自衛隊警務官(6)─陸軍憲兵から自衛隊警務官に(6) 徴兵制と近衛兵

ご挨拶

 あまり雪が降らないとか。観光業の方々は大変です。また、春、夏に豊かな水がなくてはならない米作地帯の方々も心配されておられませんか。心よりお見舞いを申し上げます。
 中東問題も大変ですね。桜林さんも「夕刊フジ」などで論陣を張られていますが、タンカーの安全確保は私たちの産業、生活に大きな影響があります。いま、海外から我が国へ石油をはじめ多くの物資を運ぶ外航船舶の乗組員の多くは外国人です。このことから思考を始めなければなりません。

はじめに

 壮兵といわれた各藩兵あがりの常備軍、そうして薩・長・土の3藩兵を集めてつくられた御親兵のお話で進行がゆっくりとなりました。それは憲兵がどうして導入されたか、そのもととなった兵隊たちの不規律な様子から描けるかなと思っています。歴史の教科書には、すんなりと徴兵制が実施されたように書かれていますが、実態を調べるとなかなかそうは行かなかったようです。

御親兵が近衛兵に

 1872(明治5)年3月に御親兵は近衛(このえ)兵に改称された。近衛とは由緒ある名前で1000年近い歴史をもっている。平安時代の六衛府(ろくえふ)の1つから始まった、まさに天皇の身辺に最も近づく護衛兵である。現在、埼玉県大宮市に駐屯する陸自第32普通科連隊は、隊内では「近衛連隊」と言っている。これはもともと、新宿区市谷駐屯地(現在の防衛省)に開隊したことに由来する。当時は旧陸軍の近衛兵は消滅していたが、皇居に一番近い駐屯地にあるということから誇りにしたものだろう。
 
 翌6年の1月9日には東京、大阪、鎮西、東北の4鎮台が廃止された。東京、仙台、名古屋、大阪、広島、熊本の6鎮台制度になった。のちに鎮台から師団に改編されたときに、この順番で番号がついた。仙台は第2師団であり、広島が第5師団となったのは、ここからである。
 このときの編制は、歩兵14個聯隊(すなわち42個大隊)、騎兵3個大隊、砲兵18個小隊、工兵10個小隊、輜重兵6個隊、海岸砲兵9個隊で、定員が3万1680人で戦時には4万6350人となるはずだった。兵科は歩兵、騎兵、砲兵、工兵、輜重兵の5つである。兵科の決定はどうも自己申告だったらしい。ただ淘汰もされたわけで、砲兵などは数学的素養がなくてはならず、工兵もまた理系の能力が必要だった。
 そうして陸軍省職制と条例の中には、憲兵の文字が存在した。しかし、まだ実員が生まれたわけではない。当時、戊辰戦争の後始末で軍の予算は少なく、とても戦闘兵科以外には手が回らなかったのではないか。
 
一応の体裁はこしらえたものの、実員の総兵力はといえば、各鎮台の兵はみな壮兵(旧藩兵の志願兵)で近衛隊を合わせて1万2000名あまりという少数だった。6年末には1万6200人余りだから初めての徴兵による入営者が増えたものだろう。

「寅兵」が入営する

それが、この年の4月に、初めての徴兵が衛門をくぐった。この人たちは安政元年の寅(とら)年生まれだったので、民間からも「寅兵」と呼ばれていた。この入営兵の族称を示すデータがない。族称とは華・士族、平民の区別をいう。華族とは大名や上級公家の家柄をいい、士族は江戸時代の士分、平民とは足軽といわれた卒族(一代限りの抱え)と農民、商人、工人(技術職)のことをいう。
これが大変だった。なにぶん前時代からの「武士が偉い、庶民は下」という意識が残っている。これに加えて官尊民卑(かんそん・みんぴ)意識もそれに拍車をかけた。官人である軍人は、一般国民より上位にいる。世間もまた、お武家さまへ遠慮する気分が、色濃く残っていた。
現在のような人権感覚など一切ない。100年違えば、当時の常識は今では非常識、現在の当たり前は、昔だったら秩序無視になる。入隊したら平等だった・・・などと言うのは、明治の末期から大正にかけて以降の話である。
兵営の中は、罵声と殴打しきりだったという。体罰も当たり前、士官が下士を殴るという後の軍隊では考えられないことばかり起きていた。悪名高い「内務班のリンチ(私刑)」も、このあたりが発祥だろう。ついこの間までのお武家様が士官・下士である。今なら、人の生まれ育ちをタネにした話題を出しただけで、失礼で人権無視という非難の嵐が吹き荒れるだろう。「平民などが武士(軍人)になれるか」ということが「社会の常識」だったのである。
 世の中は旧武士が生活に困ることは多かった。家禄を失い、職もなくした士族が多かった。教科書にも載る「士族の商法」でせっかくの公債もなくしてしまう。せめて兵営での軍人暮らしで家族を養う人も多かったのである。庶民あがりが壮兵の地位をおびやかす、そういった憎しみもあっただろう。

警官との争闘

 兵営の外の治安は一手に警察が守った。兵営の内部は一応、風紀衛兵がいるが、外出しての事件が多かった。松下博士の『日本陸海軍騒動史』(1974年・土屋書店)からいくつか引いて紹介しよう。
 1874(明治7)年1月18日、日曜日のこと、本郷三丁目(現・文京区)を巡査が警邏中、鎮台兵が路上で小便をしていた。このことはたいして驚くことではない。筆者が小学生の頃などは、街のあちこちに「立ち小便禁止」という貼り紙があった。また、盛り場ではいつも小便くさい臭いが立ち込めていたものだ。
 しかし、当時の東京は外国人も多く歩いていたし、欧米並みの文化国家を目指す政府としてはこれを見のがせなかった。当時の不平等条約の原因となっていた一つに「公衆道徳の低さ」が言われていたからだ。巡査はすぐに鎮台兵に注意をした。ところが兵士は酔っていたために素直ではなかった。口答えどころか、捕まえた腕を振り払い抵抗の姿勢をみせたのである。もみ合いになった。
 すると、そこへ近衛兵が20人余り現われて巡査から兵士を奪おうとする。巡査にも応援が来たが、5~60名の兵士たちが現われた。多勢に無勢、巡査側にはけが人も出た。さらに争闘の規模は大きくなり、巡査は3~40名、兵士たちは200名以上が乱闘するという事態になった。巡査たちには多くの負傷者が出た。兵士たちにどういう処罰が下されたかは明らかではない。
 東京郊外(江戸時代には「本郷までは江戸の内」といわれた)とはいいながら、お茶ノ水や神田、上野、湯島などの盛り場の近くで警官の制止を聞かずに暴れる兵士たち。とても近代国家の軍隊とは言えないのではないか。そうしたことも憲兵の設置をうながしたに違いない。
 これから間もない6月14日、今度は芝愛宕下(しば・あたごした)である。現在の東京都港区、東京タワーに近く、愛宕神社のそばで事件は起こった。
やはり休日の昼下がり、巡邏中の少警部(巡査、警部補の上で軍隊では士官にあたる)が人力車の上に乗って、大声で歌っている酔った兵士3人を発見した。見苦しいと少警部は説教したのだろう。言うことを聞くはずがない。暴言を吐いたというから、どうせ「薩摩の郷士のくせに」くらいのことは言ったのだろう。当時、警察幹部のほとんどは元薩摩藩士だった。
少警部が3人を捕まえたところ、通りがかりの兵士が30人ばかり集まり、周囲を囲み、道をふさいだ。そこで慎重に説諭して彼らを納得させ、主犯の1人を巡査屯所に引きいれたところ、200人ばかりの兵士がそこを襲ったのである。投石、窓を壊す、ドアを引きはがし、制止する警官数名を銃剣で傷つけもした。警視庁は鎮台と陸軍省にかけあって、陸軍裁判所で犯人たちは裁かれることになった。
翌8年3月にも上野公園で兵士と巡査の衝突があり、4月にも同じような事件があった。4月の事件はその場で兵士が逮捕されたが、その仕返しだといって兵士たちは警官を罠にかけた。数人がわざと服装を乱して騒ぐ、20人あまりの警官が取り囲むと、周囲に隠れていた数百名の兵士がそれを襲った。警棒は奪われて折られ、警官の官帽は池に投げ込まれたと新聞にも載った。
とにかく軍服を着た兵士たちは警察官などなんとも思っていなかったのである。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(令和二年(2020年)1月22日配信)