自衛隊警務官(37)─陸軍憲兵から自衛隊警務官に(37) 捕虜収容所での暮らし

はじめに

 わが国は健気でした。幕末以来の不平等条約をなんとか改正したかったのです。とにかく欧州列国に、わが国は文明国であり、国際条約を懸命に守ると思われたかったのでしょう。日露戦争では、愛媛県松山市でのロシア兵捕虜への厚遇は有名でした。それが戦線のロシア兵の間にも伝わり、投降する時に「マツヤマ!」と叫びながら日本兵に近づく者もいたといいます。
 今日は、第1次大戦でのドイツ将兵の捕虜へのお話をいたします。日独文化交流もあり、映画にもなりました。

青島(チンタオ)要塞の攻略

 1914(大正3)年8月に欧州戦争が始まった。わが国は日英同盟の存在を理由に対ドイツ宣戦を布告する。
 独立第18師団と海軍第2艦隊は、ドイツの根拠地青島要塞を攻撃し、11月には膠州湾(こうしゅうわん)・チンタオと山東鉄道全線を占領した。師団名に独立がつくのは、通常、野戦軍では師団、旅団が複数まとめられて軍ができる。それがされずに第18師団が基幹となって攻略部隊を編成したからである。
 このとき4個攻城重砲兵大隊が加わり、その威力を発揮し、航空隊も初めて実戦に加わった。また、天津付近に駐屯した英国軍も連合軍として参戦する。
 両軍の参加兵力は次の通りである。日本軍総兵力は約2万9000人、死傷者数は同1250人、ドイツ軍は同じく約4300人、死傷者数は約800人だった。損耗率は日本約4.3%、ドイツが同18.6%である。日本軍の損害の少なさは、堅固な要塞に対して重砲約100門、軽砲同50門、37ミリ機関砲同30門という火力重視の戦闘を行なったからだ。
 10月31日、攻撃を始め、11月7日にはドイツ軍は降伏した。前死者は291人であり、日本軍が捕獲したのは軍人3906人である。

ハーグの協定による待遇

 捕獲した者のうち、衛生部員(軍医と衛生部下士卒)、経理部士官などの一部を「宣誓解放」した。管理した者の中にはドイツ国籍をもつ市民もいたが、翌年9月には青島に住んでいた民間人も加えた。この中には、のちに日本で洋菓子を作り成功したカール・ユーハイムがいた。
 捕虜の数にはいくつも説があり、ここでは4169人という吹浦氏の書籍に従おう。ただし異説もあり、警察の数字では4626人というものもある。
 捕虜は日本本土に移送され、全国12か所の収容所に入った。日露戦後の不況の中にあった地方では誘致運動が激しく行なわれた。捕虜集団の経済効果を期待したからだ。
 1899(明治32)年のハーグ協定の第17条には、捕虜の将校は、「その国の同一階級の将校の給与の同額を支給される」とあった。大正期の日本陸海軍大佐の俸給は月割にすると約262円、同少尉は同46円になる。今の消費動向から換算すると、1円の使いでは7000円くらいになるだろうか。大佐は約180万円、少尉は同32万円としていいだろう。
 将校は捕虜になっても給与が満額支給される。このことはおそらく、将校は捕虜という境遇にあっても勤務しているのと同じだという考え方になるようだ。第2次世界大戦の連合軍捕虜収容所を描いた有名な映画『大脱走』も、捕虜将校たちによる脱走計画や実行を描いたものである。逆にいえば、捕虜将校は脱走することも勤務のうちなのである。
 しかし、このハーグ協定は実行を強制されたものではない。日本軍は、捕虜であるドイツ将校たちを「休職」の立場にあると解釈し、日本軍同一階級将校の休職俸、すなわち6割を支給したらしい。
 准士官、下士官、兵卒の待遇については、捕獲した側に給養の義務があることとした。糧食、被服、寝具などは捕獲した国の同階級の者と同等とすることが規定されていた。わが国はそれらを誠実に守った。チンタオ要塞においては、ドイツ兵捕虜の中には予備役の召集兵、また徴兵であっても元の勤務先から給料が送金されてきた者もいたらしい。また、日本国内の在留ドイツ人たちからの援助もあったようだ。
 陸軍省文書『大正三年乃至九年戦役俘虜取扱顛末(とりあつかいてんまつ)』によれば、捕虜のために要した経費は約597万円(推定だが現在の約420億円)に達した。それが講和条約の締結でも償還はされなかったとある。つまり、まったく出し損だったという解釈がうかがわれる。
 また、ハーグ協定では、講和後には捕虜将校の受け取った給与は所属政府から返還されることになっていたが、これも敗戦国ドイツは払えなかったのである。

松山、丸亀、徳島を統合した板東捕虜収容所

 戦争が長期化することから、全国12か所の収容所を6か所に統合する。四国では、松山、丸亀、徳島の3収容所を廃止し、徳島県板東(ばんどう)に新しい収容所をつくることにした。敷地は5万7000平方メートル、約1万7000坪あまり、その中に将校用2棟、下士兵卒用8棟の収容棟をつくった。開所は1917(大正6)年4月6日である。
 収容された捕虜は1028人だった。うちわけは将校26、准士官76、下士官144、兵卒767、文官15である。特筆するべきは、これらドイツ人たちは、地元住民たちとの交流を大事にし、多くの技術や文化が日本にもたらされたことだった。このことは、日露戦後のロシア兵捕虜たちにはほとんど見られなかったことである。
 徳島県畜産試験場の技師たちは収容所の食肉製品、乳製品の製造所にしばしば見学に訪れた。収容所の中には捕虜による牧場などもあったからだ。また民間の牧場の経営や設備に協力した捕虜もいた。
 文化の移転では、福岡県久留米の収容所にいたカール・フィッシャーは、ワンダーフォーゲル運動をわが国に持ち込んだ。ゴム加工技術者だった将校のヒルシュベルクの指導を受けたのは地下足袋(じかたび)を製造していた日本足袋株式会社だった。この会社はのちにゴムタイヤの製造にも進出し、ブリジストンとなった。
 次回はさらに詳しく、この後の捕虜と日本軍について考えてみよう。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(令和二年(2020年)8月26日配信)