陸軍小火器史(19) ─独自性が光る十一年式軽機関銃ー

携帯が容易な軽機関銃

 第1次世界大戦(1914~18年)の歩兵の戦いは、日露戦争の旅順要塞戦の再来を思わせた。何層にも重なる塹壕線、接近を阻む鉄条網、堡塁には固定された機関銃。頑丈な屋根付きの防御陣地は榴霰弾の射撃にも生き残り、白兵突撃をする敵歩兵に機関銃の弾を浴びせた。その惨害はレマルクの『西部戦線異状なし』の描写で十分だろう。あるいは、映画『戦場の馬(原題・War Horse、ずばり軍馬)』にもリアルな再現がされている。
 日露戦争では、その機関銃火にもかかわらず銃剣突撃はしばしば行なわれた。当時、第一線の大隊長だった志岐守治(しぎ・もりはる)中将は『参戦廾將星・回顧卅年・日露大戦を語る』(1935年、東京日日新聞社・大阪毎日新聞社)で次のように話している。

「……今日(こんにち)の戦争では屍(しかばね)を乗り越える間に自分は叩きふせられる……肉弾、肉弾ということをいうけれども、いかに肉弾とはいえ、鋼鉄の弾丸にぶつかってたおれるのは当たり前だ。肉弾がはたらきをするのは敵にぶつかって、敵と格闘してはじめて肉弾がはたらく。そこに接近するまでの間は肉弾は何も働かない。だから敵に接近するまでには、何とかして敵に接近させることをしてくれなくてはならない。……つまり側面から、背後から銃砲弾で敵を押さえつけて、体当たりするまでにしてくれなければ肉弾の値打ちがない。肉弾が銃砲弾の代わりをすると思ったら間違いである」(仮名遣い、漢字は現代語に直してある)

 この機関銃をどうにかできないか。それへの答えの一つが、歩兵が1人でも持ち運べ、連続射撃できる機関銃の採用である。機関銃陣地に接近して行って連射する。敵機関銃手に頭をあげさせないようにして、その間に歩兵が接近していこうというわけだ。重量は10キログラムくらいが扱いやすいと考えられたから、長いベルト弾倉や冷却システムが重くなる水冷は不利だった。軽量化が何より最優先された。故障を少なくするといった信頼性はどうしても後回しになった。機関銃の主流はあくまでも固定式の重機関銃であるということから、軽機関銃は信頼性を犠牲にした「妥協の産物」だったという。
 すでに1902年、デンマークは自国製のマドセン軽機関銃を諸外国に売り込みを始めていた。作動方式は反動利用式でなかなか複雑な構造だった。これまでの機関銃は遊底が往復運動(レシプロ)して、装填、撃発、排莢、装填のサイクルを行なう。それがマドセン銃は遊底後部を機関部の尾筒に軸で止めて、上下にスイングするようになっていた。1896(明治29)年には製造を始め、英国のレキサー社が販売した。だからレキサー機銃といわれることもある。オランダ陸軍も採用し、蘭領インド(インドネシア)の駐屯軍が使い続け、1942(昭和17)年のわが軍の進攻で鹵獲(ろかく)されたものもあったという。
 重量は10キログラムそこそこで、射撃時の安定を考えた二脚、そして肩当てがついたものだった。満洲ではロシア騎兵がマドセン機関銃を装備していた。わが騎兵はこれを鹵獲した。それを砲兵工廠から銃器修理班を率いて出張中の上村良助砲兵大尉が持ち帰った。南部麒次郎はこれを見たが、複雑な機構を嫌ったのだろう。参考にした部分はほとんどなかったに違いない。
 ホチキス機関砲の稿でも紹介したが、わが陸海軍は機関銃を世界でもいち早く整備した。その多くを日露戦争の実戦場に投入する。もちろん、ロシア軍は要塞防衛に使った。わが軍は事前砲撃をし、突撃する歩兵の頭越しに掩護の射撃を行なった。しかし、多くの犠牲を払うことになったのはよく知られている。
 その威力のほどを欧州からの観戦武官団は目の当たりにしたはずだ。ところが不思議なことに、ドイツのホフマン大尉くらいしか衝撃を受けなかったようだ。英国のハミルトン将軍は「機関銃の登場で騎兵の役割は終わった」と報告した。すると本国では、彼は頭がおかしくなったのではないかと陰口をきかれた。米軍からはマッカーサー将軍親子(息子はのちの日本占領軍司令官)も来ていたが、機関銃についてはほとんど関心を持たなかったようだ。
 それどころか、英国のアルサム将軍は銃剣突撃について、「火力だけでは、決意が固く、軍紀厳正な軍隊を陣地から駆逐することはできない。やはり銃剣が有効だ」と書き残している。日本陸軍はもともと白兵重視どころか、むしろ銃剣突撃などは苦手としていた。そうした証言は多くある。戦後の「偕行社記事」の中には、実戦記が多く載せられた。ある歩兵中隊長の証言である。

「射撃をして200メートルまで近づけば、敵が倒れる姿が見える。いつ退却するか、そろそろ逃げる頃かと思っていたら、まるで地に根を生やしたようなロシア兵。一歩も退くことはない。結局、銃剣をふるって突撃するしかなかった。古臭い銃剣など戦場では用無しだと思っていたが、十分、有効なものだと思った」
マシンガン・ウォーとなった世界大戦

 ほぼ10年後のヨーロッパの戦場でも機関銃が大活躍した。日露戦争以来、機関銃に関心を高めていたドイツ軍はシュパンダウ・マキシムM08重機関銃(明治41年製造開始)を1万2000挺も装備していた。この他に約5万挺が生産中だったといわれている。緒戦で大きな被害を出した英国は、ヴィッカース・マキシム重機関銃を採用した。どちらもマキシムの開発による機関銃である。
 英国軍は戦争が始まってからルイス・ライト・マシンガンを採用した(1915年)。この銃を操作した2人の射手は4人の弾薬手とチームを組んでいた。突撃する歩兵といっしょに塹壕を飛び出し、敵機関銃陣地を射撃した。ガス利用式、空冷、47連発の皿(円盤)型弾倉をもつアメリカ製の機関銃である。銃身長は665ミリ、重量11.8キログラム、口径は0.303インチ(7.7ミリ)。銃身を太い放熱カバーが覆っているところが外見上の大きな特徴になる。のちに日本海軍も「留式(るしき)機関銃」として採用した。
 ドイツ軍もまた大急ぎで軽機関銃を開発した。突撃する歩兵が敵の機関銃に大被害を受けることはまったく同じだったからだ。1917年にはMG08/15といわれる軽機関銃を使い始めた。水冷式放熱筒に4リットルの水を入れたために重量は22キログラムにもなった。銃身長は719ミリ、口径7.92ミリの小銃弾250発を弾帯につけ、50発入りのドラム型の容器に入れたものもあった。
 軽機関銃としてはひどく重かったが、13万挺も生産されドイツ歩兵の守護神になった。ベルリンのシュパンダウにあった王立兵器製造場で造られたこの機関銃は製造公差がきわめて小さく、ドイツ小火器でも初めての部品交換可能な製品だったという。
 1954~5年に3部作で公開された「08/15」という映画を覚えている方もいるに違いない。原作の小説の著者はハンス・ヘルムート・キルストというドイツ国防軍砲兵将校だった。ナチスの勃興の中で青春期を過ごし、敗亡までをドイツ国防軍で戦いぬいた多くの若者たちの運命を描いた名作である。映画の中で描かれた砲兵中隊の日常生活と戦場の描写が素晴らしかった。反戦小説の大作とされるが、キルストがこの軽機関銃の名称を作品に付けたのには訳がある。退屈で、苦痛な軍隊生活、その象徴が「古臭く、時代遅れの軽機関銃08/15」だったからという(諸説あり)。

世界大戦から日本陸軍は何を学んだか

 
 日本陸軍は1915(大正4)年9月に「臨時軍事委員(当時は今でいう委員会と同義であり、以下、委員会とする)」を設けた。世界大戦、欧州における戦闘の実態の情報資料の収集を目的としていた。少将を長として各兵科佐官・尉官と各部相当官が26名、判任文官14名の合計41名で構成された。彼らはそれぞれ陸軍省、参謀本部、教育総監部、技術審査部、兵器本廠、士官学校、歩兵学校、騎兵学校、軍医学校、経理学校等から派遣されていた(防衛研究所員、葛原和三『帝国陸軍の第1次大戦史研究』2000年)。
 以下は葛原氏の研究にそって説明しよう。委員会の調査項目は335項目にも及んでいる。中でも第5班の「戦略・戦術」については、「戦術、兵器、築城、交通等の進歩発達並(ならび)に会戦兵団の増大が内線・外線作戦に及ぼせる影響、新兵器の戦術的運用・戦闘法」等が挙げられていることが注目される。内線作戦とは自軍の確保地域で兵站が有利な地域での作戦をいい、外線とはその反対に敵地に侵攻しつつ兵站線を構成してゆく作戦をいう。
 第6班の「築城」では、「堅固なる野戦陣地の攻防就中(なかんずく・とりわけ)歩工兵の協同動作等」も報告された。すでに駐在武官による戦地の実際の報告が届いていたに違いない。要塞地帯に構築された強固な堡塁や塹壕線への対策、縦深陣地攻撃方法などが関心事だった。
 また、第7班の「兵器」についても「兵器行政・組織、兵器動員及び平時準備、原料材料・機械工場等の準備及び動員、職員職工・製作作業動員、経済と動員の関係」等の調査内容が指示されていることも「総力戦」への準備が意識されていたことが分かる。
 委員会は1917(大正6)年1月から21(大正10)年12月までの5年間に、合計100件の意見書を提出した。注目したいのは「動員」の項の中で「物質的国防要素充実」を主張していることだ。また「歩兵」の中には「機関銃射撃」が入っている。膨大な報告書の中で一貫して強く主張しているのが、「寡をもって衆を制する(少数兵力で多数の敵を打ち負かす)」という考えをやめよということだ。
 日露戦後、陸軍軍人たちは強大なロシア軍に勝ったという事実から得たとして「将兵の精神力と素質が高いと、装備が劣っていても勝利できる」というドグマ(教条)を信奉するようになっていた。というより、ぎりぎりの勝利を下士・兵卒たちの無形の精神力のおかげと信じたかったのだろう。
 1909(明治42)年の改正『歩兵操典』では高らかに「白兵中心主義」が謳われていた。しかし、それは正しくない、やはり火力が最重要だというのだ。
 しかし、この主張は軍内の世論の主流とはなり得ない、そう委員たちは考えた。事実、『日露両軍銃砲弾効力比較表』によれば、主要会戦4回の射耗弾数の比較をすると興味深い事実が見える。ロシア軍が日本軍将兵1人を死傷させるには小銃弾1037発、砲弾41発を使った。逆に、日本軍はロシア兵1人を死傷させるには、小銃弾419発、砲弾21発しか必要としなかった。こうしてみると、日本軍の小銃火力も砲兵火力もロシア軍の倍の優秀さがあったということになる。
 だからといって、「桶狭間(おけはざま)式奇襲的成功は、一等国軍間の大会戦組織では困難の度合いを高めた」という事実は無視できないと委員会は主張する。桶狭間式奇襲成功とは、16世紀の織田信長による今川義元軍への快勝とされていた「定説」のことをいう。当時の軍人による戦史の解釈は、参謀本部編の『日本戦史』に代表されるように、長い平和が続いた江戸時代の講談話に影響されたものが多かった。
 報告書はさらに言う。日露戦争の全期間を通じて砲弾の射耗数は、日本軍100万発とロシア軍150万発だった。それが欧州大戦では1917年以降の平均2カ月ごとで、ドイツ軍2億2000万発、フランス軍1550万発、イギリス軍1450万発という砲弾が撃たれた。ドイツが兵力に勝る連合軍に鉄量で対抗したことが分かる。
 次は大戦の間に、歩兵師団が兵員数の減少があっても、機関銃による火力の増大がいかにあったかという数字がある。重機関銃1を小銃40挺、同じく軽機関銃を小銃32挺に換算している。葛原和三1佐の教示によれば次の通りである。
 主要国の開戦前の歩兵師団の平均兵員数は1万2000名で、うち機関銃兵は250名でしかなかった。合計1万2250名であり、その装備する重機関銃は25挺、小銃に換算すると40×25=1000、したがって小銃火力は1万3000挺分と計算される。それが、英・仏・独の休戦直前(1918年)の数字では、歩兵師団は兵員7000名のうち機関銃兵が3000名を占めるようになった。重機関銃は80挺、軽機関銃は250挺を装備し、これを小銃に換算すると、1万5200挺分となっている。したがって兵員数は60%に減ったが、火力はかえって1.17倍になったと主張している。

浸透戦術と分隊戦闘

『近代日本軍隊教育史研究』(遠藤芳信、青木書店、1994年)は臨時軍事調査委員の報告書を詳しく紹介している。委員はきたる「歩兵操典」の改正に合わせて、次のような重要な指摘を行なった(1919年9月、陸軍省大日記)。
(1)将来は軽機関銃を核心にして戦闘群を構成するようになる。
 これまでの横一列や密集した歩兵の突進ではなく、下士官の指揮する分隊がグループを作って、敵の手薄なところを攻撃してゆく。ドイツ軍はフランス軍の戦闘群戦闘法を取り入れて「突撃隊」による浸透戦術とした。編成は分隊長、機関銃手、副銃手、弾薬手(2名)、弾薬運搬手(4名)の合計9名とする。軽機関銃、火炎放射器または爆薬などを携行して、夜間、配備の間隙(かんげき)から浸透して、火点などを覆滅(ふくめつ)する戦法である(葛原氏『機甲戦の理論と歴史』芙蓉書房出版、2009年)。
 またロシア軍でも、ブルシロフ将軍が提唱して、東部戦線で浸透戦術が採用されるようになった。1個小隊の歩兵64名を、まとまった方陣(ファランクス)にせずに5~6名前後の分隊に分けた。おおまかに作戦目的を各分隊長には示すだけで、どのような進行方法をとるかは、それぞれの臨機応変な判断に任せた。
 これを目の当たりにして学んだのは、当時、ロシア軍に観戦武官として派遣されていた荒木貞夫(あらき・さだお、陸士歩兵科9期、ロシア公使館付武官、のち大将)、小畑敏四郎(おばた・とししろう、陸士歩兵科16期、のち中将)だと、第1次大戦史研究の別宮暖朗氏も指摘している。
 荒木貞夫はシベリア出兵でも、現地のウラジオ機関長や派遣軍参謀、参謀本部第1部長、陸軍大学校長などを務めたロシア通。この荒木に信頼されたのが、対ソ連軍戦闘の専門家とされ参謀本部作戦課長を2度も経験した小畑である。2人は確実に「浸透戦法」の有効性をつかみ、歩兵戦闘の新しい流れを紹介してゆくのである。
(2)攻撃においては、局部的包囲を重視する。
 頑強に抵抗する部分に正面からの攻撃や、攻撃の反復は有効ではない。包囲行動はこれまで高級指揮官(旅団長以上)の企図するもので、各部隊はただ直進せよというものだった。迂回や、包囲といった「屈伸自在(くっしんじざい)」の戦闘を小部隊でも行なわなければならない。
(3)「一気盲目的猪突」は価値を失った。
 突撃は一挙に突入ではなく、紛戦(ふんせん)が続く。各部隊と戦闘群は火力の発揮とともに自在に行動し、火器と白兵を巧みに併用する連続攻撃の戦闘になる。これまでの「衝突力(しょうとつりょく)」で敵を圧倒するといった突撃は価値を失ったとする。
(4)火力への正確な理解を必要とする。
 火力を尊重しない精神力は、「真ノ精神力」とはいえない。ほんとうに旺盛な攻撃精神とは、火力がどのようなものかを正確に理解し、無益な損害を受けないようにし、味方の火力発揮は確実に実施するようにする。
 この主張は、白兵重視を正面から規定したとされる「1909(明治42)年歩兵操典」の思想に、真っ向から反論したことで注目される。
(5)退却戦の訓練をする必要がある。
 攻撃に対しては士気が高まり、防禦では元気を失ってしまう。わが将兵は形勢が不利になっても、落ち着いて再挙を考えるといった点では不十分だという。退却では敗走に陥らないよう訓練の必要があるという。
 下級指揮官の役割が変わってきた。大正9(1920)年には歩兵操典草案が頒布された。散兵(さんぺい、広く疎開隊形をとった兵)の射撃は小隊長が指示するといったように、下級幹部に要求される力が増えてきた。翌年には「歩兵戦闘法研究会」が発足し、さまざまな検討、研究が行なわれた。これが1923(大正12)年の歩兵操典草案に生かされることになった。
 これ以後の歩兵戦闘は、地形を利用し、小隊、分隊ごとといったように戦場に点在して小グループで運動するようになった。軽機関銃を火力戦闘の中心とした。小銃手は軽機関銃の射撃に掩護されながら前進し、ついに突撃で敵陣地を制圧するといった戦闘を訓練されるようになった。つまり、歩兵銃はそれまでの、火力の中心であること、遠・中距離射撃の効力を期待される地位から、歩兵個々の自衛戦闘用火器に変化したことを意味する。そうした流れの中では日本陸軍もその影響から逃れられるわけもなかった。
 

11年式軽機の最初の教育は「故障排除」

「まず故障排除から教える。これを兵に覚えさせるのが大変なのだ。およそ兵器の操法を教えるのに、故障排除の教育で苦労するなど、そんな兵器は実戦むきではない」と加登川幸太郎元陸軍中佐は著書『三八式歩兵銃』(白金書房、1975年)の中で語った。この軽機関銃を褒める話はまず聞いたことがない。欠陥品だったとまで言う人がいる。しかし、日本陸軍が滅びるまでこの軽機関銃は使われ続けた。
 装弾の仕組みは非常に珍しい。世界でもおよそ類をみない独自性にあふれていた。作動方式はごく普通のガス圧利用式である。給弾は機関部の左にある箱型の装填架(ホッパー)から行なわれた。実測すると、前後100ミリ、高さ110ミリ、幅80ミリの箱のようである。強いコイルスプリングで下方に押しつける蓋(圧桿・あつかん)があり、実包を入れるには、まずそれを上に押し上げた。開けた内部は実包がまとめられた形に合わせて、前にゆくほどすぼまっている。
 ここに三十八年式歩兵銃の6.5ミリ実包を横に重ねて6個置いた。しかも挿弾子(クリップ)付きのままである。射撃すると弾は左から右へ水平に動き、機関部右の排莢口から撃ち殻薬莢が飛び出していく。装填架に積まれた5発ずつの実包はバネによる蓋で上から押さえられているから、最後まで給弾が途切れることがない。最終弾が薬室に送り込まれるごとに挿弾子は下に落ちた。
 5発×6個で合計30発だから、列国の軽機関銃とほぼ同じである。英国のルイス式は円盤状の弾倉(パンマガジンといわれる)47発入りを使っていた。世界大戦での使い捨てられたその弾倉の山を見て、精密で高価な金属製弾倉の「浪費」に驚くとともに、多くの日本陸軍将校は自国の生産力を考えて色を失ったことだろう。ただ、11年式のホッパー方式は、箱型や円盤状の弾倉と比べて、たいへん優れたところがあった。射撃中に時間的なゆとりがあれば、弾をいくらでも補充ができたのだ。他国の軽機関銃の場合は、それができなかった。全弾撃ち尽くして初めて弾倉そのものを交換するということになった。
 しかし、埃に弱い、泥にまみれると精緻な機関部は故障してしまう。装填架に蓋はあっても、その蓋は実包を押さえるためだけのものだったので、実包の汚れを防ぐことはできなかった。また、エジェクター(排莢)機構も、フレームの中ではなく、機関部右側の外に出ていた。これもまた、埃や汚れ、泥水などに弱いことはすぐわかる。装填前の実包に油を塗る方式も、油が埃や塵を吸いつけてしまった。
 銃床は右に大きく曲がっている。銃身の中心線から50ミリずれていた。そのため「世界で最も醜い軽機関銃」などとアメリカ軍から酷評もされた。物陰から照準をする際には射手の顔は大きくはみ出してしまうという批判もあった。しかし、右肩に床尾を押しあてて構えてみれば、左側の装填架(重さ約1200グラム)に実包が30発も入った重量を思うと、射手が姿勢を保持する時の負担は明らかに軽減されるのだろう。
 取扱説明書によると、全長は1100ミリ、銃身長485ミリ、銃身高(高姿勢)360ミリ、低姿勢なら310ミリ、重量10.2キログラム、初速736メートル/秒、発射速度500発/分、属品嚢(ぞくひんのう)内容品が全部入って1キログラム、手入具嚢(同前940グラム、銃身1.4キログラム、弾匣(だんこう・弾薬箱)実包が入ると4.2キログラム。
 体験者の話によると、引鉄の絞り方にコツがあったという。ふつう射撃の心得で「暗夜に霜が降るごとく引鉄をしぼる」と教育された。いわゆるガク引きをさせないためである。11年式では、そういう撃ち方ができなかった。「切り撃ち」といって2~3発ずつパッパッと引鉄をひいて撃った。そうしないとすぐに「突っ込み」を起こして、薬室から撃ち殻薬莢が出てこなかったという。軽機関銃手はそうした訓練をされていた。誰でもが撃てるものではなかったという話がある。

同じように混乱した列国

 いつものことだが正確な批判のためには諸外国の事情も比べなければならない。軽機関銃というのは「妥協の産物」だった。とにかく軽量化するために信頼性を犠牲にしたものである。故障が多かったというが、列国はどうだったのか。大正の末ころ、英国は世界大戦以来のルイス軽機関銃(1914年に英国で製造開始)、米国はブラウニング・オートマチック・ライフル(BAR、1918年制式)を使っていたし、イタリアやソ連は軽機関銃の独自開発には、まだ手を着けていなかった。フランスはMle1924(大正13年式)を制式化し、これはアメリカのBARの影響を受けたといわれる。
 故障が少ない箱型弾倉を使わなかったという批判があるが、当時の軽機関銃の給弾方式にはこれといった決定打はなかった。BARは20発入りの箱型着脱式弾倉を機関部の下から入れた。これは低い姿勢では不利になる。下から突き出した弾倉のおかげである。ルイス軽機関銃は前にも紹介したように重かった。給弾には複雑な円盤型弾倉を使った。ドイツの08/15機関銃は水冷式で20キログラムを超す重量があった。給弾は弾帯式でドラム型の容器に入れられた。
 第1次世界大戦後すぐに英国陸軍はルイス軽機に代わる新型銃を採用しようとした。ルイスは重く(11.8キログラム)、構造も複雑、異物混入による故障の多発などが現場からの苦情が多かったという。しかも量産向きではなく高価だということからだ。しかし、次の新形機関銃の採用は1937年にもなってのことになった。
 軽機関銃に「決定打」が出るのは11年式軽機関銃が制式化されたから8年後になる。1930(昭和5)年のチェコ・スロバキアが開発したZBvz26/30の登場まで、世界中が待たされたのだった。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(2019年(平成31年)3月20日配信)