自衛隊警務官(33)─陸軍憲兵から自衛隊警務官に(33) 森林太郎(鴎外)の貢献

ご挨拶

 依然として梅雨が明けません。いったいどうしたことでしょう。21日には、という予測もあり、25日にはという声もありましたが、今日26日も当地横浜では雨が降っています。九州でも災害の復旧だけで大変なようです。繰り返し、お見舞いを申しあげます。
 さて、今日は文豪として有名で、同時に明治・大正の脚気病問題で、すっかり悪玉になっている森林太郎(鴎外)についての話題です。軍医として、彼は当時、ドイツ語の専門家として国際会議にも出たり、クラウゼビッツの「戦争論」の翻訳紹介をしたりという活躍もしていました。
 今日は彼の国際人道法についての功績をお話します。

森林太郎のドイツ留学

 鴎外こと森林太郎陸軍軍医がドイツ留学の辞令を受けたのは1884(明治17)年6月だった。ベルリンに向かい、のちにライプチヒ、ミュンヘン、ベルリンの各大学で指導を受けた。帰国後は、当時の陸海軍を悩ませていた「脚気(かっけ)」について、細菌説を唱える。対して英国流の臨床主義を信奉した海軍軍医団と激しく対立した。
この脚気論争については拙著『脚気と軍隊』(並木書房、2017年)を参照していただきたい。わたしの持論、過去の人の業績を語る時には、「後出しジャンケン」(結果が分かっている現在からの断罪)はやめようではないかということを主張するために書いたものだ。
 鴎外の履歴について、よく知られていることだろうから簡単にまとめておく。1862(文久2)年というから幕末である。石見国津和野(いわみのくに・つわの)の城下に鴎外は生まれた。家は親代々の藩医官だった。本名を林太郎(りんたろう)という。津和野は現在、島根県にあり、山陰の小京都などといわれる。藩主は亀井氏、4万3000石の小さな外様大名である。
 幕末期には、有名な藩校「養老館」が藩士の教育を行なう。林太郎はここで7歳から9歳まで儒学やオランダ文典も学んだという。なお、明治陸軍の制度や精神に大きな影響を与えた西周(にし・あまね)は林太郎の伯父筋にあたった。
 1872(明治5)年に上京し、ドイツ語を学ぶ。74年には満12歳で、当時の第1大学区医学校予科(5月に東京医学校に改称)に入学した。77年4月には、東京大学医学部本科生となった。のちの東京帝国大学医科大学である。81年7月には満19歳5カ月で医学部を卒業した。大学に残ってドイツ留学を望んだが、卒業成績が振るわず、12月に陸軍軍医副(中尉相当官)に任じられ、陸軍軍医の道に進んだ。
 念願のドイツ留学は前任者が肺結核の発病により、任期途中の帰国となったことからである。1883(明治16)年に陸軍兵食の研究のために、勇躍、東京を出発したのだった。ドイツではまず栄養学を学んだ。わが国では、当時、食物についてはほとんど関心がなく、腹を満たせればいいというのが常識だった時代である。
 それがドイツでは、無機化学、有機化学、細菌学や生物学までが活用され、先端の学問にふれて、森にとっても大きな精神的な成長にもなったのだろう。もちろん、森は医師・医学者である前に、帝国陸軍軍人であり、現役軍医官であった。軍医の制度、軍陣医学、医事行政なども学び続けたのだった。
 1887(明治20)年9月には、わが国赤十字社が前年に発足したことから参加を許された第4回赤十字国際会議にも参加する。ドイツのカールスルーエで開催されたそれには、前年にわが国がジュネーブ条約に加入したことによって許された。鴎外は代表の1人だった陸軍軍医監石黒忠悳(ただのり)の随員として通訳も務め、わが国がジュネーブ条約の普及にいかに尽力しているか主張もしたという。

出征と偕行社記事

 1888年には帰国。新進気鋭の世界一流レベルの細菌学者と受け止められ、91年には帝国大学から医学博士の学位を授与された。陸軍軍医学校などで教育にあたり、94(明治27)年には日清戦争開戦から4週間後、8月末に中路兵站軍医部長という戦時補職が与えられた。
 中路兵站とは海岸線の釜山(プサン)から京城(ソウル)への陸路を担当する。兵站病院や伝染病舎などを設け、管理し、飲料水の確保状況など、衛生関係は兵站軍医部の担当だった。つづいて、10月には第2軍兵站軍医部長に転任する。遼東半島を攻略するために編成されたのが第2軍だった。翌年1月には山東半島へ向かい、占領した威海衛(いかいえい)で勤務する。金州でも働き、95(明治28)年5月には台湾総督府軍医部長となった。
 陸軍将校たちの研究雑誌、「偕行社記事」については、よく知られているだろう。鴎外こと森林太郎1等軍医正(中佐相当官)は1899(明治32)年2月号に「赤十字条約?(ならび)ニ其略評」という投稿を行なった。
 この内容は、まず16世紀からアンリー・デュナンまでの戦争と救護の関係についてふれた。つづいて1864年の10カ条(陸戦について)、68年の補足条項14カ条(海戦同前)について、詳しく解説をした。いわゆるジュネーブ条約のことである。

鴎外が紹介したジュネーブ条約

 この原本は現在ではネットで「官報」を検索すれば、すぐに読むことができる。分かりやすいように、現代語、漢字・仮名遣いに直し、要約してみよう。日付は1886(明治19)年11月16日である。

第1条 戦地仮病院と陸軍病院は局外中立と見なして、患者もしくは負傷者が、この病院にいる間は、交戦者はこれを保護して侵害してはならない。ただし、戦地仮病院、陸軍病院が兵力を使ってこれを守ろうとしたら局外中立の権利は失われる。
第2条 戦地仮病院と陸軍病院で任用する監督者、医師、事務員、負傷者運搬員と従軍説教師はその本務に従事し、負傷者が入院し、あるいは救助するべき者がいる場合のみ局外中立の権利がある。
第3条 前条に掲げた各員が勤務する病院が敵軍の占領下になっても本務を継続することができる。あるいは本来の所属隊に戻るために退去することができる。その場合において占領軍は敵軍の前哨線まで送致すること。
第4条 陸軍病院の器具・什器などは交戦条規によって処置する。その病院に勤務する者は各自の私有物の他は物品を携帯することは出来ない。ただし、戦地仮病院はその器具・什器を保有することができる。
第5条 負傷者を救助する土地の住民は侵害できない。その自由を奪うこともできない。交戦国の将官は住民に慈善を行うことを勧め、そうすることで局外中立の権利を持てることを広報する責任がある。
(住民が)その家屋内に負傷者を収容し、看護するときは、その家屋を侵すことはできない。また家屋に負傷者を受け入れるときは戦時課税の一部を免除され、家屋を軍隊の宿営場所に押収されることは免れる。
第6条 負傷し、あるいは疾病にかかった軍人は、その所属に関わらず受け入れ看護すべし。司令長官は戦闘中に負傷した兵士を速やかに敵軍の前哨に送致することができる。ただし、そのときの情勢により、送致することができるように両軍の協議が行われた場合のみに限る。
治癒後に兵役に堪え(耐え)ないと認めた者は本国に送還すべし。
また、その他の者でも、戦争中に再び兵器をとらないと盟約した者はその本国に送還すべし。
患者や負傷者が退去する時、その引率する者とともに完全に局外中立とする。
第7条 陸軍病院戦地病院と患者負傷者が退去の時は、標章として特定の一様の旗章を用いてその傍らに必ず国旗を掲げるべし。
局外中立の人員のためには臂(ひじ)章を装着することを許す。ただし、その交付は、陸軍官衙(かんが)がこれを担当する。
旗と臂章は白地に赤十字形を描いたものとする。

 残る8・9・10条は以上の実施までの手続きが書かれる。
 次回は、鴎外の解説と意見、また日露戦争においての森第2軍軍医部長の赤十字職員への配慮、帰国時の処置について調べてみよう。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(令和二年(2020年)7月29日配信)