自衛隊警務官(14)─陸軍憲兵から自衛隊警務官に(14) 交戦資格というもの

ご挨拶

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
陸軍憲兵から自衛隊警務官に(14)
交戦資格というもの
荒木 肇
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
□お礼とご挨拶
 コロナウィルス感染については、まだ先行きが不透明だらけです。ここで、いつもご愛読をいただいているK・M様から貴重なアドバイスをいただきました。紙面の都合で全文をご紹介できませんが、マスク着用による防護力の向上についての説得力あるものです。
 
 飛沫感染、また空気感染も含めて、コロナウィルスに対しての防衛手段としてマスクが有効であるというものです。また、外出時などで浴びる埃(ほこり)の中に存在するウィルスについても目からうろこが落ちる内容でした。髪の間に残る埃がウィルスの住みかになること、シャワーを浴び、髪を清潔に保つことなどなど、権威ある医師の方の論をご紹介いただきました。ありがとうございます。
 わたしも人ごみや密閉空間を避け、消毒用の手洗いをし、マスク着用を行なっています。地域によってはマスクの入手も困難という状況もありましょうが、ぜひ、免疫力も高めながらこの危機を乗り越えましょう。

交戦資格とは何か?

 戦場にはさまざまな人がいる。そこに住み、暮らす土地の民間人も、戦闘の担い手である複数の軍隊がいる。また、直接に戦火を交える者ではないが、各国軍隊に属する者もいた。この中で、「敵」と戦ってよい資格を持つ者はどれだろうか。というのは捕らわれた後に、捕虜として権利が認められるのは正規の交戦資格をもつ者だけだからだ。
 まず、19世紀のブラッセル宣言(1874年)では、交戦資格を4つしか認めていない。いわゆる「民兵」や「義勇兵団」に属する者も次の条件を満たせば捕虜になることができた。民兵とは民間人で編成された者で、いわゆる常備兵ではない者をいう。同じように、非常の際に民間人が自由意思で軍事行動などに加わるために編成した団体を義勇兵団という。
 正規の交戦資格をもつ者は、これから説明する4つの条件を満たしていなければならない。
部下のために責任を負う者が指揮していること。
指揮者の掌握下にあることが条件の1つである。要するに武装した「烏合の衆」では、正規の軍隊とは認められず、ただの不審者、暴徒と見做されることもあった。行動の結果起きたことのすべては、指揮官の責任になる。
 
遠方から認識できる固着の特殊な徽章をもっていること。
制服の着用がうるさく言われるのはここからである。また、どこの軍隊でも国家紋章や、独特のシンボルを徽章としている。固着というのは、取り外しが自由にできて、その結果、出したり隠したりすることを禁止する為である。
公然と武器を携行すること。
武器を隠して接近し、突然攻撃を加えてくる者は犯罪者である。これがわが国でも過去の対中国との戦争ではしばしば問題となった。民間人の衣服を着て行動する「便衣兵(べんいへい)」の存在である。日中両軍とも、これを使ったが、民間衣服の下には正規の軍衣を着て、戦闘時には交戦資格がある者として行動することになっていたが、しばしば徹底せず問題になった。
行動が戦闘法規、慣例を遵守すること。
現在でも各国ごとに「交戦規定(ROE)」を作り、軍隊にはこれを守らせるのが普通だが、当時でも敵の病院などの攻撃はしない、傷病兵やその看護者には危害を加えず保護するといった慣例はあった。
 以上の4つをすべて満たしていれば正規の交戦資格をもつ者とされ、たとえ敵軍に捕まり、あるいは投降しても「戦時捕虜」として安全を保障される資格になった。
 遠い昔のことだが、自衛隊をめぐる裁判が行なわれた。「自衛隊は違憲である」という判決を下した判事がいた。その裁判官は「軍隊を持たなくとも、不法な侵害、支配に対しては群民蜂起という抵抗手段がある」と語った。当時の共産党やその支持者、進歩的な知識人たちは喝采して判決をもてはやしたが、群民というのは軍隊とは異なる。
ただの民間人の集合であり、それが武装していたら「暴徒」でしかない。蜂起というのはただの暴動である。群民が「軍隊の構成員」として認められるためには、戦争法規を遵守しなくてはならない。その戦争法規を、「戦争を放棄した」憲法をもつ日本人がどのように守るのか。この判事の判断には、後に述べる1947年の条約改正と関係があるだろう。
ただの武装した暴徒は、国際人道法によって守られる存在ではない。侵攻してきた軍隊にとっては、犯罪者であり、捕虜にしても保護する義務もない。捕まったら人権を主張する権利も自由もなかったのだ。
第2次大戦中には、占領軍に対して果敢に抵抗する民間人がいた。いわゆるパルチザンや、フランスのレジスタンス、抗日ゲリラの構成員である。彼らは制服を着ず、徽章もつけず、武器を公然と携帯しないで戦うことが多かった。それが捕らわれて銃殺されるのも、仕方もないことだった。

第2次世界大戦の経験から追加された資格

 1949(昭和24)年には、「捕虜の待遇に関するジュネーブ条約」が結ばれた。以下の条件を満たす者が「敵の権力内に陥った者」を捕虜と認めることになった。
(1)軍隊の構成員、その軍隊の一部である民兵隊や義勇隊のメンバー
(2)抑留国が承認していない政府または当局に忠誠を誓った正規の軍隊の構成員
(3)公然と武器を携行し、戦争法規を遵守する群民兵(敵の接近に伴い自発的に武器を執った未編成の人々)
(4)従軍する文民たる軍用機の乗員、記者、需品供給者、労務隊員、軍隊の福利機関のスタッフ
(5)紛争当事国の商船の乗組員、民間航空機の乗員で他の法規によってそれ以上の好遇が受けられない者
 (2)は第2次大戦後多発した「内戦」の結果である。政府軍対反政府軍などが代表例である。ゲリラ戦争ともいわれたそれらでは、互いに捕虜にするかしないかと論議される事件が多く起きた。

1977(昭和52)年の補完「議定書」

 国家間の紛争に適用されるばかりではなく、いわゆる国内の「解放闘争」にも適用されることになった。反政府を掲げる武装闘争者も「内乱罪」などで逮捕・起訴されることなく、交戦権をもつ者、つまり捕虜になることができるようになったのである。言うまでもなく、捕虜になる以前の「戦闘行為」は罰せられることはない。
 今日では、スパイ(間諜)、傭兵(ようへい)は捕まっても捕虜の資格は得られない。スパイはたとえ、それが正規の軍隊の構成員でも、スパイ活動に従事していれば捕虜になれない。また、金銭などの契約で戦闘行為を行なう傭兵も犯罪者として扱われることになった。それまでは、義勇兵に類する者とみられてきた傭兵に対しての扱いが大きく変わった。

日清戦争での捕虜

 「ブラッセル宣言」はわが国にももたらされた。それは陸軍大学校教官だった有賀長雄(ありが・ながお)の功績である。この傑物については、『「日露陸戦国際法論」を読み解く』(佐藤庫八・並木書房・2016年)について詳しい。
 有賀法学博士・文学博士は、1860(万延元)年に大坂で生まれた。1882(明治15)年に東京帝国大学文科大学(後の文学部)哲学科を卒業。84年に元老院書記官となり、86年には自費でベルリン大学、オーストリア大学に留学する。
帰国して89年に東京専門学校(後、早稲田大学)教授となり、翌年には陸軍大学校国際法教授、日清戦争後の96年には海軍大学校でも国際法の教授となった。1909(明治42)年、母校の東京帝国大学文科大学社会学科講師を務め、1913(大正2)年には、清国の袁世凱(えん・せいがい)に招かれ、大総統法律顧問として清国憲法制定に寄与した。1921(大正10)年に死去。
 佐藤氏はさらに有賀博士の業績を詳しく記している。著作は多いが、「社会学」(1882年)、「国家学」(1889年)、また戦時国際法関連については、「戦時国際公法」、「万国戦時公法」、「日清戦役国際公法」などがある。
日清戦争(1894~5年)は、わが国が西欧文明国家と伍して行動することができることを証明する戦争だった。明治大帝はその宣戦の詔勅で、『苟(いやしく)モ国際法ニ戻(もと)ラサル限リ、各々(おのおの)権能ニ応ジテ一切ノ手段ヲ尽クスニ於テ・・・』とうたわれたように、国際公法を守るというのがたいへん重視されたのである。
有賀博士は大山巌第2軍司令部に同行した。また意外に思う人がいるだろうが、第1軍参謀長の桂太郎中将はドイツ留学時に国際法について、よく学んできたという評価があった。
海軍は髙橋作衛(たかはし・さくえ、1867~1920年)が従軍した。信州高遠藩の儒者の子に生まれ、1894(明治27)年、東京帝大法科大学卒、ただちに恩師穂積重遠(ほづみ・しげとお)の推薦で海軍大学校教授となり、国際法顧問として旗艦「松島」に乗り組んだ。
 
有名な威海衛(いかいえい)軍港での、清国海軍水師提督丁汝昌(てい・じょしょう)への情義を尽くした降伏勧告文を作成したといわれる。
次回は日清戦争での捕虜問題について語ろう。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(令和二年(2020年)3月18日配信)