自衛隊警務官(5)─陸軍憲兵から自衛隊警務官に(5) 近衛兵について

ご挨拶

 前号でお知らせしたように、ある総合雑誌から依頼を受け、自衛隊災害派遣とその実態にある現場のさまざまな問題を書きました。また自衛隊側の苦衷についても、少し触れるようにしました。自衛官は何でも屋でもなく、便利使いされる存在ではありません。道路が崩れていれば直す、民家の屋根にブルーシートをかける、みんな自治体からの依頼です。本来、企業がやるべきことも、その備えがなかったための事故対応にさえ「緊急性、代替性、公共性」を元に無理やりねじこまれます。
 心ない論者もいるもので、武装を解除して災害派遣専門組織にしろなどという、まったく現実性のないことを言う人までいます。もちろん、わが国の安全を脅かすために、自衛隊の勢力を減らしておこうという確信的な意図に基づいて発言する人もいるのが現実です。そうした敵対勢力の発言に踊らされて、自衛隊を削減しろという人も国民の中には5%近い割合でおります。
 反戦・反軍思想とはいつの時代にもあるものです。それが一定の割合で存在することは認め、許してきたのがわが国の近代でした。大正時代の末のこと、「大学内での軍事訓練反対、現役将校配属反対」のビラを配っても逮捕されることもなかったのです。
 昨年の防衛白書にもありますが、国民が自衛隊にもっとも期待することを問うと、国防(60%)ではなく、80%もの人々が「災害派遣・患者緊急輸送」を筆頭に挙げる。そこのところがわが国の特異性です。また、自衛隊の装備・人員について、増強せよという声が3割の半面、現状のままでよいという人が6割にものぼります。
つまり、5人に3人もの人が、現状を知っているのかどうかは別にして、増やすことも減らすこともなくてよろしいというのです。これが国民の本音ならば、その反映である国会の議論も推して知るべしですね。
興味深いのは某野党党首の中東への護衛艦派遣についての意見です。戦争に巻き込まれるから止めろ、危険だからよせというのは良いとして、わが国の生命線である石油輸送路の安全確保はどうするのでしょう。どこか外国に日本タンカーの護衛を頼むのか、それとも国民みんなが石油不足に耐えるのか、誰にでも分かる話をしてもらいたいです。
今回は近衛兵に入る前にその前身の御親兵について詳しく見ようと思います。とくに服制はその国の文化です。

武士の精神

 薩長土3藩の差し出した「御親兵」が近衛兵の前身である。教科書には政府直属の兵と書かれている。字から見れば、まさに天皇の手元の兵だが、本質は教科書通り政府直属の軍隊である。1871(明治4)年2月22日、兵部省の管轄とした。その内訳は、鹿児島藩歩兵4個大隊、砲兵4隊。山口藩歩兵3個大隊。高知藩歩兵2個大隊、砲兵2隊、それに騎兵2個小隊だった。
ところで、鹿児島藩とは薩摩島津家、山口藩とは長門毛利家、高知藩とは土佐山内家のことである。藩という用語が公式になったのは、実は明治になってからだった。そのときに藩庁所在地の名称をつけることに統一された。
それにしても各藩兵がどのようにして、出身藩のくびきから逃れて、新しい国軍の兵士となれたのだろうか。それはなかなかの時間をかけたとしか分からない。武士はその主君に忠誠を誓うことで自らの存在意義をつくってきていた。山縣有朋(長州出身の徴兵制を主導した大村益次郎の後継者)は、「たとえ薩摩守殿であろうと、天子様に反逆したらこれを打ち果たすのが新しき兵隊の任務である」と説いたという。御親兵の主力となった薩摩藩兵に、封建時代の藩公への忠誠心を捨てて、新しい天皇に従うことを言い聞かせたのである。
各藩には独自の士道があったのだ。興味深いのは、武士たちの大規模な実戦の機会は、徳川時代初期の「島原の乱(1637~8年)」が最後だった。それから幕末期までおよそ200年以上、平和が続いたのである。
武士は多くの役方(やくがた・行政官)と少数の番方(ばんかた・武官)になり、軍事訓練もめったに行なわれなかった。役方のエリートの高級旗本だった江戸町奉行大岡越前守が鎧兜に身を固めて演習場で走り回ったという記録もない。
ところが、幕末になると、多くの武士たちが小銃を撃ち、戦場で突撃し、格闘戦を行なったのだ。これはどうしてそういうことが可能だったのか。それは彼らが、自分を戦う者だと規定し、学び続けてきたからだ。
多くの戦国時代以来の大名家では、昔の戦いの様子が口伝され、あるいは史書に描かれていた。その中で、戦いとは何か、戦士はどう振る舞うものかを継承していたのである。有名なのは関ヶ原における薩摩兵の凄惨な撤退行だった。少数の薩摩兵は決死の覚悟で主将を逃すために敵中を突破した。それを200年もの間、藩士共通の誇りとして語り伝えてきたのだった。
防長2カ国に押し込められた長州毛利家もまた、華々しい合戦談、苦しい敗戦の記憶を子孫に受け継いできたのである。では戦国期には存在しなかった大名家ではどうしたか。それは各藩の学校で十分な思想教育を行ない、他家の歴史などから学んでいたのである。御三家で知られる尾張・紀州・水戸の士風を比べると興味深い。尾張・紀州の両家には実戦経験が豊かな武士が多く配属され、大坂の役(1614~5年)でも実戦の経験を積んだ歴史がある。対して水戸家のみは華々しい戦いの経験がなかった。そこで、拠り所として「大日本史」の編纂を行なったと考えられる。

御親兵の訓練はフランス式になる

 こうして1個の組織として御親兵は発足したが、すでに「兵式はフランス式に統一する」と決まっていた。山口と高知の2藩はほぼフランス式だったが、薩摩はなんとしても英国式に固執した。高名な村田経芳は幕末以来、英国陸軍の射撃術を学び、薩摩軍は英国式の軍楽隊、ラッパ隊も持ち続けていたのである。
 
 この改革に賛成したのは、薩摩勢力の中では西郷隆盛、西郷従道、大山巌、野津鎮雄(しずお)、野津道貫(みちつら)という面々だった。反対し、英国式を変える必要なしとしたのは、桐野利秋、篠原国幹(くにもと)、逸見十郎太(へんみ・じゅうろうた)、別府晋介(べっぷ・しんすけ)というメンバーだから興味深い。フランス式支持派はのちの官軍の高官であり、反対派はみな西南戦争(1877年)の薩摩軍幹部である。
 こうした反対派にはまさに薩摩藩兵のカリスマだった西郷隆盛が自ら駐屯所の市ヶ谷旧尾張藩邸(現在の防衛省)に出かけ、兵たちと生活をともにしながら説得したという。

御親兵の服装

 興味のある方もおられるだろう。建軍当初の軍服である。『日本近代軍服史』(太田臨一郎、1972年、雄山閣)によって調べてみよう。1871(明治4)年7月24日の兵部省達では、砲兵・騎兵・歩兵とも上衣はみな紺色である。そうして袴(こ・ズボン)は砲兵・騎兵は赤、ただしサイドに線が入る。砲兵は黒、騎兵は黄色だった。歩兵のズボンは鼠色の霜降(しもふり)でサイドラインは黄色である。
 先年、陸上自衛隊の制服が変わり、緑色から紫紺(しこん)といわれる濃紺色になった。おかしいとか、陸軍の伝統は緑だとかいう反対意見が多く、筆者にも同意を求める人が多かったが、アメリカ陸軍も正衣は紺色だし、日本陸軍の始まりも紺色だったのだ。米軍や韓国軍と似た陸自の緑色制服こそ、過去の伝統にはない色だった。
 帽子はキャップ型で騎兵が赤、歩兵は紺色で砲兵は「種類ニ従ヒ形色ヲ異ニス」とある。略帽(ふだんかぶる)と正装の帽子と異なるのだろう。
 帽子の正面の「前章」は「日章」といわれるように太陽をかたどっている。上等士官は金色、下等士官は真鍮(しんちゅう)、兵卒は「塗色(としょく)日章」とある。服の生地も区別があって、少尉以上は本絨(ほんじゅう・目の細かい毛織)、曹長以下は大絨(だいじゅう)といい、目の粗いウール織りだった。
 階級表示は軍帽の鉢巻の金筋と、上着の袖の金線の太さと本数である。面倒をかえりみず書いてみよう。軍帽の鉢巻の周囲に、大は5分(約15ミリ)、小は1分(約3ミリ)の幅がある金線が巻かれる。少尉・中尉・大尉は小1本から3本。少佐は4本、中佐5本、大佐は大1本に小1本。少将は大1に小2、中将は大1に小3、大将は大1に小4本である。
 そうして帽子の頂上には金星がつく。この星は五稜星(ごりょうせい)である。陰陽師が結界をつくるときに描く、フランス式ならペンタグランマだった。尉官は2個、佐官は3個、少将4個、中将5個、大将が6個とにぎやかになってゆく。
 袖の階級表示は、やはり帽子と同じく大1寸(約3センチ)、小2分(約6ミリ)の幅の金線の数である。これはまったく帽子の鉢巻きに巻かれた金線の種類と数は同じである。中佐までは小5本、大佐になると大1本と小1本だった。大佐というのは西欧の軍隊でもカーネルという地位があったからか。
 下等士官と兵卒も帽子と袖の黄色線の数で階級が分かった。帽子の線は、大は3分、小は2分で、二等兵卒小1本、一等兵卒小2本と増えてゆき、伍長が小3本、軍曹になると大1本、権曹長(ごんのそうちょう)が大・小各1本。曹長は大1本に小が2本になった。袖の階級章も大きさが異なるだけである。大は4分(1.2センチ)、小が2分である。帽子の頂上には黄色の星が1つである。
 次回では、西南戦争で「赤い帽子がなけりゃ、花のお江戸に躍りこむ」と歌われた近衛兵について書いてみよう。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(令和二年(2020年)1月15日配信)