陸軍小火器史(18) ─サンパチと通称された名銃「三十八年式歩兵銃」ー

「サンパチ」とは俗称である

 薬室上部に菊花紋と「三八式」と刻まれている。おかげで「サンパチ」式といわれるが、正しくは「三十八年式(さんじゅうはちねんしき)」である。
 30年式は一気に国際標準に達した性能をもつ手動装てん式5連発銃だったが、戦場では意外な弱点を見せた。それは皮肉なことに、製造公差をとことん少なくしたことから起こった。熟練職工が丁寧にすり合わせをした遊底、機関部に満洲の細かい砂塵が入り、潤滑油にくっついたり、目詰まりや焼きつきを起こしたりしたのである。満洲という戦場特有の現象だが、そこを想定主戦場にする軍隊にとっては致命的な欠陥になった。
 また小さな部品が壊れやすく、強度が足りないことも指摘された。そこで全長などの基本的な諸元などは手もつけられないまま、急いで小銃製造所長南部麒次郎(なんぶ・きじろう)砲兵少佐が新小銃を設計することになった。
 38年式の機関部はたいへん優れた設計といっていい。遊底止(ゆうていどめ)を引き上げて銃本体からかんたんに遊底を離すことができる。最後部の安全子(あんぜんし)を押しながら、右へ45度回すと遊底本体(円筒形)から、内部の撃茎(げきけい)とコイルになっている発条(スプリング)を取り出せた。この円筒には抽筒子(ちゅうとうし)がついている。エジェクター、つまり撃ち殻薬莢のリム(縁)をひっかけて薬室から抽き出す爪のことをいう。
 遊底の単純化を行ない、撃茎駐螺(げきけいちゅうら)、副鉄、撃鉄の3部品を撃茎駐胛(げきけい・ちゅうこう)に一体化し、遊頭(ゆうとう)も廃止したので、8点の部品数が5つになった。整備上も、製造上もたいへん大きな改善だった。
 また、薄い金属製の「遊底覆(ゆうていおおい)」が付けられた。遊底全体を覆うカバーのことである。これによって、砂塵や埃が入ることを防いだ。逆U字形になっていて、可動部全体をすっぽり覆った。槓桿を通す穴がついている。動かすと、遊底といっしょに動いた。他国の小銃にはない工夫である。おかげで遊底を閉じた状態では「三八式」の刻印が隠れてしまう。それでも見分けは簡単で、万一の事故(薬莢が裂断することなど)のときにガスが射手に吹き付けないよう小さな穴が2個開いている。
 よく手入れされたボルト・アクションは漫画のように「ガチャガチャ、ジャッキーン」などという音はしない。手入れの良い日本刀が、構えたときにチャキッなどという音がしないのと同じである。せいぜいシュコンという音がするくらいだ。戦後のリアリティを追及しようといった映像作家たちには悪いが、絵的に、音声的にリアルに見せたい、聞かせたいというのは事実とは遠ざかってしまうといういい例である。

弾倉も改められた

 尾筒弾倉式(びとうだんそうしき)がわが小銃に採用されたのは30年式からである。連発ができるようにするには、上から、下から、あるいは横から実包を入れるようにしなければならない。横から装てんするのは管弾倉式の一部のライフルだけだった。これを上から、一気に実包を押しこめるようにしたのがマウザーの開発した尾筒に弾倉を仕込む型式である。
 尾筒とは薬室の後方にある銃身を閉じている部分をいう。ここに仕組まれたのが「函型(はこがた)」弾倉である。固定式と着脱式があり、多くの国は30年式と同じように固定式5発入りという型式を選んだ。弾倉の位置は引鉄部分に接していて、残弾数の違いで重心が動かないので照準が簡単というメリットがあった。22年式村田連発銃のような管弾倉式であると、撃つごとに弾数が変わり重心の位置が変わってしまう。
 また、装てんに必要とする時間も短く、素早く、慣れてくれば親指の一挙動で5発を入れることができた。実包5発は挿弾子(そうだんし)というクリップで1まとめになっている。クリップは使い捨ての消耗品だった。弾倉後部のくぼみに立てて、実包を押しこむ。弾倉底板には板バネがついていて反発力もあり、実包は左右ジグザグに2発、3発というように納まった。
 槓桿を前に押すと遊底が閉じる。このとき、役目を終えた挿弾子ははじき飛ばされる。同時に最上部の実包は薬室に押し込まれた。槓桿上部は茄子(なす)形にふくらんだ「槓桿頭(こうかんとう)」という握りやすくする形状になっている。これは大変堅いということから、陸軍では柔軟性がない固い頭脳の持ち主を「槓桿頭」と陰口をたたいたそうだ。
 遊底が前進させられているとき、円筒の中では撃茎が後に残る。槓桿を右に倒すと撃茎の中のコイルスプリングは圧縮された状態になる。これで撃発が可能になった。安全装置は30年式の方式がこの38年式では改良され、尾筒後端の円形の安全子を操作するようになっていた。右手の掌(たなごころ)で押しながら左へ45度回すと、内部機構がロックした。
 この機構も、兵営の内務班のいささかユーモラスな私的制裁の道具となっていた。「鼻に安全装置をかける」といい、被害者は直立不動、制裁をする上級者が思い切り掌を鼻に押し付けて左にねじった。痛いし、涙は出るしと体験者は語り残しているが、周囲から笑いも出たというから、安全装置をかける動作にたとえたユーモラスな制裁だった。
 この弾倉の底板(ていはん)にはバネがついて、下から押し上げる圧力になる。30年式では針金を使っていたが、38年式では板バネ(毛抜き型)にされた。底板を外すのは簡単で、用心鉄(トリガーガード)内部の出っ張りを押すことで実行できた。戦闘が終わった後の弾倉からの「抜弾(ばつだん、たまぬき)」は安全管理上、とても大切なことであり、その実行はうるさく徹底されていた。

ボルト・アクションの操作と連発

 小銃は右肩にあてて射撃動作を行なう。槓桿を操作し、実包を装てんし、排莢し、再装てんする。この一連の動作をきっちりと肩につけたまま行なうのは難しい。やはり1発ごとに肩から外して槓桿を操作するしかない。だから、のちにM1ライフルのような半自動装てん式と比べて発射速度が遅いからだめだったと戦後に非難された。「アメリカ軍は連発だろう、こっちはカチャパン、カチャパンだ。負けて当たり前だ」という言い方は、軍隊経験者もそうでない人もよく言っていた。
 ある高名な文学者は、防衛大学校の学生たちにその講話の中で、科学的精神を軽視するなと38式歩兵銃を例にして語ったほどである。自らも大東亜戦争末期に学生生活を送り、無駄な軍事教練を受けさせられたと語った。その上で、長大な銃剣格闘重視の歩兵銃、時代遅れの槓桿式と陸軍装備をあざけり、明治の小銃で第2次大戦を戦ったという戦前日本の後進性を非難したのである。これが実は戦後の「誤った定説」であることはすでに30年式歩兵銃の稿で述べた。明治時代に開発された小銃で戦ったのは、アメリカ以外の大国の軍隊、みんなだったからだ。
 もともと当時の歩兵用の小銃は、300から400メートル以内という距離の撃ち合いが想定されている。肉眼で敵兵を見分けられる限界がその距離である。地上から1000フィート、約330メートルの東京タワーのてっぺんを地上から見上げてほしい。そんな遠距離での狙撃威力を高めるために、銃腔内の施条も旋転(せんてん)の度合いを工夫し、弾の長さや形態も工夫されてきた。中長距離では半自動式であろうとなかろうと、じっくり照準して的に当てようと思うなら、射撃ごとの照準直しは当たり前である。
 狙撃にはボルト・アクション・ライフルがもっとも向いている。それは、現在の軍隊でも狙撃兵の多くが槓桿式小銃を使うことでもわかる。そもそも槓桿式には大きく動く撃鉄がない。引鉄を絞れば、すぐに撃針が前に進み実包の底部の雷管を打つ。要は銃のブレを最小限におさえることができるのである。
 半自動銃も槓桿式銃も、撃発すれば銃口が跳ねあがり、左右のぶれも出るのは同じである。だから、射撃ごとに弾着をよくみて、じっくりと照準を付けなおすのは当然だった。
 どこの国でも半自動式ライフルに関心をもった。じっさい、試作品を完成したり、購入したりして実験を繰り返した国も多かった。その結論の多くは、効力には大差がないのに、不慣れな兵員は無駄弾をいっぱい撃つのではないか、構造が複雑すぎて分解、修理、手入れが大変だというものだった。
 何より各国の陸軍を困惑させたのは小銃弾薬の消費量だろう。たとえばM1ライフルは8発入りの特殊なクリップを使った。作動はガス利用式で再装てんをし、クリップ内の実包を撃ち尽くすと空のクリップ(正確にはエン・ブロック・クリップという)が飛び出した。エン・ブロックとはフランス語で、もともとは「ひとまとめにして」という意味になる。これにはバネも送弾板も入っていない。8発の弾をジグザグにきっちりつめてあるだけだ。たいへんユニークな仕組みになっていた。
 もちろん、単発で1発ごとに引鉄を引くことになる。それでも1分間に70発以上の射撃ができた。槓桿式では熟練した兵士でも17発ほどだったらしい。敵前で興奮したふつうの兵士は、おそらくろくに狙いもつけずに乱射するだろう。それは小銃としては常識外れの至近距離での撃ち合いにしか役に立たない。
 引鉄を絞りっぱなしで連発できるのはオートマチック・ライフルである。アメリカ軍では分隊ごとに1挺の軽機関銃を配備した。戦後、自衛隊にも供与されたブラウニング・オートマチック・ライフル(BAR)がそれである。引金を引いている限り、弾は連発された。そこがセミ・オート(半自動)のM1ガーランド小銃とは異なるところだった。
 セミ・オートのライフルが有利なのは至近距離の戦いである。数十メートルという距離なら、弾をばらまける発射速度が高い銃がいい。ガダルカナルでも、フィリピンでも、多くの島嶼戦闘でも満洲のような広い平原はなかった。ひどく短い距離で撃ちあいは起きたのだ。そうであると敵に頭を上げさせないためには発射速度が高く、ろくに狙いをつけなくても短時間に乱射できるセミ・オートライフルが有利なことは疑えない。
 そのアメリカ兵の乱射を支えたのは、はやばやと軍馬に見切りをつけてジープを開発した米国の工業力だった。第2次大戦のどこの国の軍隊でも、馬と騾馬(らば)の背に小銃弾薬は載せられていた。騾馬は馬とロバの一代雑種である。頑丈で、我慢強く、馬よりも丈夫だった。インパールの英軍の槓桿式小銃に弾薬を届けたのは山地に強い騾馬だったのだ。
 筆者が子供のころ、昭和30年代のわが国は依然として技術大国ではなかった。世界中の職人が腕を競う技能オリンピックという国際コンテストがあった。そこで優勝するのはたいてい日本人だと学校の先生は誇らしげに語ってくれた。
 街をさっそうと走る「ガイシャ=外国産」は頑丈で、そのくせ優美で高価だった。国産車はよく故障したし、悪路に弱かった。バンパーにはエンジンを起動するクランクの穴があった。バッテリーがあがり、クランクを回してエンジンをかけていた姿が目に浮かぶ。田舎の悪路では、しばしばアクスル(車軸)が折れてエンコする車を見かけた。戦後10年以上経ってもそんな状態だったのだ。
 アメリカのセミ・オートライフルを支えたのは、その高価(槓桿式の3倍から10倍)であることを許せた豊かさと、何より乱射された小銃弾の補給能力の差であったといっていい。

外貨を稼いだ38式歩兵銃

 1920(大正9)年の「支那駐屯軍司令部」が作成した情報報告がある。描いている時代は1916(大正5)年の袁世凱(えん・せいがい)死去による北洋軍閥の分裂期にあたる。この武力紛争を安直(あんちょく)戦争という。安徽(あんき)派を率いる段祺瑞(だん・きずい)と直隷(ちょくれい)派の頭領である馮国璋(ひょう・こくしょう)の2人による軍閥の後継者争いである。段は日本が応援し、馮のことは英・米が後援した。孫文(そん・ぶん)は南支那から北伐(ほくばつ)を企画していた頃でもある。
 その中に明治45(1912)年から大正3(1914)までの「支那」の輸入銃についての情報がまとめられている。口径7.92ミリのドイツ製マウザー1888年式と1892年式が合計で15万8500挺、同カービン1888年式(騎兵銃)7万8000挺、フランス製ホチキス機関銃207挺、ドイツ製クルップ野砲259門、同山砲337門である。
 それが精力的な泰平組合(たいへいくみあい)の活動、1916年からの世界大戦のおかげで数量もシェアも大きくドイツが後退することになった。小銃については、わが国が首位となり27万4821挺を輸出し、シェアは49.4%になった。対してドイツは23万6500挺で同じく42.5%である。他にはオーストリアが2万5000挺(4.5%)、イタリアが1万挺(1.8%)、フランスが8000挺(1.4%)にロシアが2500挺(0.4%)という順位になっている。合計が55万6821挺になった。
 機関銃になるとわが国が392挺(60.9%)、ドイツ207挺(32.1%)、アメリカ30挺(4.7%)、オーストリア15挺(2.3%)の合計644挺である。火砲になると、日本749門(55.7%)とドイツ596門(44.3%)だった。合計は1345門にのぼる。いずれもわが国はドイツよりも中国に火器を売り込んでいることがわかる。
 1917(大正6)年以前では、村田銃などの旧式歩兵銃を3万9180挺、旧式化した30年式歩兵銃を3万6867挺の合計7万6047挺を輸出している。また、この他に新制式の38年式歩兵銃も1万挺、支那に渡していた。外国に新兵器を売り渡していいのかという一般人に対して南部は語る。「軍隊には教育・訓練の差がある。同じ兵器を使っても、わが国には十分に勝算があるのはそこだ」と答えている。
 事実、この大正前・中期の壮丁(そうてい・徴兵検査受検者)は、その約40%が4年制尋常小学校を卒業しており、さらに約20%が2年制高等科の修業もしていた。これは当時の、読み書きができないのが普通だった「支那」の軍閥兵士とは際立った違いだった。すでに日本兵の教育程度の高さは列国にも知られていたが、世界最高水準の知的軍隊だったことは疑えない。
 38式歩兵銃は推定で約20万挺が中国軍閥に売られた。日支事変(1937年)が始まってから鹵獲した小銃の中に、わが38もあったという。

諸外国にも送られた38式歩兵銃

 須川氏の調査によれば、1915~17年までの間に英国に30万から50万挺の38年式が輸出されたという。これは日英同盟に基づいた兵器供給であり、英国では本土に置かれた予備部隊、海軍などで使われた。大戦後には、英国からフィンランドへ再輸出され、1939年のソビエト連邦軍侵入を撃退した。また、12万8000挺がロシアにも送られた。イギリスの海外部隊や機関でも使われ、高名な「アラビアのロレンス」が手にして戦った中にも38式があった。フィンランドは1919(大正8)年にはエストニアの独立支援のために約1万挺をわが国から購入して、独立勢力に供給する。
 ロシアの革命には当然、反対勢力がいた。赤い旗の赤軍(せきぐん)に対して白軍、白系ロシア軍という組織があった。革命に干渉したシベリア出兵(1918~22年)では、現地で日本軍と共同作戦を行なった。この勢力におよそ60万挺が提供された。
 メキシコから発注されたのは同国仕様のマウザー実包7ミリに拡大された約3万6000挺も有名である。遊底の上にはメキシコの鷹の紋章が彫られていた。また当時、日本の友好国だったタイ国にも口径7.62ミリ、マウザー実包用とした38式の改造銃が送られていた。全長1090ミリ、重量3500グラム、66年式暹羅(せんら)式歩兵銃という。1925(大正14)年から4年間で小銃が4万3100挺、銃剣4万8199振(ふり)、弾薬盒などの付属品1万9999個などがタイ国に送られている。 
 このように輸出総量ではおよそ150万挺近い数になるが、再輸出による二重計算や、30年式、あるいは35年式海軍銃なども含まれるようである。そこで須川氏は、新製造された38式歩兵銃はおよそ100万挺が輸出されたと推計されている。
 それにしても、強力なマウザー7.62ミリ実包用に改造しても使用に耐えたという38式歩兵銃の頑丈さにも注目したい。その優秀さと、堅牢さについては第2次大戦後のアメリカの公式機関のトライアルでも、マウザー小銃やスプリングフィールド小銃の機関部が破壊されるような実験が行なわれ、38式だけは無傷だったともいう。

蛋形(たんけい)弾から尖頭(せんとう)弾へ

 38年式の実包と30年式の実包とは一目で分かる違いがあった。それは蛋系(ラウンドノーズ)といわれた先が丸い弾頭が、先端が尖り、後部はすぼまる形(ボート・テイル)に変わったからである。「蛋」とはもともと卵を意味した。卵は丸みを帯びているからその形から名付けたものだろう。先込め式の時代はまさに「弾丸」というように飛翔体は球形で丸かった。過渡期のミニエー弾はドングリのようになった。続いて登場したのが蛋形弾である。
 便利な自己完結型弾薬が発明されると、金属薬莢にはめ込まれる弾頭は蛋形になって長くなった。これは弾丸断面荷重(セクショナル・デンシティ=SD)という理論の実現化である。SDは弾重(ポンド)を最大断面積(平方インチ)で割ることで求める。この数値が大きいほど弾速は低下せず、威力は保たれ、直進性が高くなる。口径を小さくしても断面積が大きく、重量もある弾なら速度も落ちずに威力が保たれたまま直進しやすいということである。
 そのためには、先端を丸くした鉛の弾頭の口径を小さくする。その代わりに円筒形にして全長を伸ばせば、断面積もかせげて重量も増すということになる。30年式歩兵銃に使われたのは、この小口径(6.5ミリ)蛋形弾である30年式実包だった。弾重は10.4グラムである。同じころ1903(明治36)年にアメリカ軍が採用した30-03スプリングフィールド実包(口径7.62ミリ)も同じ蛋形弾で弾重は220グレイン(1グレインは0.0648グラムだから14.08グラム)である。
 さらに弾は進化する。無煙火薬や飛翔中の空気抵抗や腔綫(ライフリング)、発射後の鉛の残渣(ざんさ・かす)などの研究が深まり、薄い金属(主に銅)でカバーした尖頭弾(スパイアー)が主流となった。尖っていた方が空気を切り裂きやすくなり、速度が落ちにくい。また後部の胴体の形状も上から見てボートのようにすぼまった方が空力上で有利である。これをボート・テイル型という。アメリカ軍も1906年には尖頭弾30-06を採用した。この弾重は180グレインだから11.66グラムとなった。
 同じように38式歩兵銃と騎兵銃も、尖頭の40年式実包を採用した。弾重は30年式の10.4グラムから9グラムと軽くなり、またまた省資源化に貢献することになった。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(2019年(平成31年)3月13日配信)