自衛隊警務官(8)─陸軍憲兵から自衛隊警務官に(8) 西南戦争と戦後の跡始末

ご挨拶

 わたしの住んでいる横浜では、寒暖の差が大きく、体調を合わせるのも困難です。また、新型コロナウィルスの流行が恐れられ、中国からの観光のお客さんたちにも警戒の目を向けざるを得ません。
たいへん残念なことですが、ここでも「うかつ」としか言いようのない事態が起きています。そういう「有事」に対応した備えがおろそかにされていた・・・そう断言するしかない事態が起きているようです。

自衛隊の災害派遣の実態

 このたび2月10日発売予定の「中央公論」(*)の大規模災害の特集で、わたしは『自衛隊の災害派遣、知られざる実態に迫る-訓練された《兵隊》、お寒い自治体』という小文を書きました。「兵隊」というのは編集部でつけた言葉で、自衛隊員を指す言葉です。もちろん、自治体、あるいは職員の方々への非難をするつもりもありません。ただ、その組織や職員の方々が「有事」向きではないという意味です。
そこには、大型台風の襲来で苦しむ自治体と住民、黙々と命令のままに活動する自衛官たちの姿が書いてあります。身びいきなどではなく、自衛隊員たちの実態をきちんと描いたつもりです。隊員たちは、厳しい環境で、つねに「有事」を想定した訓練を重ねています。彼ら、彼女らは憲法論議などと関わりなく、立派な「軍人」であり「兵士」なのです。
 軍人が行動するとき、情報を集めることから始めます。集めた情報を分析し、さまざまな条件を元に勘案して、部隊の行動目的にてらして、もっともふさわしい行動を「決心」した指揮官の命令で、整然と動くことが兵士の任務なのです。
 ところが、自治体の職員にはそうした教育も、訓練も不十分なものしか用意されていません。それが先般の関東のある県で、はっきりと露呈されました。民間人は被災すると、自治体の職員も含めてみな無力な被災者になってしまいます。
台風による被害で、山中で電柱が倒れました。それを復旧に出かけようとして、初めて電力会社員は気付いたのです。道路には倒れた樹木や枝、落石が散乱していて、現場にたどり着けません。緊急性、不代替性、公平性の観点から、自衛隊に出動して欲しい、道路の啓開が県知事からの要請でした。電柱の倒壊、電線の切断による停電は、多くの人に日常の生活を保証できません。
 自衛官は相手に聞きます。どこの道路にどれくらい障害物があるのか? 倒れた電柱の数はどれほどか? 復旧資材を運ぶ手段はどうか? 資材の集積場所はどこか? 排除した倒木や枝、岩石などはどこに、どのように処理するのか? 自治体職員、あるいは電力会社の担当者からは、答えは返ってきませんでした。

現場では手も足も出ない自治体職員

 全部、自衛隊に丸投げになりました。それも当然で、自治体職員も民間人にとっても、戦術や戦略などとは無縁なものなのです。「有事」には平時の常識はまるで通用しません。そうなると、会社も役場も、情報を集める方法も手段も持っていないのです。何をしていいか分からず、現実がどうなっているのかも掴めません。
陸上自衛隊ならば、普通科(歩兵)連隊にも情報小隊があり、路外も走れるマウンテンバイクで隊員によって集められた情報が指揮官に届けられます。師団には飛行隊があり、ヘリコプターによる情報収集もできます。
 また、目を覆いたくなるような画像も見ました。空挺隊員が民家の屋根にのぼって防水用のブルーシートを張っているのです。自衛官の戦闘靴は水にぬれた屋根で活動するものではありません(のちの報道で私物のスニーカーに履き替えている映像が出ました)。しかし、何より自衛官の本務は屋根の上のブルーシートかけではありません。もちろん専門の建築業者の方のような専門知識も技能ももっていないのです。
これもまた自治体の要請によるもので、現場の指揮官を困らせたと聞きました。シートなど用意もされていない、運ぶ手段もない、その集積場所も考えられていない。何より困ったのは、やはりどれくらいの作業量なのか、明確な情報が自治体からは得られないということでした。

できもしないことを言う人たち

 先には河野防衛大臣が「自衛隊は災害派遣のために、約300件の訓練を取りやめた」と報告されました。本来任務の軍事訓練を後回しにして、隊員たちは災害復旧、給水支援、ブルーシートかけなどに立ち向かったのです。そのことは誤解がないように申し上げておきますが、自衛隊法に災害派遣が任務としてある以上、まったく文句を言う気はありません。ですが、ここで重要な事は「何でもかんでも自衛隊」には全く同意できないということです。
 興味深いのは、こういうことが起きているのに、まだ次のようなことを言う人がいます。立憲民主党幹事長代行の辻元清美さんです。1月25日の産経新聞で、「駆け巡れ!子年男女」というコーナーで、ニュー辻元に生まれ変わるとおっしゃっています。
第1のジェンダーのことはいいとして、第2番目に「国の災害対応を改める」とおっしゃっています。「防災庁を新設し、世界各国で起こる災害救助に行けるよう新組織を立ち上げ、災害救助船も備えたい」。この国会議員は正気でしょうか。さすがに自衛隊解体とか日米同盟を廃止するなどとは言われなくなりました。
問題は、この厳しい経済状況の中で、さらに新しい役所を創るという。東日本再震災で不備をいわれた病院船も自衛隊に持たせてこなかった国が、災害救助船をもつというのです。世界中に派遣される専門組織を創設する、どういう教育や訓練を、どこで、誰にするのでしょうか。派遣に要する航空機や船舶も用意しなくてはなりますまい。まさに有事も平時も見分けのつかない、たわけた考えといったら、わたしは何方かから叱られるでしょうか。

今のままでいいという人たち

 いっぽう、令和元年版防衛白書には、内閣府大臣官房政府広報室の世論調査の結果が載っています。数字は読みやすいように小数第1位を四捨五入しました。「自衛隊について関心があるか」という問いに、ある程度関心があるも含めて68%もの人が関心ありと答えています。印象についても、90%もの多数の方が良い印象をもっているそうです。それでも全く関心をもたない人が、国民の3人に1人もいることに驚きを覚えました。災害派遣で給水を受けても、用意された風呂に入り、温かい給食を受けていても、そのサービスの元である自衛隊に関心がない・・・これにはひどく驚かされます。
「防衛力について」は、自衛隊の規模や戦力についての設問でした。増強した方がよいには29%の方がそう答えました。逆に縮小は5%です。いつの時代も平和主義、非武装主義、反軍隊の考えを持つ方はおります。だから5%、およそ20人に1人は、自衛隊の規模を縮小せよと考えていることは確かでしょう。しかし、注目すべきは、「今の程度でよい」という方々が60%もいることです。
 複数回答で、「自衛隊に期待する役割」への答えは、最高が79%の「災害派遣」となっています。これは本来任務といえる「国の安全の確保」の61%を大きく超える割合になりました。続いて第3位は「国内の治安維持」、50%です。興味深いのは次の第4位に挙げられたのは「弾道ミサイル攻撃への対応」が40%だったことでしょう。これは近頃の報道で、北朝鮮の動きが詳しくされることからでしょうか。続いて第5位の「国際平和協力活動への取組(国連PKOや国際緊急援助活動)の35%でした。
 こうしたアンケートの答えから分かることは、自衛隊に好感を持つ人は多いけれど、その実態には関心が低い。したがって現在の手不足状態や、足りないだらけの防衛予算などについてもよく知らない。災害派遣には期待するが、国際貢献などは重視しないということもよく分かります。
 災害に遭ったら自分で自分の身を守ることが最も大切な事です。警察、消防、役場が何かしてくれるだろう、自衛隊が来るだろう、そういった考えを捨てるのが一番です。まず自助努力をする、次に周りの人と協力する、公的機関が手を差し伸べることばかりを期待してはなりません。

幕末、戊辰の役にやたら少なかった捕虜

 外国人で最初におかしなことに気付いたのは英国人医師だった。官軍に雇われて従軍したのだが、捕虜はいても、その負傷者があまりに少なかった。どうやら聞いてみると、敵方の負傷兵はほとんど斬り捨てていたらしい。身動きのとれない者ばかりか、降参した敵兵もほとんど殺してしまったという。
 まず降伏した敵兵は管理がめんどうくさい。監視、尋問、後送、それに怪我でもしていたら治療もしなければならない。収容しても監視しながら給食し、やっかいなことこの上ない。そこで、たいていが殺してしまったらしい。
 たとえば、鳥羽・伏見の戦いでは、薩摩藩士の手記の中のなんとも恐ろしい記述を野口武彦氏は取り上げている。城塞がわりにされた旧幕府軍伏見奉行所が陥落した場面である。
「残党らの戦いがしばらくありましたが、ようやく敵砲の射撃もやみ、一人もおらず、残りは皆逃げていったように見えました。残りの重傷を負った賊兵(幕府兵)の隠れている者は斬り捨てました。(略)そうしておいて各所に放火し、そのまま部隊は引き揚げました。奉行所内に病院のように見えるところには死骸が山のようになって積みあげられていましたが、間におりました存命の者は、みな斬り捨ておきました」(原文を現代語に意訳した)
「・・・半死半生の者はみな首を切り・・・」と報告書にあるように、重傷の者は皆、殺されてしまったのである。
 では、旧幕府軍側はどうだったかというと、同じように敵方(新政府軍)に通じたと疑いをかけた民間人を殺傷したり、負傷兵を殺してしまったりした例は数えきれないほどだっただろう。
 これは問題だ・・・という意見も出た。というのも戊辰戦争は世界各国の注目の的だったのだ。旧幕府が結んだ国際条約は、そのほとんどが不平等なものだった。それというのも、欧米諸国は日本という国は後進国だとし、日本人を野蛮人ととらえていたからである。もちろん、抵抗力を失った敵兵を攻撃してはならない、捕獲した捕虜には危害を加えず、保護すべきだという主張をもった人々もいた。

大山巌とジャンダルムリ-

 大山巌(おおやま・いわお)という巨星について詳しく言うこともあるまい。鹿児島城下の下加治屋町に、1842(天保13)年に生まれた。父は同町内の西郷家から養子になって大山家を継いだ人だった。西郷隆盛(1828年生)やその弟従道(つぐみち・1843年生)とは従兄弟にあたる。
 初めの結婚は同藩士吉井友実(よしい・ともざね、明治政府の高官をつとめ、のち伯爵、1828~1891年)の娘と結ばれたが、再婚相手の山川捨松(やまかわ・すてまつ、1860年生)の方が有名である。捨松は前回に登場した元会津藩士山川浩陸軍少将(1845年生)、東京帝国大学総長山川健次郎(1854年生)の妹であり、明治政府初めての女性海外留学生だった。
 大山巌は砲兵として活躍した。輸入外国砲に工夫を加え、「弥助砲(やすけほう)」の開発で知られもした。1871(明治4)年、普仏戦争のプロイセン軍によるパリの制圧を実見する。1874(明治7)年10月までフランスに留学し、帰国して陸軍少将に任ぜられた。
 この大山がすでに中将になり1879(明治12)年10月16日から翌年2月28日まで、内務大輔(内務省の次官)兼警視局長に就いたことがある。折から大警視川路利良が同月13日に帰国途上に病没した跡を埋めたのだった。
 はっきり証明する文献は見つからないのだが、軍隊の憲兵はようやくこの頃から本格的設置が検討されたのではないだろうか。フランス式兵制の採用で、GENSDARMERIE、ジャンダルムリーを研究するのは当然だったのだ。ジャンダルムリーはのちにGENDARME(ジャンダルム)とされたが、わが国では一貫して「憲兵」とされた。フランス軍には国家警察としての、あるいは軍内警察としての「憲兵」があったのだ。

「憲」の意味

 ジャンダルムリーとは登山用語で「最高峰の前の高峰」とされるそうだ。他にはやはり、英語圏のミリタリーポリス(MILITARY POLICE)、憲兵と訳される。銃士とか軍人ともされることがある。
 もともと憲法などでなじみ深い「憲」とはどういう意味だろうか。「さとい=聡い」、「敏く(さとく)覚る(さとる)」、「のり=則」、「掟(おきて)」、「手本(てほん)」などの意味が漢和辞典には記載されている。
 1872(明治5)年には兵部省から軍人に読みきかせ、後の宣誓にあたるものを「軍人読法(ぐんじん・とくほう)」と言った。その第1条に「兵隊は第一皇威を発揮し、国憲を堅固にし・・・」とある。この場合は、国憲とされていることから「則、掟」にあたることが明らかだろう。
 名付け親も分からないが、後に「監軍護法(かんぐん・ごほう)」を高らかに宣言している憲兵という存在は、「掟や規則を守る」の他に「他の軍人の手本になる」という期待もされたのではないだろうか。
 次回はいよいよ憲兵新設当時の話を紹介しよう。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(令和二年(2020年)2月5日配信)