲兵だった「鬼の平蔵」

また、「鬼平」として知られた長谷川平蔵(はせがわ・へいぞう)は実在の御先手頭(おさきてかしら)だった。現在の考え方では軍事警察に近い役割を果たした。先手とは徳川家の軍団では先鋒(せんぽう)に配置された足軽部隊である。
先手弓組、先手鉄炮組の先手頭(さきてかしら)、持弓組、持筒組の持頭(もちがしら)のうちから指名を受けて「火附盗賊改め(ひつけとうぞくあらため)」になった。「頭(かしら)」が火盗改め(かとうあらため)に指名を受けると、配下の与力や同心もそのまま任務に就いた。
町奉行所の与力・同心は文官だった。それに対して、火盗改めは武官である。元来、戦国時代の定法では、敵の城下町に放火し、あるいは物盗りをして治安を乱すのは常識だった。したがって火盗改めが創設された17世紀の江戸の町の治安を保つのは、軍隊の「先手」の任務でもあったのである。だから、取り調べが荒っぽかったり、「手にあまれば斬り捨てよ」という指示もあったりするには当然のことだった。
 町奉行所は今でいう東京都庁、警視庁、東京高等裁判所を兼ねていた。だから、与力の仕事にはそれぞれの担当があり、同じく同心にも仕事の区分があった。その中で庶民の犯罪捜査にあたるのは俗に「三廻り(さんまわり)」といわれる少ない人たちだった。たったの28人でしかなかった。幕末の話だが、手先(てさき)といわれた岡っ引きが400人、その下の下っぴき(したっぴき)といわれた子分が1000人いたという。
ところで、同心の私的雇いの岡っ引きや御用聞きには、ろくに手当てなどがつかなかった。その前に町奉行所の与力や同心など、やたら地位が低かったのだ。武士とは「戦場に立つ者」という気分が多く、庶民の犯罪などに関わることは「不浄(ふじょう)」とされていた。与力の俸禄はおよそ200石であり、蔵米取りの200俵に相当する。しかも馬乗り身分である。それなのに、将軍への目通り(めどおり)の資格はなく、しかもあくまでも建て前は「一代抱え」だった(実際は実子相続がふつうの慣例だったが)。

首都の治安は「邏卒(らそつ)」がになった

 明治2(1869)年12月、東京府に「府兵(ふへい)」がおかれた。それまでは当然、官軍の兵である各藩兵が治安を維持していたのだが、次々と故郷に復員する。そのため、彼らのうちから志願を募って、東京府から給与を与え、警察業務にも携わらせたらしい。各県でもこれにならって「県兵」とか「区兵」といっていた。翌年には「取締(とりしまり)」と改称され、大阪でも設けられたという(『日本陸海軍騒動史・松下芳男・1974年・土屋書店』)
 1971(明治4)年10月23日に「ら卒3000人を置く」という方針を示した。この「ら」は巡邏(めぐってパトロールする)をする卒(兵士)を表して、特定の官名ではなかった。むしろ、外来語そのままに「ポリス」と呼んでいたらしい。集められた薩摩藩士族が2000人、その他藩人が1000人だったという。
 このポリスが持たされたのが「三尺棒」である。このことは当然、士族出身のポリスの不満とする所だった。当時、「御親兵」から改編された「近衛兵」はその多くが、薩摩藩の城下士出身である。
対してポリスは同じ士族でも外城士(とじょうし)といわれた薩摩郷士の出身者であった。旧藩時代から互いに反目し合っていたのに、今度は首都の警備にあたるポリスと薩摩出身近衛兵として対立することになった。これで帯刀させたら大変なことになると判断したのだろう。近衛兵は長大なスナイドル銃剣を帯びている。
この銃剣は明治末期には砲兵の自衛用に支給され「砲兵刀」ともいわれたものである。全長70センチ、柄長12~15センチほど、刃長は50センチを超すものだった。片手で振り回すが、江戸時代では1尺8寸の長脇差(ながわきざし)にもあたろうというものである。

ポリスと兵卒の衝突

 松下博士による『騒動史』に「本郷の争闘事件」が書かれている。1874(明治7)年1月18日、日曜日のことである。警視庁の1巡査(じゅんさ)が本郷3丁目(現在の文京区本郷)付近を巡邏中、鎮台兵の1人が路傍で立ち小便をしていた。当時の風俗のことであるから、男性のそうした行為はよく見られたが、文明国を標榜したいわが国にとっては何とも都合が悪い。そこで巡査は当然、鎮台兵に注意を与えたのである。
 ところが、兵卒にとっては、自分は天皇陛下の旗本になっている。不浄な役人のいうことなど聞いてたまるものかと反抗する。しかも兵卒は泥酔していて、警察署に引致しようとしても抵抗した。そこで捕まえてやれとなったら、そこに同じように外出中の近衛兵が20人ほども現われた。
 巡査もただちに増援を呼んだところ、今度は兵卒が50~60名余り現われる。立ち小便の犯人は逃げて、残りの兵卒たちは巡査にさんざんの暴行を加えた。脱出した巡査の急報でさらに警官隊は増勢されたが、兵卒側もさらに150名余りが駆けつけてくる。こうして巡査40名余りを兵卒200名以上が包囲して暴行を働いたのである。
 こうした大事件の他にも多くの警察官と兵卒たちのトラブルが多かった。4月29日には、東京の警視庁から陸軍省に兵卒の検束方法を定めようという申し入れがされた。それは当時の府内、軍隊外の警察権はすべて警視庁が管轄していたからである。
 それにしても正当な公務を執行しようとする警官に対して、平然と反抗する兵卒たちの意識はかなりのものである。士族兵ならもともと警官などは不浄役人であり、平民から徴兵で兵卒となった者は、その誇りをもたせようとした教育の結果の特権意識が高じたものだろう。
 6月には東京府下芝愛宕下町(あたごしたまち)で鎮台兵による巡査屯所(とんしょ・現在の交番のようなもの)襲撃事件が起きた。これも酔って放歌高吟(ほうかこうぎん)、人力車の上でご機嫌の兵卒3名を巡回中の少警部がとがめたことから起こった事件である。200名を超す兵卒が巡査屯所を包囲し、中には銃剣を抜き、警察官を傷つける者もいた。
 こうしたことから、陸軍内に軍人による警察権を行使する「憲兵」をおこうとする動きが高まってきた。
 次回は新年にあたり、いよいよ憲兵設置について報告しよう。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(令和元年(2019年)12月25日配信)