自衛隊警務官(15)─陸軍憲兵から自衛隊警務官に(15) 日清戦争と憲兵

はじめに

 日清戦争は「初めて国民をつくった」といわれるほどの衝撃的な国難でした。大東亜戦後から(ときに今でも)、「大陸進出への第一歩」とか、「侵略の始まり」などと評価されてきましたが、よく検討すると、そうした中国・朝鮮は善玉、日本が悪玉という考え方は、事実を基に検討し直さねばなりません。
 陸軍は地域防衛型の「鎮台(ちんだい)」から、機動力や兵站を重視した「師団」に改編されました。鎮台とは読んで字のごとく、周辺地域を「しずめる」ためのものです。西南戦争(明治10年)以後、士族などによる反政府暴動はほぼ終息しました。その代わり、人々の心をとらえたのは、「自由民権運動」でした。内戦による経済の混乱、不平等条約による外国債務の負担、殖産興業の施策の鈍り・・・庶民の暮らしを直撃したのです。
 明治10年代(1877~86年)は、自由民権運動と、それにつづく憲法制定への要望とが「まず国家建設」を目標とする政府との戦いでした。
 清国は清国で、一部の改革から大艦隊を建造し、陸軍兵力を増やし、朝鮮への影響を強めてきました。その頃、わが陸軍は長大な海岸線をもち、鉄道建設もままならないといった状況でした。清国海軍のドイツに発注した新式大型艦をもった「北洋水師(威海衛を基地とした)」は黄海を支配するどころか、わが国沿岸の安全まで十分に脅威を与えていました。
 国内を戦場にしたくない。国民を守りたいと願った陸軍が朝鮮半島に進出し、積極的防衛方針に出た、これが「侵略」と簡単に片づけていいでしょうか。

山縣有朋軍司令官の呼びかけ

 日清戦争は「文明と野蛮の戦い」と福澤諭吉は言い、新渡戸稲造は「義戦」であると声明した。開戦の経緯はともかく、野戦軍司令官である山縣有朋大将の部下将校への訓示を見てみよう。以下は『捕虜の文明史』(吹浦忠正氏)からの引用である。
 山縣は『申告』といわれる文書の中で、「敵とすべきもの」を規定した。いつものとおり、現代語訳してみよう。
「我々が敵とするのは、ただ敵軍のみである。その他の人民は、わが軍隊を妨害し、もしくは加害をしようとする者以外は敵視するものではない。たとえ敵国の軍人であっても、降伏する者は殺してはならない」
 ただし、こうしたことも山縣は言っている。「敵国は昔からきわめて残忍の性質がある。戦闘にあって誤って敵の手に落ち『生け捕り』になったら、必ず残酷で死に勝る苦痛を与えられ、ついには野蛮でむごたらしい行為によって、その命を奪われる」
 だから、決して生きて捕虜になるな、潔く一死を遂げよ。そうして日本男児の気性を示し、日本男児の名誉を全うすべきだ、と言葉は続いていった。吹浦氏は、これをのちの昭和陸軍が出した『戦陣訓』の「生きて虜囚の辱を受けず・・・」につながると指摘されている。とはいえ、敵兵と住民と捕虜を区別し、協力的な住民と捕虜は保護すべきだと指導したことは評価できる。

大山巌の「命令」

 第2軍軍司令官は大山巌(おおやま・いわお)である。元薩摩藩士、砲兵の権威であり、西郷隆盛の従弟として知られている。大山は「降人俘虜傷者のように、我に敵対しない者に対しては愛撫せよ」と命じ、「敵国の一般住民については、我々の妨害をしない限り、これに接する時には『仁愛』の心で接するように」と説いた。また、略奪(りゃくだつ)を厳禁し、服や食物、器具などについて緊急に必要があるときは、相当する代価を支払って購入せよとも命じている。
 わが軍は仁義をもって行動して、文明によって戦うのだというのが大山の心だった。1886(明治19)年にわが国が敵味方の区別なく、傷病者を救護するといった「ジュネーブ条約(1864年)に加盟したときのことである。陸軍大臣だった大山は、解説書をつくり普及に心を尽くした。大山はヨーロッパに出かけ、普仏戦争の現場も観察し、国際法への関心が高く、日本陸軍を世界標準の軍隊にしたかったのである。

数字で見る日清戦争

 日清戦争と陸軍をおさらいしておこう。まず、開戦直前の人口は、男性2091万人、女性2048万人、合計で4139万人となる(概数である)。1889(明治22)年に出された徴兵令では、徴兵の対象となる壮丁(そうてい)は、検査の年の前年12月1日から当年の11月30日までに満20歳の誕生日がある者をいう。入営は12月1日となる。だから、戦後のドラマや映画で、みんな小学校の同級生だったというのは明らかな間違いである。学校の学齢の規定は、前年4月2日から当年4月1日に生まれた者が同級生となる。
 さて、この壮丁が徴兵検査を受けた。合格すると、常備兵役になった。満3年(海軍は4年)の現役と満4年(海軍は3年)の予備役に服した。この常備兵役7年を終えると、後備兵役に編入された。後備兵役は5年間だった。この他に満17歳から満40歳までの男子が編入されたのが国民兵役である。
 徴兵検査の結果、甲種合格者と乙種合格者が順に抽籤(ちゅうせん)を引き、落選した者は1年間の予備徴員(よびちょういん)となった。丙種合格者と予備徴員を終えた者は、国民兵役に服した。予備徴員の制度は、のちに補充兵役となり服役年数も増えた。
 日清戦争に動員(戦時編制の軍隊に入ること)されたのは、現役兵と予備役、後備役の者だった。だから兵卒は満20歳から32歳までである。当時の兵役人口はざっと424万人だった。全国人口のおよそ10%にあたる。
 大江志乃夫氏の『東アジア史としての日清戦争』(1998年・立風書房)によれば、1893(明治26)年の壮丁数は43万2340人、うち20歳以上は4万7804人、20歳の壮丁が38万4536人だった。20歳以上は前年検査で翌年の再検査に回された者、中等学校以上に在学中などで徴集猶予を得ていた者である。
 壮丁のうち入営したのは志願兵780人、籤にあたった者が1万9845人だった。合計2万625人。予備徴員は10万675人になった。海軍は現役から459人、予備徴員が426人でしかなかった。海軍は、そのほとんどを志願兵でまかなっていたからだ。

予備役・後備役がいなかった憲兵

 現役軍人の数は、将官とその相当官(軍医、経理などの各部相当官)が63人、佐官と相当官が626人、尉官と前同が3780人、准士官49人、下士1万2987人、兵卒25万1847人、諸生徒2181人の合計27万1623人だった。
 予備役と後備役は、将官同相当官の予備23人、後備23人、佐官同予備104人、後備同161人、尉官同は予備460人、後備同760人。下士は予備4054人、後備6780人だった。予備役の兵卒は歩兵約6万、騎兵約1300、砲兵約6300人、工兵約2700人、輜重兵約1400人である。その他約1万8000人で、合計は約9万人だった。その他というのは輜重輸卒や衛生卒・同助卒、砲兵輸卒・同助卒などの雑卒(ざっそつ)といわれた人たちである。後備役は約10万4000人だった。だからフルに動員したら、当時の陸軍は総兵力46万人あまりとなるはずだ。ただし、実際は予備役・後備役の召集は、彼らの体調の問題や、社会での彼らの役割などから「得員率」は不明だが、おそらく40万人あまりになったに違いない。
 現に大江志乃夫氏の推計によれば、内地約6万9000人、外地は約17万8000人が服務したといわれている。

憲兵隊の人員

 さて、軍令憲兵といわれた野戦軍付きの憲兵はどれだけいたか。憲兵の任務は、たいへん範囲が広かったが、主に占領地の治安維持、捕虜の護送・監視、進撃路にあたる地域の偵察、司令部の警衛などである。さらに、進撃した軍隊の後方を進み、落伍兵や遅留兵の収容、救護などだった。
 日清戦争には689人の憲兵が野戦に出た。当然、不足し、戦時補助憲兵という制度を発足させた。短期講習である。2カ月の教育で、憲兵は次々と出征した。また、部隊ごとに、その単位のまま補助憲兵に編入するという施策もされた。
 憲兵の業務は広い範囲に及ぶが、駐留軍中では宿営地の風紀、軍紀の維持、特に暴行や略奪の防止、敵のスパイの摘発、倉庫や物資集積所の警戒が重要視された。さらに、当時の戦争では、戦死よりも病死が多かった。衛生環境を整えたり、清潔法といわれた法規の順守をさせるなどが重要な任務となった。
 次回は捕虜の問題についてさらに調べてみよう。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(令和二年(2020年)3月25日配信)