陸軍小火器史(51) 番外編(23)─陸自唯一の機甲師団

新刊上梓のご挨拶

 すでに日曜日の午後8時からお知らせのように、わたしの新刊『日本軍はこんな兵器で戦った-国産小火器の開発と用兵思想』の予約申し込みを始めさせていただいています。短い期間ですが、ぜひお申し込みをくだされば幸甚です。
 連載していました「陸軍小火器史」に大幅な加筆、訂正を入れ、実物の写真も陸上自衛隊のご協力で多く掲載できました。
 この本のねらいは、兵器がその時代の最先端の技術で企画、開発されたこと。時代のさまざまな制約のなかで、多くの先人たちの工夫や努力で完成されたこと、それを使った兵士たちの声や評価も取り上げてみました。
 戦前の帝国陸海軍については、多くの「誤った定説」があります。それを放置していては、いまのわたしたちの立ち位置も間違ってとらえてしまい、現状の兵器開発にも正しい視点をもつことができません。
 わたしも銃砲史が専門ではなく、素人の一人として専門の研究者の方々のご教示を受けながら、自分がより理解を深めるために書きました。ぜひ、手にとっていただければと思います。

はじめに

 自衛隊の資料館に保存されている小火器の話から脱線して、自衛隊の創設期からの戦車の話になりました。もとより戦車については素人ですから詳しいことは書けません。ただ陸自の歴史について、多少の関心があるために陸自の唯一の機甲師団について書いてみたいと思います。
それは、陸上自衛隊の師団は、甲と乙、それぞれ4単位と3単位の違いはあっても「金太郎飴」のように、すべて似た編制をとっていたなかで、第7師団だけは違っていたからです。北海道というソビエト連邦の侵攻が真剣に想定され、北方重視の陸自の考え方の1つの側面をもつように思えます。
 そうして現在は、西方重視、九州や沖縄、島嶼の防衛に力点がかかり、陸自は大きな変貌を遂げています。この施策を支えてきた人たちの考えはどうだったのか。指示した政治家たちはどのように思っていたのか。そんなことが気になっています。

13個師団の発足

 13個師団体制が発足したのは1962(昭和37)年のことだった。1月18日と8月15日の2回に分けて、従来の管区隊、混成団が師団に生まれ変わった。第1から第6までの管区隊、第7から第10までの混成団がそのまま同番号の師団となった。そうして第11から第13までの3個師団が新設された。
 この師団改編に帝国陸軍の伝統などはまったく考えられなかったということを確認しておきたい。師団司令部の所在地と番号が一致するのは、東京都練馬区の第1師団のみだった。しかも戦前の司令部は東京都赤坂区であり、都心近くにあった。それが当時は郊外の練馬区である。
 もちろん、師団番号は戦前も戦後も設置順であり、その点は一貫していた。帝国陸軍も第1(東京)、第2(仙台)、第3(名古屋)、第4(大阪)、第5(広島)、第6(熊本)と鎮台の設置順である。陸自の場合も同じ考え方で、米軍師団が朝鮮に出動、そのあとを埋めた順に置かれた。第1(東京)、第2(札幌続いて旭川)、第3(兵庫県伊丹)、第4(福岡)という管区隊の順番である。
ちなみに第5は北海道帯広、第6山形県神町という2つの管区隊。第7は北海道千歳市、第8熊本県熊本、第9が青森県青森、第10が愛知県名古屋の各混成団。新設された師団が第11は北海道札幌市、第12が群馬県榛東村、第13が広島県海田市町となった。
 戦前陸軍と戦後陸自の違いは、四国の香川県善通寺にあった第11師団がなくなったことや、日本海沿いの石川県金沢市の第9師団のあとに師団がないことである。もっとも、第11師団にはのちに混成団が置かれ、第14旅団になって現在に至っている。
 明らかなのは、13個師団のうち4個師団が北海道にあり、帝国陸軍が旭川の第7師団だけだったことと比べれば、いかに北方すなわち対ソ連軍重視だったことだ。それも当然で、戦前陸軍は防衛ラインを前に出し、満洲で戦うことを前提にしたことと比べて、戦後陸自は北海道へのソ連軍の着上陸を想定していたのである。まさに国土を侵されてから初めて戦う専守防衛の組織だからだ。

第7混成団から第7師団へ

 1955(昭和30)年の混成団新編の当時は、他の混成団と変わらず、第18普通科連隊を主力にして真駒内駐屯地(札幌市内)に置かれた。このときの第18普連は、連隊本部・本部中隊、管理中隊に普通科大隊4個(小銃中隊16個)、特車中隊、重迫撃砲中隊、衛生中隊というものだった。特科連隊も軽砲(105ミリ)、中砲(155ミリ)、高射の3個大隊があり、他に第7施設大隊、同偵察中隊、同武器中隊、同通信中隊、同補給中隊、同輸送中隊、同衛生中隊である。
それが1961(昭和36)年に機械化部隊への改編が行なわれた。まず、普通科連隊が3個に増えた。しかし、この連隊は従来の3個大隊からなるものではなかった。連隊の下に直に4個中隊と迫撃砲隊が置かれたのである。普通科連隊は第11、第23、第24の各連隊で、格別な部隊は第7装甲輸送隊といった。
特科連隊も、それまでの軽砲(105ミリ)、中砲(155ミリ)、高射の3個大隊が、軽砲3個、中砲、高射の5個大隊になった。戦車大隊は他の3単位の乙師団が3個中隊なのに、この第7師団戦車大隊は4個中隊の編制だった。
装甲輸送隊の装備は、国産の60(ろくまる)式装甲車といった。10人乗りの装軌式で小松製作所と三菱重工で、1973(昭和48)年までで約460輌が造られた。要目は次の通りである。車重11.8トン、全長5メートル、幅2.4メートル、高さ1.89メートル、最低地上高40センチメートル。空冷4サイクル8気筒ディーゼル・エンジン、出力220馬力、最高速度時速45キロメートル、航続距離約300キロメートル。武装は前方に7.62ミリ機関銃と車長席に12.7ミリ重機関銃を各1挺備えた。
この装甲車によって、1個連隊の普通科隊員を運ぶことができた。名称通り、装甲といっても輸送を中心にする車輌であり、まさに戦場のタクシー、キャリアーだった。後継の73式装甲車が「歩兵戦闘車」であることとは違っていた。

戦車3個連隊をもつ第7師団へ

 1981(昭和56)年、ついに機甲師団化が完成した。第7戦車大隊が第71戦車連隊に、第1戦車群の第2戦車群、同第3戦車群がそれぞれ第72、第73の戦車連隊になった。これで師団は3個戦車連隊をもった。
 ところが時代は・・・陸自の定員は少しも増えなかった。2個の普通科連隊、第23普連は廃止、第24連隊は九州の第8師団隷下に移された。ただし、残った第11普連は4個中隊から6個中隊に増えた。しかも3個普連の中にあった重迫撃砲隊を集めて、新しい第11普連重迫撃砲中隊にした。そうして、師団の支援部隊は合同されて、新しく第11後方支援連隊が発足する。
 特科連隊も自走化された。トラクターやトラックで牽引する火砲と異なって、戦車のようなキャタピラーを付けた自走砲である。高射大隊も特科連隊から独立して、自走高射機関砲4個中隊、さらには後には短距離地対空ミサイル(短SAM)2個中隊も加わり、名実ともに高射特科連隊となった。
 興味深いのは、当時、他の師団には対戦車隊という誘導弾武器の専門部隊があったが、第7師団にはこれがなかった。その代わり、1992(平成4)年になって、89式装甲戦闘車が第11普連に配備されるようになった。この戦闘車こそ対戦車戦闘が可能であり、砲塔には重MAT(ミサイル・アンチ・タンク=対戦車ミサイル)を搭載していた。

最強の装甲歩兵戦闘車89FV

 第11普連の3個中隊に装備された89式FV。本州では富士教導団に属する普通科教導連隊の滝が原駐屯地でしか見ることができない。普通科教導連隊(普教連)は全国の普通科装備を学ぶ幹部学生のための協力部隊である。だから、各中隊はそれぞれ異なった装備をもっている。第1中隊はこの89式戦闘車を担当する。たしか茨城県土浦駐屯地の武器学校とどこかの陸曹教育隊にもあると聞いたが、確認していない。
 まるで戦車のような外観、回転式砲塔とキャタピラーをもっているので、詳しくない人は戦車だと思うこともあるようだ。全備重量も26.5トン、全長6.8メートル、全幅3.2メートル、全高2.5メートルの堂々たる大きさである。
砲塔にはスイス・エリコン社のKDE口径35ミリ機関砲を載せ、7.62ミリ連装機関銃の銃口がのぞく。砲は87式自走高射機関砲の発射速度を落としたもので弾薬も共通化している。列国の戦闘車が積む砲の中でも格段に強力なものだ。
 毎夏の富士総合火力演習でも、初速1385メートル/秒といった高速弾を連射する姿を見せてくれる。1キロメートル離れた装甲鈑40ミリを、60度の角度であたっても撃ち抜くといわれている。90度で命中すれば70~80ミリ。
そうであれば、列国のどこの国の戦闘車の装甲でも、部位によっては戦車の装甲でも貫通させることができる。砲塔にはさらに79式対戦車誘導弾を両側に1発ずつ積み、予備弾も車内にある(合計4発)。車体の中には6名の隊員が背中合わせになった座席に2列になって座り、銃口が突きだせるようになった銃眼から外を小銃で射撃できる。この他に操縦手、機関砲手、分隊長を兼ねる車長と副分隊長が搭乗するので、乗員は10名になる。
 この戦闘車はもともと、90式戦車と同行し、ソ連のT80とBMPⅡと戦うために開発された。ソ連の装甲戦闘車BMPⅡは備砲口径が30ミリだから、砲力で圧倒し、対戦車誘導弾でT80も狙えるといった高い能力をもっている。
 エンジンは伝統の空冷ではなく、水冷の4サイクル直列6気筒インタークーラー・ターボ・スーパーチャージャー付のディーゼル・エンジンである。排気量は1万6000CCで600馬力を出す。構造が複雑になる水冷を採用したのも、エンジンサイズをコンパクト化できるし、同時に空気取り入れ口の位置決めの面倒さを避けたのだと思われる。また車体前面左側にエンジン、操行装置を一体化し、パワーユニットを置いたのも整備性の向上に役に立っただろう。
 問題になったのはその高価格で、74式戦車より高かったらしい。批判が出たが、もともと全国の装甲車の更新を計画したわけでもなく、あくまでも北海道の対ソ連機甲部隊と戦うための装備だった。用兵の現実化のために装備も考えられるといった例である。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(令和元年(2019年)10月30日配信)