自衛隊警務官(4)─陸軍憲兵から自衛隊警務官に(4) ポリスと近衛兵の対立

新年のご挨拶

 明けましておめでとうございます。穏やかな新年の訪れ、皆さまいかがお過ごしでしょうか。今年の夏には1964(昭和39)年から半世紀以上も隔たって開催される東京パラリンピック・オリンピックが開催されます。話題になったのがマラソン競技で、夏も涼しいということから札幌で開かれることになりました。
 猛暑といえば、昨年に限ったことではありませんが、大型台風の本州直撃も多い年でした。それによる被害もたいへんなことで、多くの方々が命を落とされ、生活の基盤を破壊されるということがありました。
 このことについて、親しい元自衛官で、ある自治体の防災担当をしている人が次のようなことを語ってくれました。わたしたちは防災といえば、関東や東海沖の直下型地震を第一に考えて、それに備えて多くの力を注いできた。
それはかなりできていて、ことが起きれば、「東日本大震災」での学びも生かされ、多くの人々の安全に寄与できる。しかし、その努力や備えの裏で、「うかつ」にも見逃してきたことがある。
 それは身近な、インフラの未整備による「水害」だった。大規模地震に比べれば、起きる確率でいえば、はるかに高いのが身近な川の氾濫、地すべりにちがいない。そうしたことを「うかつさ」で見逃してきた・・・というのです。
 いろいろ考えさせられることばかりでした。そうした折もおり、拙著『東日本大震災と自衛隊-自衛隊はなぜ頑張れたか?』(並木書房・2012年)に注目された大手出版社から寄稿の依頼がありました。毎月発行の月刊誌に自衛隊と災害派遣について書いてほしいとの話です。とりわけ拙著の中身に描かれた隊員の様子について、詳しく知らせてほしいという趣旨でした。
 あの取材の時といえば、まだ復興もままならず、主に東北地方、福島県には多くの自衛官が活動を続けていました。陸上幕僚監部の協力でアンケートを取らせていただき、現地に飛んで、隊員や家族と面談し、リアルな未曾有の災害派遣の実態を描けたと自負しています。不眠不休で、「自分たちにしかできないことだ」と歯をくいしばり、「被災者に寄り添うのが自分たちの姿勢だ」と互いに言い聞かせ、「仲間がいるからこそできた」と語ってくれた隊員たちがいました。
 その基本は、いまも少しも変わっていません。若い隊員の中には、あの震災の時には被災者だった、あるいは遠い地域にいて実態は知らないという人も増えました。しかし、規模こそ違え、多くの隊員が昨年の災害でも活躍してくれたのです。
 それを支えたものは何か。そうして、関心はあまりもたれないが、本務である国防の訓練にも励み、海外にも派遣され、代休も消化できないという隊員たちの実態もあります。もちろん、不慮の怪我や病気もありました。
「ありがとう自衛隊さん」の声に喜びを感じ、駐屯地へ帰還するときには子供さんまでが手を振ってくれることに満足し、自分の存在の大切さを確かめる、そういった事実は多くあります。しかし、自衛隊の本務は国防なのです。彼らの本務が十分に果たされるよう応援し、その環境を整えるのが政治と国民の役目でありましょう。
 そんなことを書くつもりだと、打ち合わせでは編集担当者に語ろうと思います。

上等士官と下等士官

 人の意識はなかなか変わらない。明治初めには軍隊や軍事というのは、それまでの武士階級だけのものだった。武士階級といっても、いわゆる士分と足軽ではずいぶん違うものである。士分の中にも大きな区分があって、いわゆる上士、中士、下士という。
上士というのは戦国時代では侍大将や物頭(ものがしら)である。中士あるいは平士というのは騎乗の武士であって、自分の家来を連れている。下士の多くは徒(かち)であり、足軽は槍組や弓組、鉄炮組などに編入されて戦った。
これが平時では上士は家老や中老などといわれ、大名家中の政治を行ない、中士もまたその下僚となって役職に就いていた。もっとも上士と中士の差はそれほどでもない。上士の次三男が分家すれば、その多くは中士になり、嫁取り、婿取りも両階級の間では普通に行なわれた。大きな断絶は下士と上・中士の間にあり、下士が中士に取り立てられることはまずなかった。
この制度が明治初めの「上等士官」と「下等士官」といわれる区別につながっていた。新しい陸海軍でも「下士官」といわれた階層の呼び方はここから始まった。上・中士は奏任官である上等士官になり、天皇直属の旗本という気分をもった。下等士官は以前の下士であり、長官が採用や階級付与の権を持つ判任官となった。一代限りの抱え(契約といっていい)だった足軽は卒とされた。戦国以来の旧い言葉だが、「軍兵士卒(ぐんぴょう・しそつ)」という区分が生き残っていたのだ。

廃藩までの常備軍

廃藩置県までは各藩に常備軍があった。戊辰戦争に出征した各藩の部隊の構成や規模は、のちの制度でいう戦時だけの「動員体制」である。およそ1万石の経済力で250人から300人の兵力が維持可能と計算したのは、明治陸軍の戦史研究部門だった。だから、約80万石の薩摩・大隅2カ国をもつ島津家の動員数は、約2万人と計算することができる。戦争が終わって復員すれば、各藩の財政事情による平時体制の常備軍にもどった。
手元には美濃大垣藩(戸田家、旧幕時代10万石)の常備軍の編制表がある。それによると、藩軍は1個大隊、2個歩兵中隊と1個大砲隊だった。歩兵隊には大尉2人(中隊司令)、中尉2人(小隊司令)、少尉4人(半隊司令)がいて、それぞれを上等士官とした。
朝廷官位では大尉が正七位、中尉が従七位、少尉が正八位と、のちの叙位基準と同じである。各半隊には下等士官として権曹長(ごんのそうちょう・曹長より格下になる)が各1人、軍曹が第1~第4まで各1人、伍長が2個中隊全部で21人だった。曹長は定員がない。1等兵卒が小銃手220人、喇叭(らっぱ)卒12人、2等兵卒が20人となっている。
砲兵隊は中尉が1人(分隊司令)で上等士官。下等士官は火工長を兼ねる権曹長1人、第1軍曹3人、第2軍曹1人、伍長6人である。1等兵卒になる砲手45人、喇叭卒2人、2等兵卒が馭者(ぎょしゃ)6人、築造卒(土木作業担当)15人となっている。砲は2門だった。
 その採用規定もおもしろい。まず、兵卒には年齢規定がある。満18歳から37歳、ただし強健な者は例外があってよい。上等士官の年齢は不問だが、20歳以下は俊秀(しゅんしゅう)な者でなければ任用しない。
意外なのは、この大垣藩では互いに選挙をして役職を決めようとしたところだ。同じような例では、北海道に政権を立てようとした榎本武揚が率いた幕府脱走軍が、その幹部を選挙で選んだことがある。時代の中では先進的な「民主的」な発想だった。
ただし、上等士官は上等士官同士で互選する。兵卒の選挙(この場合は選抜すること)は、「武学校」で督学(とくがく)教授が数名を選抜し、欠員がある隊の隊員が、その候補者について入札(いれふだ・投票)して行うとある。
 この「武学校」は藩立のフランス式軍事伝習を行なうものだった。督学とは教官の束ねをし、学業の成績を判定する役員である。興味深いのは、やはり上等士官は、徳川時代の身分だった上士と中士の中で互選したものだろう。下等士官もまた、旧幕の時代の下士=徒士から選ばれた者に違いない。
 こうした旧身分意識に縛られた軍隊は、国民国家の近代軍とはとうてい言えなかった。一応の能力主義採用とはいうものの、上等士官、下等士官と卒(もと足軽や同心)の区別は厳格なものだったのだ。

鹿児島藩軍の構成

 初期、首都警察である警視庁のポリスには鹿児島藩旧郷士(外城士・とじょうし)が多く採用された。対して近衛兵の前身である「御親兵」は主に同藩の城下士だった。この薩摩島津家の軍隊制度は、城下士と郷士の差別が厳格だったことが知られている。
 1869(明治2)年3月には鹿児島藩では軍務局を置いて常備隊を編成した。8小隊を集めて1個大隊とした。この大隊の兵数は約800人、常備銃隊が4個大隊、大砲隊2大隊、兵具隊2大隊が編成された。
銃隊の1番大隊長は桐野利秋(きりの・としあき)、2番同は川村純義(かわむら・すみよし)、3番同は篠原国幹(しのはら・くにもと)、4番同野津鎮雄(のづ・しずお)、大砲隊の1番大隊長は大山巌(おおやま・いわお)である。
 このメンバーを見れば、当時の人事上の特徴がすぐ分かる。全員が城下士であり、西郷隆盛らとともに政治活動をし、軍人として戊辰戦争を戦い抜いた人々である。桐野と篠原は、のちに西南戦争(1877年)で薩摩軍指揮官元陸軍少将として戦死し、川村は後に海軍大将、野津も同じく陸軍中将、大山もまた元帥陸軍大将と栄進した経歴をもった(なお元帥陸軍大将野津道貫は鎮雄の実弟)。
 1870(明治3)年には鹿児島城下の常備銃隊4個大隊、大砲隊4座(1座はのちの中隊にあたる8門)があった。そして外城(とじょう)常備銃隊が14個大隊、大砲隊は3座半(28門)があり、銃隊総員1万4400、砲隊800人というのが総兵力だった。鹿児島藩は他藩と比べても士族の率が高く、兵員を集めるのに苦労は要らなかったのである。
 1871(明治4)年には廃藩置県が断行され、各藩の独自の軍隊は廃止された。それは戊辰戦争の勝者だった薩摩・長州・土佐・肥前の軍隊も同じである。新しい国家の軍隊に志願し採用されたのは、鹿児島藩軍では城下士が多かった。

村田経芳の場合

国産小銃の開発者だった村田経芳(むらた・つねよし)は1838(天保9)年に生まれた。父親は小姓組勘定方小頭(こしょうぐみ・かんじょうがた・こがしら)というから下士である。小銃製造や射撃に才能を現し、戊辰戦争では「外城一番隊(とじょう・いちばんたい)」という郷士で編成された小銃隊を指揮して転戦する。ただ、幕末以前から西郷や大久保利通といったメンバーとは面識があったらしい。
この外城(とじょう)というのは、鹿児島城下の内城(うっじょう)に対する名前である。中心の鶴丸城(つるまるじょう)を内とし、その外側の防衛システムを外城といった。関ヶ原の戦い(1600年)に敗れて、領地を削られた上杉氏や毛利氏なども大きな家臣団を維持するのが難しくなった。薩摩・大隅の2カ国に押し込められた島津家も同じ。そこで島津家では、開墾に従事させつつ、軍隊編制を崩さないシステムを考えた。
これが郷士を中核にすえた外城制であり、城下士を優遇し、エリート意識を育てることになった。城下士は郷士を「隔日兵児(ひして・へこ)」とバカにした。つまり1日おきにしか武士ではない、農業を行なうから武士としては半端な存在だということだ。のちに城下士の身分に登用され、陸軍少将となった桐野利秋なども若いころ、城下でずいぶんなイジメに遭ったらしい。
村田は外城士で編成された銃隊小隊長として戦った。その実戦においての有能さと実績で、1871(明治4)年には大尉に任用される。しかし、このとき幕末に城下士に身分を直された桐野利秋は少将だった。戊辰戦争の論功行賞が加味された人事とはいえ、村田の年齢や経歴からいえば、大尉とは軽いものだったと見えないだろうか。

薩摩の郷士が集められたポリス

 近代警察の父としていまも顕彰される薩摩人がいる。郷士出身の川路利良(かわじ・としよし)である。川路は与力(よりき)の家に1834(天保5)年に生まれた。この与力というのは徳川幕府の騎乗の士である与力とは違っていた。足軽よりは上だが、郷士の格としても高くはない。
 川路はやはり勇敢で有能な軍隊指揮官であり、戊辰戦争の戦功で西郷たちに知られることになった。その川路は西郷から命じられて、近代警察制度を欧州各国から学んだ。首都警察である警視庁と内務省が管轄する地方警察を一手に握り、司法と行政を区別する精神は川路によって具体化された。
 次回は発足当時のポリスと近衛兵の対立、そして憲兵の誕生などについて知ろう。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(令和二年(2020年)1月8日配信)