自衛隊警務官(34)─陸軍憲兵から自衛隊警務官に(34) 赤十字社員・衛生部員の送還

ご挨拶

 台湾の李登輝元総統の御逝去に心からお悔やみを申し上げます。また先週は、韓国陸軍の白善燁将軍が亡くなられた知らせがありました。李元総統は京都帝国大学から日本陸軍の予備士官学校から少尉になられ、白大将は満洲帝国の軍官学校を出た少尉でした。お二方とも日本語に堪能で、昔の日本が大好きな方々でありました。
 白大将は朝鮮戦争の英雄であり、その後のご活躍も目覚ましいものでした。わが自衛隊にも親しくご指導を下さり、わたしも二人きりでホテルで朝食をご相伴したことがありました。そのときのお教えの中での日本歴史への深いご造詣にはいまも感動しています。ところが、韓国ではいま、白大将の評価が親日派という非難と、救国の英雄という賛美と割れているとのこと。隣国のことながら哀しいです。
 李元総統については、現政権では弔辞を送るだけとのこと。いつもながら詳しい説明もなく、官房長官もその理由や背景について何も言いません。この安倍政権はいつもそうです。批判や論評にまっすぐ向き合わず、なんとなく過ぎてゆくのを待っているだけのような気がします。政府は、日本国民は「義」というものを忘れたのか。哀しいです。

森軍医監の日露戦争

 鴎外こと森林太郎軍医監(少将級)は、日露戦争に第2軍軍医部長として出征した。第2軍の司令官は奥保鞏(おく・やすかた)大将である。軍司令部には副官部、参謀部などの幕僚と軍医、経理、獣医などのセクションがあった。軍全体の衛生をになうのが軍医部である。
 
 当時の衛生部の編成を説明しよう。各部隊には軍医(佐官・尉官相当官)、看護長(下士)、看護手(上等兵相当)がいて、傷病者を収容・救護した。前線のすぐ後方には仮繃帯所(かりほうたいじょ)を開設する。そこで応急手当てを行なう。看護卒というのは後方の病院勤務の兵卒をいい、兵科の2等卒と同じだった。
 師団には戦時編制の中に衛生隊があった。衛生隊といっても、その指揮官は兵科の少佐、もしくは大尉である。担架中隊をいくつか持っていた。もちろん、衛生隊にも軍医や看護長以下の下士・看護卒も所属した。この衛生隊の役割は戦場で傷病者を捜索し、繃帯所に運ぶことである。
 繃帯所で手当てを受け、そこからさらに運ばれるのが野戦病院だった。野戦病院は名前は病院だが部隊である。師団に歩兵聯隊と同じ数だけあり、前線や繃帯所から患者を受け入れ、やや完全な病院治療を行なうことができた。病院長は3等もしくは2等軍医正(少佐もしくは中佐相当官)である。軍医だけでなく薬剤官も所属していた。兵科将兵による護衛隊も付属する。
 以上を野戦衛生機関といい、運用は師団軍医部長(1等軍医正=大佐相当官)の任務であり、その業務を指揮・監督した。
 師団の戦闘担任区域を野戦地区という。野戦衛生機関はおおよそ、この地区内で活動する。数個師団で構成される軍の野戦地区の後方には軍兵站地区があった。兵站(へいたん)というのは組織全体を指す。そこには衛生予備員という定員があり、野戦病院を引き継いだり、後方に定立(ていりつ)病院を設けた。兵站病院は定立病院のさらに後方に置かれた。きちんとした建物があり、設備もいわゆる病院である。
 兵站にはさらに患者輸送部があった。これも部隊の形をとり、野戦病院と定立病院の間の患者の輸送を行った。以上を兵站衛生機関といい、兵站軍医部長が指揮をとった。鴎外は日清戦争では、このポストについていた。軍兵站地区の司令官は軍兵站監(兵科少将)である。
 軍軍医部長とは軍司令部にあって、野戦、兵站の軍全体の衛生機関を統括した。

赤十字職員の送還

 1905(明治38)年3月10日、奉天(ほうてん)大会戦は終わった。陸戦の勝利を導いた大会戦で、戦前日本ではこの日を陸軍記念日とした。海軍は5月27日の日本海会戦勝利の日を海軍記念日として祝った。
 第2軍の第4師団が奉天城内に突入し、城門に旭日旗を立てた。また、第8師団は退却中のロシア軍1個旅団を包囲し、その多数を降伏させた。
 問題は城内に残っていたロシア赤十字の医療要員とロシア軍の衛生部員の扱いだった。鴎外の残した手紙によると、ロシア軍が残した病院は5つ、衛生部員と赤十字社員将校相等が38人、篤志看護婦が31人、下士相当者22人、衛生卒324人、敵の患者約2500人だったという。
 すでに読者は知っておられる。当時の陸戦規約では、衛生部員は相手の前哨に届けなくてはならない。当然、ロシア赤十字は社員の送還を要求した。捕虜ではないのだ。しかし、ことは単純ではない。国際条約がそうであっても敵の衛生要員を解放したら、敵の戦力回復に貢献することになる。軍では敵への送還の当否で議論が起こった。
 鴎外は主張したのである。国際条約は守るべし。陸戦規約で決められたとおり、直ちに相手側に送還すべきだと。第1次送還は22日に行なわれた。衛生部軍医官24人、同下士49人、兵卒240人、そして従軍僧2人、従軍商人4人である(『捕虜の文明史』吹浦忠正、1990年、新潮選書)。

将校への諭告をする鴎外

 送還される将校たちに鴎外は語った。諸官の中には、どうも戦闘員らしき疑いがある者もいる。どころか、中には赤十字の徽章をもちながら、実は戦闘員だと自白し、捕虜として抑留されたいと申し出た者もいる。また、現に戦闘員であると主張し、赤十字徽章を外した者さえいる。
 そうであっても、わが軍はあくまでも赤十字徽章を尊重し、抑留時に徽章を帯びていた者、あるいは無くしたという者もみな衛生部員として送還の手続きをとった。ただし、ロシア軍は赤十字徽章を濫用(らんよう)することがあることを事実として言うしかない。貴官らは帰還したら、当局者に向かって、きちんと報告して欲しい。
 実際、階級の上下を問わず、赤十字の徽章をつけて非戦闘員であることを示そうとする戦闘員が多かったのは事実らしい。
 鴎外といえば、文学上の業績ばかり語ったり、脚気病の戦争犯罪人のような罵言を浴びせたりする人が多い。しかし、森林太郎は軍医総監にも登りつめた優秀者で、しかも外国通の知識人でもあった。功績も当然あった。次回は軍医総監になってからの業績を紹介しよう。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(令和二年(2020年)8月5日配信)