陸軍小火器史(1) ―ミニエー銃とゲベール銃(1)

新連載にあたってのご挨拶

 兵站史として連載を続けてまいりました。その間、皆様の応援、お励まし、ご教示をたくさんいただき、まことにありがとうございます。このたび、思うことがあって、帝国陸軍の小火器(小銃・機関銃・擲弾筒・拳銃など)について、技術史的な観点からまとめておこうと思いました。
 その理由は、戦後70有余年を経て、実際に帝国陸軍において実銃を扱われた方々がほとんど亡くなってしまったことがあります。その代わり、貴重な実物が多く、陸上自衛隊の駐屯地資料館等に保存されていることが救いになっています。もっとも、多くの方々の関心が向くことがないため、十分な解説や展示がされていることはめったにありません。
 小火器、その代表である小銃は、一般に軍隊の歩兵がもつ制式武器です。その歴史をみると、その装填方法として前装式(マズル・ローダー)、後装式(ブリーチ・ローダー)として進化します。また、着火方式では、15世紀のマッチロック(火縄式)、16世紀のホイールロック(歯輪式)、17~19世紀のフリント・ロック(燧石式)、そして19世紀のパーカッション・ロック(雷管式)の4段階に分かれて発達してきました。
 西欧ではこの歩みにはおよそ400年余りがかかりました。ところが、わが先人たちは、幕末・維新のおよそ20年間でこの長かった進歩の坂を一気に駆けぬけました。幕末には連装銃(弾倉に複数の弾丸を装填した)までも、旧幕府軍、官軍ともに使っています。1877(明治10)年の西南戦争には、後装式のスナイドル銃が薩摩・官の両軍の主力小銃になっていたのです。
 この進取性と当時の苦労をふり返ることが必要だと思います。
 なお、防衛省防衛研究所、国会図書館、各駐屯地資料館、偕行社図書室などに所蔵される貴重な史料があります。わたしはそのごく一部だけを紹介することしかできませんが、陸上自衛隊陸上幕僚監部広報室のご理解、ご協力をいただくことになりました。
 いたらないところ、誤った解釈などあれば、ご指摘ください。また、記述の中には歴史資料の解釈として、許される範囲と思われる筆者の想像も加えます。よろしくお願いいたします。

第一話 ミニエー銃に撃たれた井伊の「赤備(あかぞなえ)」

小瀬川(おぜがわ)渡河点

 1866(慶応2)年6月14日(太陽暦7月26日)、朝霧がだんだんと晴れてゆく頃のことだった。
芸防(げいぼう)国境、安芸国(あきのくに・現広島県)と周防国(すおうのくに・現山口県)を分ける小瀬川(おぜがわ)を甲斐武田勢由来の「赤備(あかぞなえ)」の彦根井伊勢が渡河しようとしていた。
はるか戦国の昔、武田氏が滅び、その遺臣を徳川氏は多く受け入れた。そのまた多くを徳川譜代の先鋒を務める井伊氏が召し抱えた。精強をうたわれた武田軍団、兜も、籠手、臑当てなどの小具足も赤漆で塗り、鎧の札(さね)もすべて赤色に統一されていた。徳川軍団の先鋒の錐、「井伊の赤鬼」の象徴ともいわれたのが「赤備」である。
前夜からの偵察で浅瀬は杭で表示されていた。前衛の足軽鉄砲隊が軽やかに水しぶきをあげて渡っていった。鎧と鉄笠は朱漆で塗られている。手にはゲベール銃を携えて、川を渡るとすぐに左右に散開した。渡河の掩護をするためである。井伊軍は第2次長州攻めの先陣を切って、岩国藩領和木村(わきむら)に侵攻を始めた。
前軍指揮官は木俣土佐(きまた・とさ)、中軍は同じく戸塚佐太夫(とつか・さだゆう)、後軍は同じく河手主水(かわて・もんど)という編成である。この朝、岩国藩に降伏を勧める書状をもった2人の軍使は渡河中に容赦ない狙撃で撃ち倒された。
 前衛の指揮官が采配を振った。「行軍序列に従って渡河せよ、攻撃前進!」、太鼓がひびき、ホラ貝が吹かれた。無法な軍使射殺、それを目の当たりにした井伊軍の兵は色めき立った。もちろん、軍使が撃たれたことに応じて、井伊砲兵隊も敵がこもりそうな和井村に向かって砲撃を行った。
長柄(ながえ)をかついだ槍隊が喊声をあげて続々と川を渡り始めた。その後ろには和銃(火縄銃を雷管打ちに改造したもの)をになった鉄砲隊、騎馬武者と背中の指物(さしもの)が目立つ先鋒部隊が突進する。さすが戦国時代、徳川四天王筆頭の名誉の家だった彦根井伊家の軍勢の威容である。しかも、将兵の誰もが名誉挽回の一戦と必勝の信念に燃えていたことは疑えない。1862(文久2)年には失脚した井伊直弼への懲罰で10万石の減封処分を幕府から受けていた。35万石が25万石になってしまっていた。桜田門外の変では主君を殺され、その首級までも獲られていたのである。ここで勝利をと意気込むのは当然だっただろう。
 広島の幕府軍本営から周防国岩国(いわくに)までは西に32キロメートル。山陽道沿いに廿日市(はつかいち)、大野、玖波(くば)、大竹と天然の良港が連なっている。わずか2キロの海上には宮島が浮かぶ。その間の海峡を大野瀬戸とよぶ。いつもなら瀬戸内海の交易船が白い帆を見せて行きかう海上の要路だが、この日は幕府海軍の黒煙を吐きだしている蒸気軍艦が何艘も浮かんでいた。漁船も商船もそれを恐れて港を出てくることはなかった。
 岩国への進撃路は2つある。1つは西国街道(山陽道)であり、廿日市から大野へ着くと山中をたどる道がある。小方といわれる地点から山中に入り、四十八坂(しじゅうはちざか)、「苦の坂(くのさか)」と呼ばれた難所があった。そこを越えれば小瀬川である。もう1つは大野から海岸沿いに進む道になる。岩国へゆく途中には玖波、大竹の2つの港があった。この海岸沿い、海手(うみて)が井伊軍の進撃路になった。

臼砲の着弾と小銃射撃

 好天の夏の朝、朝霧がだんだんと晴れてゆく。騎馬隊は水しぶきを大きくあげて上流を渡る。流れをさえぎって、少しでも下流の徒歩兵が楽になるようである。夏の日差しが強くなってゆく。喊声をあげて川を駆け渡ってゆく井伊軍。誰も後方には気を配る者はいなかった。目の前には反撃の砲撃で燃え上がる和木村がある。敵はそこにいると思っていた。
右後方の芸州藩領の鍋倉山(なべくらやま)の頂から白い煙があがった。一つではない。いくつもの白煙が天に向かって伸びてゆく棒のように見えた。つづいて、シュルシュルという砲弾の飛翔音がして、ようやっとドーンという発砲音が聞こえた。そして、ほぼ同時に川の中に着弾した臼砲の弾丸は大きな炸裂音を出して爆発した。
 渡河中の井伊勢前衛は大混乱となった。砲弾の破片が飛び、一気に徒歩兵をなぎ倒した。武者たちの馬も傷つき、何より大きな音と炸裂する火光に怯えて、棒立ちになった。馬は騎士たちを振り落とすと狂奔した。指揮官も行方不明になる。逃げる馬に引きずられて一緒に走ってゆく馬の口取りもいる。
川の中であるという状況がますます事態を悪くした。足元が悪く転ぶ者、深みにはまって沈む者、互いにぶつかり合って混乱してゆく兵たち。渡河中の敵を攻撃するのは当然の戦術行動だ。
多くが右往左往するうちに今度は小銃射撃が加わってきた。耳元をかすめる弾丸のうなりと、何よりその衝撃波が初めての体験だった。棒立ちになる徒歩兵、馬が狂奔し落馬する武者、ただ身をかがめて流れの中に顔を伏せてしまう者、たちまち隊列は乱れ、後方にいる者たちも何をしていいか分からない。目の前の状況が理解できなかったのだ。
 「撃て、撃ち返せ!」ようやく銃隊指揮官が対岸の畷(なわて)に駆けあがって敵の方向を示そうとした。とたんに鈍い音がして、血煙りがあがった。まるで目に見えない大きな鉈で殴られたように、赤い鎧は地面に突き倒されていた。「お頭(かしら)!」とあわてて弾丸が来た方向をみると、右手の高地から発砲煙があがっている。しかも、それは300メートル以上の距離があった。
 指揮官が大声をあげて、ようやく部下をまとめる姿もあちこちに見えた。高地に駆けあがり、発砲する長州兵に接近しようとする。赤い甲冑に身を包んだ指揮官を先頭に、谷から尾根に向かって突進した。それが容赦ない長州兵の銃弾を浴びて、死傷者は増え続ける。次々と小部隊ごとの攻勢は頓挫(とんざ)していった。少しでも顔を上げれば、たちまち至近距離に弾丸が飛んできた。
応戦のためにゲベール銃に装弾している間にも撃たれる者が増えていった。井伊勢の最新装備のゲベール銃は前装(銃口から弾丸と装薬を押しこめる)だから、兵は自分が立って、銃身を垂直に近く立てて装填をする。その射撃準備をしている間にも、兵たちはバタバタと倒れた。
ようやく弾丸と装薬を入れおわると、鶏頭(撃鉄といい機関部の右側につくハンマー)をあげ、火門孔(かもんこう)の上に親指で雷管をかぶせる。長州兵の発射煙が立ったところを狙って引き金を引く。敵兵が見えないのだ。距離は300~400メートル。黒い筒袖と細いズボンは背景の木立や草むらにまぎれてしまう。敵兵は2人で1組になり、発砲するとすぐに居場所を変えた。遠距離では射撃に巧みな方が撃ち、もう一方は弾丸込めと雷管装着、観測をしているようだった。
 
 この日の夜明け前から、長州藩の遊撃隊・衝撃隊・地光隊(ちこうたい)・維新団のうちから数個小隊が上流を渡り、芸州藩領の高地を占領し、射撃準備を整えていたのだった。小隊は約30人、いくつかの伍で編成されたと「防長回天史」にある。伍には伍長がいて、小隊長と押伍(おうご、副小隊長)が指揮した。
『衣服黒色。胴着筒袖小袴(どうぎ・つつそで・こばかま)共に木綿もしくは呉絽服(ごろふく、粗い毛織物)。長短施条銃(しじょうじゅう)取り混ぜ。表黒裏朱韮山笠(にらやまがさ)』とそろいの軍装を着けていた。施条銃(ライフル銃)の長短とは、後にいう歩兵銃と騎兵銃(カービン)のことだろう。
幕府側の記録に「まるで(江戸の)紙屑ひろいのような格好でやってきた」といわれた活動的な、袂(たもと)もなければ、袴も広がっていない、頭には柏餅のような黒い韮山笠という軽装である。弾薬は胴乱(どうらん)という革製の肩かけバッグに入れ、接近戦用の刀は短く、腰にはそれを一本差しているだけだった。

惨烈なる敗走

 長州側の有名な戦況報告がある。現代語訳してみよう。「防長回天史」の中の6月16日付の「河瀬安四郎報告」、野口武彦氏著「長州戦争」所載。
 『味方の兵は山々谷々を駆けめぐり戦闘を継続した。その様子はなかなか言葉では表せない。千余りの人家が燃え上がる中を敵兵は敗走した。そのありさまはとても見苦しいものだった。馬に乗った者は低地に隠れようとし、船に乗って海上に逃れようとする者たちは、小舟に大勢が大騒ぎしながら乗り込んだので、そのまま沈んでしまう者もあった。馬もなく、船にも乗れなかった者たちは、ところどころの物陰に隠れるしかなかった。それらを追撃し、まさに残酷としか言いようもないが、わが兵士たちはますます戦意を高め、敗走する敵を追いつめていった。小方(おがた)から玖波(くば)まで追撃、どちらの村落にも放火をした。陸上の敵はほとんど逃げうせて、海面には数百の敵兵がいた。船に櫓(ろ)もなく、舵もない連中は小銃を逆手にもって船を漕ぎ、船に乗れずに海に逃げ込んだ者たちは浮いたり沈んだりといった有様の者が幾十人もいた。その眺めはまさに憐れむべきものだった』
 敗走した井伊家側の資料も見つかっている(『彦根市史』)。
 『なにぶんにも、あの長州兵が山から撃ってきた大砲の響きは大きかった。前軍指揮官木俣土佐は卒倒して、部下に戸板に載せられて敗走した。器械(大砲のこと)は言うまでもなく、着替え用の具足櫃(ぐそくびつ、鎧をいれる大型の箱)に入れた用意金三千余金までも、そのまま置きっぱなしにしてきたのだから周章狼狽(しゅうしょう・ろうばい、ひどく慌てていたこと)の様子は察することができるだろう』
 何より戦場での敗走ぶりを象徴的に示すのは遺棄されたものだろう。赤く塗られた兜や鎧が数えきれないほど捨てられていた。またせっかくのアメリカ製のボート砲といわれた無施条(砲弾回転用のがライフルが切っていない)ながら新鋭の優秀砲も捨てられていた。というより、砲や砲弾を下げることすらできなかったのである。砲兵も命からがら、遺棄する時の常識、火門(かもん、点火用の穴)に釘を打つことなどもしていなかった。
回収した小銃は意外に少なかった。たまたま見つかってもヤーゲル、または和筒10匁(口径約18.7ミリ)を雷管式に改造したものばかりだった。ヤーゲル(猟銃と訳す)というのは初期のライフル銃で、前装ではあるけれど腔内に施条されていたもので、装填の際の手間がひどくかかった。
 戦国以来の名誉ある栄光に包まれた赤具足、鎧かぶとだったはずである。しかし、それらは幕末の実戦で身を守るのに役に立つどころか、かえって身体に重い傷を残すことになった。
銃創には貫通するものと盲貫(もうかん)という体内に弾丸が残るものがある。貫通したものは、まだ負傷が癒えることもあるし、太い血管や主要骨、重要な神経系統を外れれば当時の医療でも救えるものでもあった。問題は皮膚を破り、肉に食い込む盲貫銃創である。たとえ弾丸をうまく抜いたとしても、籠手や臑当て、鎖帷子(くさりかたびら)といった鉄製の防具の破片が体内に残ってしまうことが多かった。それをすべて取り去らないうちに外傷を縫い合わせても、体内の破片が深く重い傷の原因となったのである。

ゲベールにては届き申さぬ

 『なにぶん賊(長州兵)は打ち候も山上より打ち卸(おろ)し、此方(このかた、当方)よりはゲベル筒にて届き申さず』
 射程が違うのである。ゲベル筒とはすべての西洋式小銃をいう。オランダから輸入したものが主であるが、発火方式は雷管式になっている。雷管(パーカッション・キャップ、またはプライマーという)は衝撃に敏感で、雷汞(らいこう)という爆発物を真鍮(しんちゅう)などの軽い金属製キャップに詰め込んだものだ。これを従来の火縄に替えて、装薬への点火用にしたところに新鮮味があった。もちろん、雷汞の発明は18世紀でしかなく、雷管として実用化したのは1820年頃からといわれている。
 雷汞は、水銀を硝酸に溶かした硝酸水銀を溶液にして、メチルアルコールを反応させて結晶化した不安定なものだった。わが国でも、その理論はオランダから輸入された造兵や化学書によって早くから知られていたが、完全な実用化には至っていなかったという歴史がある。それでも幕末期になれば、和製の火縄筒の火皿(ひざら、導火薬を盛るところで火蓋がついていた)近くを改造して「管打ち(かんうち)」といった改造銃はできあがっていた。これが井伊勢のもっていた「和筒(わづつ)」である。
しかし、西洋輸入の新式といっても、なにぶん銃腔内はツルツルである(スムース・ボアという)。これを滑腔(かっこう)銃という。ただし、装薬への着火方式は雷管の採用で劇的に改善された。まず、雨風に強い。キャップに封入されているからだ。
戦国期から江戸期を通じて、火縄は晴天の1日の合戦では30尺(約9メートル余)を用意し、予備として1銃あたり5尋(ひろ、約7メートル余)をもつことになっていた。これの製造、保管、保守点検などだけでも大変な負担だった。しかも、戦場に運ぶのである。装薬や口火薬ともども湿気にも弱く、いつも火を点けているために不断の注意が必要とされた。それがすべて小さな、右手でつまめる小さなキャップで解決してしまったのだ。
ところが、ゲベール銃にはまだまだ欠陥があった。それは命中率が低いことと、射程の短さである。なお、よく「射程距離」という誤った書き方や言葉を見たり、聞いたりするが、射程という言葉には届く距離という意味があり、射程とは弾丸が届く最大距離をいう。また、「有効射程」とは敵を倒すことができる威力があり、命中を期待できる距離のことである。だから射程は1キロメートルであるが、その有効射程は200メートルなどという例は後にもよく見られる。
雷管式ゲベール以前の洋式銃で有名なのは、長崎の町年寄、高島秋帆(たかしま・しゅうはん、1798~1866年)の洋式砲術訓練だろう。1841年には江戸郊外の徳丸が原で幕府高官たちに弟子たちを将兵にして公開した。こうした偉業を記念して、いまは東京都板橋区高島平という地名にその名が残っている。このときに秋帆の弟子たちが装備し、演習で公開したのが1777年式オランダ軍制式小銃(燧石銃・すいせきじゅう)だった。18世紀の各国はみな同じようなフリント・ロック(燧石・すいせき=火打石)式小銃を制式にしていたのである。
雷管式のゲベール銃は画期的な存在だった。火縄も不要で、燧石銃のように射撃時に大きなブレが出ない。ただ、問題は、その球形弾丸と滑腔(かっこう)であることだった。小銃だけではなく、火砲もまた筒である。最後部は密閉が必要になる。小銃は当時、ネジ式の鎖栓(させん)で閉じられた。火砲も鋳造されたものなら、最初から後部は閉じられていた。問題は内部の装薬への着火である。
火縄銃時代から、外部と装薬の詰められた銃(砲)身後部は細い穴でつながっていた。そこで火縄銃では口薬(こうやく)ともいわれた細かい火薬を外部の火皿に置いた。火蓋を開ければ、火縄の先端の火が口薬に点火できる。細かい火薬の粒は細い穴を伝わって装薬に火を届けた。古式火縄銃の演武などを見て、観察力のある人は、引かれた引き金によって火縄挟みが火皿に打ちつけられ、まず、白い煙が垂直に上がるところを見られるだろう。続いて、銃口から盛大な煙が出て、同時に火門孔からの「あおり」も見ることができるに違いない。つまり、密閉がされていないのである。それは火薬の燃焼ガスのすべてを弾丸に押し出していないことを示している。
銃口から弾丸を装填するということは、銃身内の穴(銃腔)の直径が弾丸外径より広いことを意味する。だから下に銃を向けたときに弾丸が転げ落ちないように、装薬で弾丸を上下に挟み込むようにして槊杖(さくじょう・ラムロッド)で突き固めたのだ。装薬が燃焼して弾丸を前に送りだす。そのとき弾丸は決して直進しない。上下左右の銃腔内の壁にぶつかりながら飛んでゆくから、そのおかげで有効射程はひどく短い。
英国軍が17世紀末から18世紀半ばまで使っていたブラウン・ベス小銃は、150ヤード(約137メートル)で撃たれて死傷するのは、よほど運が悪いと言われていたそうだ。ふつうの射手では、200メートル先の3階建ての建物を狙って、3発に1発の命中があるという程度だったらしい。同じく滑腔銃の和製火縄銃でも、名人なら10間(約18メートル)でかなりの命中があったという。たしかに江戸期の角場(射撃場)でも通常は15間(約27メートル)で黒点(命中を示す的)の直径は8寸(約24センチ)だし、上級者は30間(約55メートル)だったのである。
もっとも、火縄銃の威力はけっしてバカにしたものではない。50メートルの距離で、竹束、畳3枚、牛革3枚を重ねた楯を貫通させている実験結果もある。12.5メートルの距離なら口径18.9ミリ、弾径18.2ミリ、弾丸重量34.8グラムの銃では、装薬10グラムを使い、軟鉄の鉄板1ミリ、ヒノキ板3センチ、竹束を簡単に貫いた。戦国合戦の話で、将領級の人たちがしばしば7間(約12~3メートル)や8間(同14~5メートル)の射程で撃たれ、落命している。
幕末、ペリー来航のショックで国防力の強化を考えた幕府は、銃器の輸入を自由化した。1859(安政6)年6月20日、「各国舶来の武器類・・・万石以上(大名)・以下(旗本・御家人)、諸家陪臣に至るまで買取り」が自由であるとする。以後、幕末・維新期にいたるまで、おそらく50種類、60万挺以上の外国製銃が日本人の手に渡った。そしてそれらを模倣した西洋式小銃も10万挺以上があったと思われる。
次週は井伊軍を潰走させたミニエー銃について説明しよう。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(2018年(平成30年)11月7日配信)