陸軍小火器史(46) 番外編(18)─警察予備隊の戦車「M4シャーマン」ー

ご挨拶

 台風15号による被害の復旧がとんでもないことになっています。主に千葉県ですが、深刻な被害がありました。首都圏への直撃が少ないなか、これほどの災禍をもたらすとは多くの人も予想していませんでした。電気が停まり、水も出なくなる、鉄道も道路も不通となる、しかもそれが1日のことではなく、1週間にも及ぶようになった・・・こんなことになるとは誰も思わなかったことでしょう。
 電気こそがわたしたちのライフラインだと思わされます。便利であり、当たり前のものが自然の大きな力で一気にくつがえされてしまう。
「たかだか電気のようなものに自分たちの命を預けていいのでしょうか」と国際的な文化人、音楽家でもある原発反対論者はおっしゃいました。そうだ、その通りだ、危険な原発はやめろ・・・と賛同する方もおられるでしょうが、目の前の大被害には何にもなりません。
社会の仕組みを変えろとおっしゃるのでしょうが、そのためには何から手を着けたらよいのか、具体的な提言をお願いしたいものです。
自衛隊が災害派遣で出動しています。人手不足の中で、隊員たちはけんめいに活動しています。水がない、倒れた木を伐れ、道路を直して

はじめに

 千葉県の災害はたいへんお気の毒です。屋根が飛ばされ、雨漏りがする。なんとかビニールシートがかけられないか。じゃあ、自衛隊の派遣を頼もう。自衛隊は断れない。しかし、自衛隊の活動は、民間への支援では「公平・平等」を原則とする。ある集落のいちばん危険な家にだけ補修の手伝いをして、順位をつけて急がない家はしない・・・とは言えないのだ。
 しかも、隊員には高所作業の専門家はほとんどいない。トビの経験者や、その管理者であった人などいないのが当たり前である。それが危険な崩壊しそうな家に立ち向かい、安全管理の専門員(青いカバーをヘルメットに着けている)がそばについて作業をしている。
 先日の映像を見たら、隊員は半長靴を脱いで、私物のようなスニーカーを履いていた。それは当り前で、戦闘用の長靴では危なくて仕方がないからだ。靴底が違う。スニーカーは結構だが、あれはどこから支給されたのか。派遣を要請した県市町村が買ってきたのか?まさか、私物ではあるまいなと、防衛予算の少なさをよく目の当たりにするわたしは、ちょっと疑うのだ。
 困ったら自衛隊、大変だったら自衛隊、危なかったら自衛隊。そのくせ、防衛予算の増加には文句をいう。あるテレビ番組は、地域の被災者が非難がましく「ここには自衛隊は来ていない」という映像を流した。もちろん、リポーターは「困りましたね。自衛隊にもよく考えてもらわなければ」としたり顔でまとめるのである。あ~あ、全国どこでもくまなく出かけ、便利屋よろしくわずかな手当てで、文句をいわれながら活動する自衛官。
 このうえ、作業の道具や衣料も自分負担ではないでしょうね。もし誤解だったら申し訳ないですが。
 小火器史のはずが戦車の話になってしまった。番外編なのでご勘弁くださればありがたい。用兵思想がそのまま装備や戦術につながってくる。ところが予備隊は、装備や戦闘の方法が、そのままアメリカ軍を真似したものになってしまう。
 今回は、数的な主力になったのがM24。それより少数しか供与されなかったが堂々たる姿を見せたM4ジェネラル・シャーマンの話をしよう。わが国に渡されたのは大戦中期から米軍戦車の中心となったこの中戦車の中でも、改良が続けられた後期型のM4A3E8である。このE8、これをイージー・エイトと呼んで愛称とした。
 搭載砲は52口径の76ミリ砲である。初速は1036メートル/秒にも達する。装甲の貫徹力は457~1829メートルの射程で157~98ミリである。戦車の照準は直接に敵をねらって、つまり見える敵を撃つ。おおよそ600メートルから1000メートルくらいで撃てば、たとえ敵戦車の前面の装甲厚が120ミリあっても撃ち抜くことができる。
 前世代のドイツ軍戦車、5号G型(パンター・1944年)でも最大装甲厚が110ミリだからカタログ・スペックでは十分な攻撃力があった。ただし、有名なキングタイガーといわれる6号B型になると185ミリもの前面装甲があったから撃破は難しかっただろう。
 M4E8の最大装甲厚は108ミリである。T34/85の搭載砲は54.6口径85ミリであり、徹甲弾で1200メートル/秒、貫徹力は500~1000メートルの射程で138~100ミリになった。つまり砲の打撃力も、車体の防御力も1000メートルの距離ではほぼ対等になり、事実、韓国の釜山橋頭保を航空優勢のおかげもあり、守りきったのは、このイージー・エイトだったのだ。

まさにマンモスの風格だった

 元自衛官の三味氏の証言によると、スマートな流線型のM24と比べると、まさにマンモスの風格があったという。比べるために(  )内にM24の数字を入れる。戦闘重量、砲弾・機銃弾・燃料等を満載したとき33.6トン(18.4)、全長7.73メートル(5.49)、全幅2.99メートル(2.99)、全高2.98メートル(2.56)、エンジン形式水冷V8気筒ガソリンエンジン(V8気筒ガソリンエンジン×2)、出力450馬力(220馬力)、最大速度41.8キロメートル/時、行動距離161キロメートル(161)と確かに中戦車と軽戦車の差は歴然としている。
 また車載機関銃としてはM2キャリバー50(12.7ミリ)を砲塔上に1挺、車体前方にM1919A4キャリバー30(7.62ミリ)、砲塔に砲と並んで連装銃として同じ空冷機関銃を1挺装備した。この砲と並んで砲塔内に装備された機関銃を「連装機銃」と言ったり、「同軸機銃」と書いたりする人もあるが、「機銃」とは海軍用語であり、陸上自衛隊戦車部隊では連装銃あるいは連装機関銃という。このことは、元戦車兵で筆者の畏友、神博行氏が教えてくれた。
「砲種連装 前の台敵散兵 連装行進射 撃て!」という号令からも分かるように車載機関銃は「連装」もしくは「連装銃」という。よくマニアの方々が口にされる「同軸機銃」という言葉も使わない。おそらく英語からの直訳ではないか、またそれが広まったのは戦車のプラモデルの解説書からではないかと神氏は語る。
 元陸上自衛隊武器学校長の市川氏の新著『不思議で面白い陸戦兵器』には、「戦車砲の基部に砲身と同じ向きに搭載されていることから『同軸』と呼びます」とあるので、これは興味深い話題でもある。整備や後方支援にあたる武器科の隊員の用語と、実際に使う戦車兵の言葉との間で違いがあるのだ。職種(兵科)の文化の違いともいえる。
 いずれであれ、通信手が操作する前方を掃射するキャリバー30(7.62ミリ)と砲塔に砲と並んでついた連装銃(同じくキャリバー30)は主に近距離の対人用である。これは砲の照準器を使って砲手と車長が撃つことができる。乗員は前方左に操縦手、右に前方銃手、砲塔内には砲をはさんで左に装?手、右に砲手と車長が乗る。映画『フューリー』をご覧になった方には理解しやすい。
 砲弾は86発、対空機関銃M2の弾は630発、前方・連装機関銃弾は6875発だった。最大登坂能力は60%、約31度であり、旋回半径は9.45メートル、渡渉水深0.914メートル、超壕幅2.29メートル、垂直登壁高0.61メートル。そうしていわゆる燃費は1リッターあたり271メートルという。
携行燃料は636リットルだから、行動距離は約172キロメートルあたりになる。ただし、これもカタログ値であり、平坦な道路、草原などを走る場合と、起伏があり、溝などもある不整地を走る場合では燃料消費量が異なることは理解できる。だからカタログでは161キロメートルとなっている。

装甲のこと-司馬氏の話は技術者を泣かせる

 ふつうの鉄でできた鉄板(てっぱん)では敵弾を完璧には防げない。戦車は全身を鋼鉄の鎧でおおう。軟鉄(ふつうの鉄)にマンガンやニッケル、コバルト、モリブデンなどの元素を加えると、より堅い合金になる。これが鋼鉄、スチールであり、わが国でも幕末以来、反射炉などで製造に苦労してきた。
 鉄鉱石からできあがる「銑鉄(せんてつ)」はそのままでは中の炭素の量が多すぎ、不純物も多く含まれるから、硬くて、そのかわり脆(もろ)い。鋳鉄(ちゅうてつ)といわれる「鋳物(いもの)」の原料になる。これを鋼(はがね)にするには不純物を除き、炭素量を1%から2%くらいにする。これは硬く、しかも粘りがあるので、いわゆる装甲鈑(そうこうばん)に使えるようになった。
 技術の進歩は手探りである。しかも軍事技術は相手があることだから、互いの手の内を読みながら、より強力な防禦力をもつ装甲鈑を開発する。また、相手の装甲鈑を撃ち抜く弾を研究、実験を重ねて生産しなければならない。ノモンハン事件(1939年)では、わが戦車の砲弾はソ連軍戦車の装甲に弾き返されたようだ。もちろん、当時の最新装備の九四式37粍速射砲は、距離によって十分に有効だったという。
 装甲鈑には硬さと軟らかさが大切である。硬くなくてはガツンと相手の弾を弾き返せないし、同時に軟らかくなくては弾の命中した衝撃で割れてしまったり、ひびが入ったりしてしまう。高名な歴史小説家の司馬遼太郎氏は戦車兵だった。専門学校から戦車兵として入営、幹部候補生として予備役少尉に任官、即日召集され戦車聯隊に赴任する。
 その司馬氏の体験談(『歴史と視点-私の雑記帳、戦車-この憂鬱な乗り物』1980年、文春文庫)を読んで、わたしは驚いた。戦車を「やすり」でこすった経験を書かれている。初年兵の頃の古い戦車は「やすり」をあてるとカラリと滑って歯が立たなかった。ところが密かに新型戦車の砲塔をこすってみた、「ザラリとやすりを受け止めた」。だから、「普通の鉄」を装甲に使うほど、日本陸軍は落ちぶれていたというのだ。
 戦時中の当時、それを聞いたら冶金の技術者やメーカーの担当者は、文系学徒あがりの予備少尉の誤解と無知とを笑い飛ばしただろう。ところが、戦後20数年経って、それを書かれ、聞かされた技術者たちは泣くしかなかった。いくら抗弁しても世間は国民的大作家の書かれたことである。しかも司馬氏は帝国陸軍戦車隊の元将校だった。
日本人の多くは、「自分の実感や体験を疑うことから始まるのが科学である」という意識が低い。やった人が言うのだから、あるいはやられた人が言うのだから正しいということが常識になっている。司馬氏は自分の体験から日本軍戦車を悪く言う。事実が多いのはその通りだが、科学的根拠のない非難が多い。
詳しいことは製鉄や製鋼、装甲鈑の専門家の本を読めばいいが、1929(昭和4)年の制式戦車である89式軽(のちに中)戦車と、1943(昭和18)年の3式中戦車では装甲の性質も、能力も、その組成そのものが違っているのだ。当然、後者が進歩しているわけで、そのために技術者たちは懸命の努力をしていた。それをヤスリの目が立つ、立たないで「ただの鉄」と酷評されたら泣くに泣けない悔しさにかられたことだろう。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(令和元年(2019年)9月25日配信)