自衛隊警務官(16)─陸軍憲兵から自衛隊警務官に(16) 戦場の憲兵

はじめに

 コロナ・ウィルスについて様々な事態が起きて、それがまた様々な波及事象を広げています。先日は小池都知事のテレビでの発言の効果でしょう。スーパーマーケットや食料品店ではパスタや米、カップラーメンなどが品薄になりました。もちろん、トイレットペーパーもティッシュの棚も空っぽです。
店の経営者が言っていました。「在庫もあるし、発注もしています。明日にはまた入荷します」。ところが、ペーパーもマスクも、ほとんど店頭には見当たりません。たしかトイレットペーパーは、ほとんどが国産原料で中国の問題は関係ないと説明され、マスコミも行政もそれを言いました。ところが、身近な店頭にはありません。
「買いだめをするな」とは言われるし、それはそうだなと納得もしますが、私も含めて多くの庶民は「いざとなっても困らないように」と自衛の気分があるのでしょう。
そうしてウィルスの媒介についても、「自分は加害者になることはない」という、まったく根拠のない自信を持っている人もいます。しかし、ウィルスは見えない敵です。これは有事です。気をつけて避けるところはきちんと守る。マスクをし、「3つの密」は確実に守る。「密閉空間、密度の高い所」を避けて、「人と密着しない」ということです。

戦々恐々、堵(と)に安んじず

『日本憲兵正史』に憲兵大尉の従軍記が載っている。それを紹介しながら、背景について解説したい。いつもの通り、原文のおもむきを損なわないように要約する。原文は★で表記し、□は筆者の補足である。
 岩井忠直憲兵大尉は、第2軍(軍司令官大山巌)司令部の憲兵長として出征した。部下は憲兵下士以下16名だった。
 
★戦場に到着してみると、清国の人民達は戦々恐々たる有様で、その多くは戦場から退避したらしく、家にいる者はなかった。家財や什器はもちろん、家の内外に散乱していて、その様子はとてもまともに見られるものではなかった。
 この混乱に乗じて、軍紀をわきまえない軍夫(ぐんぷ)たちが、財物を略奪した形跡があった。これは厳重に取り締まった。また、現地の人々には、わが軍は人民を守る立場にあることを説明し、民衆を安心させることに務めた。
□占領地の人々を安心させる。敵性意識を持たせない、これらを宣撫(せんぶ)工作といい、憲兵の重要な仕事の1つだった。また、軍夫というのは雇いの労働者であり、もちろん軍人ではなく、民間人の出稼ぎである。「軍紀の素養がない」と岩井大尉が嘆いたようにずいぶんと不規律な存在だった。
 軍紀に従う輜重輸卒や各種職工が不足し、内地の民間人の斡旋による労働者を使うしかなかった。また、職工なども雇うことがあり、第2軍所管でも1万2000名あまりも従軍していた。各師団でも1万人以上の軍夫が所属していた。
 規律がないといえば、衛生管理面でも問題が起きた。『日清戦役統計』によれば、人夫職工のコレラの罹患者数は4240人であり、死亡者は2749人にも達した。また有名な脚気についても1万2580人が病院に収容され、死者も873人になった。全体の死者は6589人(全患者数は4万7862人)にもなったのである。内地等への転送後の死者は含まなくとも、約14%にものぼった死亡率が出た。
 軍人と軍属は、入院者が6万7557人、うち死亡者は6627人であり、約10%だった。「金は儲かるが、命は保証されない」という軍夫の生活の厳しさが分かる。

大山軍司令官の言葉

★第2軍司令官大山巌大将が、金州で自分に言われた。先般、欧州に研究のため出かけたとき、欧州各国にはいずれも憲兵が設置されていた。わが国にも憲兵が必要だと、反対論もあったけれど、主張をし続け、初めて憲兵を置くことになった。この戦役で切実に憲兵が必要だということが分かり、とりあえず憲兵200名を派遣されたしと陸軍省に電報を打った。到着までわずかな兵力で困難だろうが、奮励されたいとのことだった。
□1894(明治27)年12月18日、陸軍大臣より以下の命令が出されている。『金州占領地に憲兵派遣を必要とするので、憲兵100名の将校下士の人名を申し出ること。ただし下士以下は直ちに第2軍司令部に配置せよ』

外国人の風評

★日本人は罪のない人民を殺傷し、また略奪の行為があったと外国人に風評があり、はたしてそれが事実ならば厳罰に処するようにせよ。また将来、これを決して起こさないようにと大本営から軍参謀長に秘密電報があった。
□このときの第2軍戦闘序列は、第1師団(山地元治中将)、第2師団(佐久間佐馬太中将)、混成第12旅団(長谷川好道少将)であり、参謀長は井上光歩兵大佐だった。井上光は、10年後の日露戦争では第12師団を率いて先遣師団長の重責を担った。
 経歴では、長州岩国藩の出身で、1851(嘉永4)年の生まれ、戊辰戦争では仙台から会津に転戦した。維新後には大阪兵学寮(士官学校の前身)青年学舎(速成の士官教育)を卒業後、天皇直属の「御親兵」を率いて上京し、1871(明治4)年には陸軍大尉に任官した。西南戦争(1877年)には歩兵第12聯隊第3大隊長少佐として出征、のち歩兵第1聯隊長になった。幕僚勤務も多く、戦場では勇猛といわれ、同時に「豪傑で強情」とも評価されている。
 欧州に出張中に日清開戦の情勢が高まり、ロシアから帰国し、第2軍参謀長になっていた。長州人(分家の岩国藩士)でありながら、主流には迎合しなかったとされる。筆者が注目するのは、日清戦争後に軍備拡張について聞かれると、「国民が安心する程度でいい」と答え、国力相応、分をわきまえるといった考えを持っていたようだ。大将には1908(明治41)年に死去する4か月前に補された。
★先頭部隊に編入
 井上参謀長から厳重な取締りを命じられたが、憲兵は後方勤務が多く、違反者の取締りが難しかった。そこで先頭部隊に配属を上申したところ、威海衛(いかいえい・軍港であり要塞も備え、激戦地になった)攻撃では、先頭部隊といっしょに行動し、良い成績を挙げた。
 ところが威海衛でも、民間の財物を略奪した形跡があるので、調査した。現地の住民の十数名に尋問したところ、支那兵が退却のときに奪っていったものと判明し、この証言者をともなって、先着していた神尾軍参謀に報告した。神尾参謀はただちに憲兵長からの報告として外国人記者団に発表し、日本兵略奪についての疑いは一掃された。
□退却する支那兵の略奪
 この頃の支那兵は種々雑多であり、教育程度の低さもとてもわが軍の比ではなかった。少し前の「進歩的研究者」などは、そのあたりの事情をぼかして、盛んに日本軍による略奪や暴行、さらには虐殺までも宣伝していた。ただし、真相は中国側がいまだに資料を隠し、宣伝戦に使っているので真実が明らかになるかどうかは謎である。
 たとえば、聞き書きであり、戦地からの便りなどによるが、清国兵の無知、乱暴、非常識な行為が残されている。たとえば、戦地で行方不明になった日本兵の負傷者の首が斬られ、口から喉に荒縄を通し、ひきずって歩いていた、救護しようとした非武装の日本赤十字社員に刀で抵抗するなどが知られている。
 こうしたことは、すべて「伝聞」で資料的価値が低いと「学者達」は主張し、日本軍の残虐性、侵略性の証拠として清国・中国側の記述資料を重んじてきたのである。筆者はそれらはやはり、何らかの意図があっての主張であろうと考えてきたのだが、近頃の教科書検定の逆行等も考慮すると、学問の名に価しないと考えるのだが。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(令和二年(2020年)4月1日配信)