自衛隊警務官(41)─陸軍憲兵から自衛隊警務官に(41) 日本語に堪能な語学将校たち

ご挨拶

 自民党総裁選もさしたる波乱もなく、予想通り菅氏の圧倒的な勝利でした。2位にも順当に岸田氏が入りました。やはり、石破さんはさほどの得票の伸びもなく終わり、やはり政策論争をする時間が足りなかったとぼやいていました。
 今度の防衛大臣は、岸氏といって安倍前首相の実弟の方だそうです。そうであるなら、路線もそう変わることがないだろうと安心しています。

日本語を学べ

 初戦のうちに捕虜になった日本軍人にとっての大きな驚きは、日本語に堪能な白人の将校がいたことだという。彼らは呼びかけた。「おーい、少尉に中尉、大尉はこっちだ。大将はいねえか?」
 この将校たちの中には、大急ぎで連合軍が集めた、もともと日本に滞在したり、日本語に馴染んでいたりした学生上がりの予備士官たちがいた。
 開戦後3年目の1943(昭和18)年秋、ようやく大学生や専門学校生の徴集猶予取り消しをしたのがわが国である。これと違って、欧米では開戦すると、すぐに大学生は次々と入隊した。もとから大学にあったROTC(予備将校訓練コース)の履修生ばかりではなく、現役の学生は続々と入隊する。
 それは歴史や文化の大きな違いである。もともと欧米社会は「潜在的軍人社会」だと指摘したのは鯖田豊之氏だった。有事にあっては、男子たる者進んで戦うというのが欧米社会である。これに対して、いまでも「学生が学問をすることをやめさせられた。だから軍部は……」というのが日本人。これでは総力戦ではとても敵うわけもない。
 身体の具合が悪くて軍隊に志願できなかった。無理解な周囲の白眼視や、女性からの嫌がらせを受けて自殺者が出てしまうのも欧米である。
 アメリカ軍が、白人や日系2世を対象に情報兵の教育を始めたのは開戦前の1941(昭和16)年11月のことだった。60人の生徒と4人の日系人教師が集まって、サンフランシスコに情報学校が設けられた。翌年6月には45人の卒業生が巣立ったという(山本氏、前掲書)。

日本語学校と大学での教育

 
ところが西海岸に日系人はいられなくなった。そこで受け入れ先はミネソタ州のサベージ基地に6月に移転することになる。これをMIS(陸軍諜報学校)言語学校という。第1期生は200人、教員は18人である。第2期生は1942年の12月からだった。この時期からは、日本文化一般の習得より、軍事的な内容に重点が変わった。1944(昭和19)年8月までに1600人もの日系2世の下士官と194人の白人将校が育った。
 日系への差別は続き、階級では決して士官になれなかった。本土の収容所やハワイからも数百人の応募者を求めるようにもなったが、将校になるのは白人だけだった。
 海軍はカリフォルニア大学のバークレーに日本語学校を開いた。ここでも西海岸の日系人排斥のおかげでコロラド大学ボールダーに移転する。毎期600人以上の白人学生がいた。ミシガン大学の陸軍集中日本語学校では、3年間に1500人以上の将校と下士官を育てた。

「戦陣訓」についての誤解

 1941(昭和16)年1月に、東条英機陸軍大臣名で「戦陣訓」という冊子が出た。よくいわれているのが「生きて虜囚の辱めを受けず」との文言が、捕虜を出さず、自決や無謀な突撃に追い込んだといわれる。
 しかし、全文をよく読んでみると、俘虜になるなというのはごく一部の主張にしか過ぎない。実は陸軍は中国戦線での軍紀の退廃、捕虜の続出に悩んでいた。支那派遣軍参謀部では、「俘虜ニ関スル教訓」という文書を出している(『捕虜の文明史』吹浦忠正)。
 そこでは大きな問題として、「敵の処遇を受け入れ、尋問されると我が軍の状況を話し、敵を礼賛し、阿諛追従(あゆついしょう)し、敵の要求するままに、わが軍に対し反軍、敵を礼賛する放送などを行う(現代語に意訳した)」ことを挙げている。
 こうしたことについて悩んだ当局が、一般兵に分かりやすく規律を守ることの重要さを説いたのが「戦陣訓」だった。その一部に、「虜囚の辱めを受けるな」とあったのである。
 海軍では、やはり、あの文書は陸軍のものだという反応が普通だったらしい。海軍将校たちからの聞き取りや、下士官への質問にも、ほとんど知らないという答えが多かった。

2人の語学海軍士官

 海軍兵学校を卒業、艦上爆撃機搭乗員だった豊田穣(とよだ・じょう、1920~1994年)海軍中尉は捕虜となった。99式艦上爆撃機が撃墜され、偵察員といっしょに漂流中に捕まった。ニューカレドニアからハワイに送られ、そこで出会ったのがドナルド・キーン(1922~2019年)海軍少尉だった。
 キーン氏は1938年にコロンビア大学に飛び級を繰り返し入学した優秀な日本文学研究者である。戦後は日本に定住し、2011(平成23)年には日本国籍も取得した。この人が初めて出会ったのが豊田中尉だったという。豊田は当初、偽名を使い正規士官であることを隠した。しかし、所持品や漂流の経緯、経歴の詐称などの矛盾点を鋭くつかれ、ついに事実を語った。その後も航空機の性能や空母の詳細などについて、米軍にとってかなり貴重な情報をもたらしたという。
 豊田はその後に、同期生の「太平洋戦域捕虜第1号」酒巻和男少尉とともに行動する。小説であるからすべてが事実とはいえないが、収容所での体験を描いた作品群がある。
 べらんめぇ口調で捕虜の度肝を抜いたのがオーティス・ケーリ海軍少尉だった。ケーリはキーンと同じく海軍日本語学校で学んだ。日本語会話が得意なのも当然で、1921(大正10)年、北海道小樽市に生まれた。父は同志社理事である宣教師だった。
 14歳でアメリカへ帰国し、アマースト大学に学ぶ。43年には海軍少尉に任官、ハワイの捕虜収容所長になる(終戦時には大尉)。1947(昭和22)年に来日し、同志社大学に教員として入る。
次回は、彼らの紹介も兼ねて、日本人捕虜のさまざまな実態を調べてみよう。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(令和二年(2020年)9月23日配信)