陸軍小火器史(37) 番外編(9)─予備隊の誕生さまざま(2)―

お詫びと訂正

 多くの皆さまからお問い合わせをいただきました。FJさま、ご指摘をありがとうございました。またお手数をおかけいたしました。わたしのミスで、国家警察(国警)と自治体警察についてのご説明を忘れてしまいました。まことに申し訳ありません。今日のお話であらためてご説明します。

参院選挙について

 日曜夕方からテレビにくぎ付けになり、8時からの速報番組を見つめました。いささか耳ざわりだったのが「改憲勢力」という言葉でした。たしかに安倍首相率いる自民党は公約の中に「9条の改正」を取り上げ、問題提起をしていました。しかし、多くの候補の中で、それを真正面から語る候補者は少なかったと感じます。依然として、防衛や安全保障といった話題は票に結びつきにくいのでしょうか。
 そうした中でも、仲間褒めではありませんが、防衛副大臣佐藤正久候補の訴えと広報活動は目立ったものでありました。佐藤議員とわたしは20年近いお付き合いになりました。イラク派遣の直前に、あのトレードマークの髭を生やして市ヶ谷で出会ったのが初めてです。現地では髭が常識であり、生やしていかないと現地の住民とうまくコミュニケーションがとれないからとのことでした。議員に転身され、一貫して自衛隊、隊員の皆さんのためにいつも精力的な活動を続け、現在もよい関係をもたせていただいています。ほんとうに当選されてよかったです。
 そうして改選議席の過半数を与党で占めたことは、いちおう、国民の中では改憲についてはOKサインが出ているのでしょう。野党の方々も、これから考えてせめて「憲法審議会」に出られて、この状況の中で真摯に論議されることが必要ではないかと思います。

戦後史についての確認いくつか

戦争の終結日は?

「あの戦争はいつ終わりましたか?」というと、たいていの方が「8月15日に決まっているでしょ」とおっしゃいます。実際、中学校の歴史分野の教科書にも、「日本政府は、最後まで天皇制の存続の確認に努めていましたが、8月14日、ついにポツダム宣言の受諾を決め、翌15日、昭和天皇がラジオ放送によって日本の降伏を国民に伝えました。こうして第二次世界大戦は・・・終わりました」(平成23年検定済み、日本文教出版社編)と書いてあります。
「敗戦記念日」といわず「終戦記念日」とされている8月15日ですが、ほんとうの国際的な事実では、まったく間違った認識です。世界中の、あるいは米英支蘇(アメリカ・イギリス・中国・ソビエト連邦=ロシア、ほか連合国も含む)の国民の常識では、いまでも9月2日になっています。
 なぜなら、一方が「やめた」といったら、それで戦争は終わるでしょうか。ポツダム宣言を受け入れました、以後、戦闘行為はやめます・・・といえば、それが戦争の終わりだったのでしょうか。
 違います。戦争の終わりは、双方が、つまり日本帝国と連合国が両方で確認しあう必要がありました。まず、戦闘行為を停止し「休戦条約」を結び、平和条約(講和条約)の交渉をして調印するという手続きがあって、はじめて戦争は終わるのです。ドイツの場合は首都を破壊され、国土の大かたを占領され、1945(昭和20)年5月7日に降伏文書に署名して終戦になりました。
 わが国の代表が降伏文書の調印に臨んだのは、東京湾上の戦艦ミズーリでした。政府全権として重光葵(しげみつ・まもる)外務大臣、軍部の全権は梅津美治郎(うめづ・よしじろう)参謀総長(大本営全権)です。政軍のそれぞれの代表がうちそろって、アメリカ戦艦の甲板上で署名しています。気になるのは、陸海軍の将校たちが帯剣を許されず、丸腰で甲板に立たされていることです。アメリカ式の合理主義でもありましょうが(アメリカ軍は帯剣の風習は正装しかしません)、降伏とはそういうことだぞと見せつけているような気がします。
 トルーマン大統領は、9月2日の降伏文書への調印式を終えるとすぐに、ラジオ放送で「対日戦争勝利の日」と宣言します。この「降伏」という言葉から目をそらすために、「終戦」という言葉を発明したのでしょう。のちには「占領軍」を「進駐軍」と言いかえます。敗戦、そして占領、厳しいGHQ(連合国最高司令官総司令部)による統制などを「忘れるため」「忘れさせる」ために、使われてきた言葉だと思うのです。

忘れさせられてきた文書の中身

 では9月2日の「降伏(休戦文書)」をしっかり読んだことがあるか? この問いにはほとんどの人が「ない」と答えるでしょう。教科書にも、あるいはマスコミによる論にも、「ポツダム宣言」はあるのですが、この日本代表が署名した文書を引用されることはありません。
 文書の骨子は次の通りです。
(1)日本のすべての官庁、軍隊は降伏を実施するために、連合国最高司令官の出す布告、命令、指示をすべて守ること。
(2)日本はポツダム宣言実施のために、連合国最高司令官に要求されたすべての命令を出し、行動をとることを約束する。
 つまり、日本政府は、その存続を許されるために、連合国最高司令官からの要求にすべて従うことを約束させられたのです。
 だから、占領期間のわが国の政治家や官僚、外交官がした仕事について、あれこれと批評してもあまり意味がありません。なぜなら、すべてが完全にマッカーサー司令部、ひいてはアメリカに「隷属(れいぞく)」していたのです。この屈辱的な国の姿が終了するのは、1951(昭和26)年9月8日(日本時間では9日)のサンフランシスコ講和条約の日を待たねばなりませんでした。

見送られた直接軍政

 9月2日午前9時に始まった降伏文書の調印式はわずか20分で終わりました。午後4時、総司令部参謀副長マーシャル少将が、公使になったばかりの鈴木九萬(すずき・ただかつ)を呼び付けます。用件は翌日に発する布告の通達でした。そこには次のような厳しい現実が書かれていました。
(1)日本全域の住民は、連合国最高司令官の軍事管理のもとにおく。行政、立法、司法のすべての機能は連合国最高司令官の権力のもとに行使される。英語を公用語とする。
(2)アメリカ側に対する違反はすべて軍事裁判で処断する。
(3)アメリカの発行する軍票を法定通貨とする。
 おどろき慌てた政府は、すぐに会議を開き、8月26日に設置されたばかりの「終戦連絡事務局」長官を横浜に派遣します(当時、連合国軍総司令部は今も残る横浜税関にありました)。サザランド参謀長に会うために岡崎長官は宿舎のニューグランド・ホテルに向かいました。大騒ぎのすえにようやく早朝にマーシャル少将をつかまえ、布告を延ばしてもらうことになったのです。
 3日の午前8時には登庁するマッカーサー元帥をつかまえて、重光葵は要求しました。ポツダム宣言は明らかに「日本政府の存在」を認めている。軍政を布くことは宣言の違反行為である。条文にない措置を取ることは混乱を巻き起こす。そのように元帥を説き伏せたのです。重光の態度は、勇気がなくてはとれないものでした。このことはたいへん立派だったと言えるでしょう。
 
 しかし、このことは大変な問題にからんでいます。アメリカ本国のトルーマン大統領は、「占領をその条項の駆け引きから始められない。われわれは勝利者であり、日本は敗北者なのだ。彼らは無条件降伏とは交渉をするものではないことを知らねばならない」と自分の『回顧録』にも書いています。
 ところが、実はポツダム宣言には、「日本国は無条件降伏をする」とは一行も書かれていません。「無条件」降伏を要求されたのは、日本陸海軍だけだったのです。どころか、「我ら(連合国)は左のような条件を提示する」と宣言には明記され、「条件付き降伏」だったことは明確です。
 誰が、いつの間にか、陸海軍の無条件降伏を、「国家」のそれとすり替えたのか? これもおいおい明らかにしてゆこうと考えています。なぜなら、ポツダム宣言には「我らは領土的野心はもたない」とあるのに、連合国の一員であるソ連は北方領土に侵攻し、日本軍人、現地住民の生命財産に危害を加え、一方的な占領状態を続けているのです。無条件降伏だったから何をされても仕方がない・・・それでは北方問題について抗議もできません。

ポツダム命令とは何か

 1945(昭和20)年9月20日、つまり降伏文書調印から18日後のことになる。帝国議会の審議や協賛を必要としない「勅令」が出された。『ポツダム宣言受諾ニ伴ヒ発スル命令ニ関スル件』という第542号の勅令である。
 帝国議会の審議や議決を必要とする法律よりも、「命令」が優先するというのが中身である。法律を命令で改正、廃止できる。占領政策について、国民の代表である国会議員があれこれ議論する、そんなことが許されるわけもなかった。
 ここでいう命令とは、勅令、閣令(かくれい・内閣の出す命令)、省令のことをいう。翌年の日本国憲法施行後は、政令、総理庁令(のち総理府令)、省令となった。
 勅令第542号だけが緊急勅令であり、これに基づいて制定されたものが「ポツダム命令(管理法令)」という。このおかげで、帝国議会や憲法制定後の国会とまったく無関係に多くの管理法令が出された。とはいえ、現在の目から見ても、占領下であるにしては、まったくの無茶、無謀というものは少なかった。アメリカの「よさ」でもあり、わが先人たちの交渉能力のおかげでもあっただろう。

警察制度の改廃

 わが国の警察制度は、その発足はイギリス式、ついでフランス式、ドイツをモデルとしたが、内務大臣を頂点とした強力な中央集権型だった。警視庁や各道府県警察本部は、内務省警保局による一元統制がされていた。東京府は警視総監のもと各警察署長は統制され、各府県北海道庁では警察部長が警保局長に隷属し、各署長を指揮下においた。特徴的だったのは、列国に多く見られる自治体警察がなかったことである。
 自治体警察というのは、たとえば映画「アンタッチャブル」に出てくるシカゴ市警察である。市警察の長は市の公安委員会で任命された。子供の頃みたアメリカ西部劇では、よく胸に星のマークを付けた「保安官=シェリフ」である。町の有力者とは親しく、「巡回判事」の命令で犯人を捕まえていた。少し上に見えたのが「連邦保安官=マーシャル」だった。胸のマークも意匠が違っていて、権限も大きく見えた。
 GHQは日本の「民主化」には、この警察制度を破壊し、秘密警察を無くさせ、自分たちの民主社会をモデルにさせようとした。わざわざ命令の中に入れた「秘密警察」なるものは、その実態とまるでかけ離れた「特別高等警察」のことだった。いわゆる「特高(とっこう)」と通称された思想対策を専門にした警察組織のことをいう。アメリカ人の目からはドイツのナチ党のゲシュタポや、ソ連の共産党がもつゲーペーウーのようなものに見えたのだろうが、特高は権限も存在もまるで違うものだった。
 もともと高等警察というのは、ふつうの治安維持にあたる行政警察に対しての高等である。政治警察のことであり、特別がついたのは各種社会主義運動の取り締まりを任務として発足した。昭和初年の治安維持法と合わせて記憶されるが、その発足は1911(明治44)年のことだった。日露戦後のマルクス主義の浸透に対するものである。警視庁に特別高等課がおかれた。時代が過ぎ、1928(昭和3)年には内務省警保局保安課に専任職員が配置されたのが以後、徐々に全国に拡充されるようになった。警視庁に特別高等警察部がおかれたのは1932(昭和7)年のことだった。
 
 戦後の大きな誤解の一つに、陸軍憲兵隊の特高課との混同があることである。同じような不法な、非人間的な行動をとったという非難がましい評価が聞こえる。しかし、これまた軍隊についての無理解、無知がもとになっている。
 憲兵隊の行なった謀略や、諜報活動、情報分析、対敵行動などそのものはまったく不法なものではない。どこの国の憲兵隊でも行なうことで、敵に協力する思想の持ち主は当然、監視対象になり、刑法にふれれば逮捕し、軍法会議に起訴するのは当然のことである。
 警察と軍隊はまったく異なった組織であり、似たような名称から同じようなものだと考えるのはとんでもない誤解である。特別高等警察の司法警察官たる警務官や同補の人たちは自分たちが、ドイツやソ連の秘密警察と同じだなどとはまるで思ってもいなかった。
 あれは特定政党、ナチスやソ連共産党といった組織に忠誠を誓う警察であり、自分たちは「国家の警察」「陛下の警察」だと誇りをもっていたのだ。だから、アメリカ軍の命令で「秘密警察の職員は公職から追放する」といった指令がでたときも、自分たちのこととは思っていなかったという。

人口5000人以上の市には警察を

 1945(昭和20)年10月4日、「政治的公民的および宗教的自由の制限除去に関するGHQ覚書」が出された。
(1)治安維持法等の廃止
(2)政治犯人の釈放
(3)秘密警察機関と言論検閲関係機関の廃止
(4)内務大臣・警保局長・警視総監・府県警察部長・特別高等警察官の罷免
が、その内容である。
 1946(昭和21)年3月の憲法の改正をにらんで、内務省警保局は地方分権の改革案を出したが、GHQからは相手にされなかった。つづいて検討されたのは内務省案だったがこれもまた突き返される。そうこうするうちにマッカーサー指令が出た。1947(昭和22)年9月16日のことである。市と人口5000人以上の町村すべてに自治体警察と国家地方警察隊の設置を命令してきた。
 市町は独立の警察を維持・管理し、民間人3人による委員会が警察の長を任免すること。この民間人委員は議会の同意を得て市町長が選ぶ。この自治体警察では対処できない治安維持と非常事態に対処する国家地方警察隊を設けること。都道府県内の国家地方警察隊の指揮は都道府県の委員会が担当する。内閣に属する国家公安委員会を設けるが、国家地方警察と自治体警察の間には指揮命令関係をもたせない。合計人員を12万5000人とし、うち国家地方警察は3万人とする。
 なお、GHQ内部では警察制度は民生局の担当だが、治安維持を担当するのはG2の中の公安課だった。ちなみに、軍司令部の中はG1が人事担当、G2は情報・諜報、G3は作戦・運用、G4が兵站、運輸等を管掌していた。いまの陸上自衛隊でも同じようであり、師団・旅団・団では1部から4部、連隊などでは1科から4科に分かれている。

現実化した自治体警察

 市と人口5000人以上の市街的町村は、市町村長のもとに公安委員会を設けた。市街的町村とは、世帯総数の35%以上が市街地に住み、幹線道路や輸送機関(駅やバスターミナルなど)、商店街やいくつかの公共施設(郵便局や役場、消防署など)があるものをいった。こうした市町村は1つ、もしくは2つ以上の警察署を置かねばならなかった。この自治体警察は「警察長」という階級の指揮監督する者をおき、その下に各階級の「警察吏」がいた。警察長の任免権は市町村長がにぎった。経費は自治体が負担する。こうして、全国一元統制だった警察制度は、国家警察と自治体警察に分けられることになった。
 問題はこの経費負担と治安維持能力だった。国家地方警察もまた同時に存在したが、自治体警察との上下関係も指揮関係もなかった。自治体警察は、地方のボスの意向を受けやすく、公平性も保障しにくかったという指摘もあった。階級は国家地方警察と共通のものだった。下から、巡査、巡査部長、警部補、警部、警視、その上に警察長である。国家地方警察は警視の上に警視正、警視長、次長、本部長官となった。
 こうした「アメリカ型民主主義」の直輸入を強行した占領軍、それに従うしかなかった日本政府によって、さまざまな改革が急いで進められた。次回では、この警察制度の進展と崩壊、治安と予備隊について紹介していければと考えている。
 さまざまな識者の先行研究を参考にさせていただいている。中でも、『事典 昭和戦後期の日本 占領と改革』(百瀬孝、吉川弘文館、1995年)には、たいへんお世話になっている。直接の引用もとくに明示していないが、お礼を申し上げる。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(令和元年(2019年)7月24日配信)