陸軍小火器史(47) 番外編(19)─M4戦車の配備ー

お礼

 YHさま、いつも楽しい、刺激のあるご投稿、まことにありがとうございます。戦車の有用性は、そのカタログスペックではなく、後方の支援体制との整合性が問題とのご指摘など、まさにわが意を得た思いです。国の用兵思想に支えられた装備調達、国民のレベルをはじめとして、その総合力が支える「戦力」の重要性が見えてきます。
 今回も、M4戦車とM41軽戦車の話題をお届けします。

M4にまつわる思い出

「なんでもかんでも大きかったですね。しかも操縦がたいへんでした」
 後輩の隊員たちに伝えられたエピソードは数多い。シートが深い、クラッチペダルに足が届かない、変速ギアが堅かった、操縦装置のレバーが長く重かった・・・などなどである。代わりに連装銃(砲と並んで付けられた30口径の機関銃・M1914)はひどく好調で整備も容易、とてもよかったなどの話が残っている。
 大きかったのも当然だろう。当時のアメリカ兵の平均身長は約167センチ、対して陸上自衛官のそれは約160センチである。平均がそれだから、ちょっと小柄な人にとっては、足先がペダルに届かなかった。「下駄をはかす」という言葉があって、ブーツに適当な木片などをしばり付けて工夫したものだという。
操縦シートも前方射手(無線手も兼ねる)や操縦手シートは深く、大きく、座布団などを持ちこんだらしい。それなしに座ると、前方視界を与えるペリスコープの位置が高すぎた。
 変速は乾式複列型クラッチ、前進5段・後進1段のシンクロメッシュ式だった。すでに世の中にオートマチック・ギア車だらけの時代になって40年ばかり経つだろう。初めてオートマ車にのったときは、「なんだ、遊園地のゴーカートだな。これで街の中を走るのか」と思ったくらい筆者の世代の衝撃は大きかった。初めて出会ったころは、オートマ(チック)というよりはノークラ(ッチ)の方が言い方として主流だった記憶がある。
 教習所でも左から、クラッチ、ブレーキ、アクセルの順だった。それがノークラ車をのぞくとクラッチがなく、やたら大きなブレーキペダルだけだった。しかも、変速ギアは馴染みの1から4とか5、R(リバース)がノブの上面に書かれたものではなく、P(パーク)・R・L(ロー)・D(ドライブ)などと書かれた直線移動するものだった。初めて運転した時は、左足の役割が分からず、クラッチのつもりで思わずブレーキを踏んだなどという笑い話もあった。
 M4戦車のギアチェンジの話に戻す。左足はクラッチ、踏み込むとエンジンとギアの間の関係が切れる。クラッチ板という仕組みがあって、それが重要な仕組みだ。ギアを高くする、たとえば3速から4速にするときにはたいして工夫は要らない。アクセルから足を離せば自然にエンジンの回転数は下がり、ギアを入れればうまくショックもなくスムースにつながる。
ところが、3速から2速に落とす時にはひと工夫要る。エンジンの回転数を上げなくてはピタッとクラッチ板が同調しないのだ。そこで、クラッチを踏む、ギアを抜く、アクセルを少し踏んで回転数を上げる、一呼吸おいてクラッチを踏みギアを入れる・・・という手順になる。これをダブル・クラッチ、略してダブクラと呼んでいた。うまく合えば、まことにスムースにギアチェンジ完了だが、タイミングが合わなかったり、アクセルの踏み加減を誤ったりすると、ガツンという衝撃がくる。戦車の場合などは、ギア・レバーが跳ね返ってくる。「前歯を折った隊員もいました」という話である。
右に曲がる、左に曲がる。これは身体の左右にあった2本の操行レバーで行なう。右折は左のレバーを前へ押し、左折は右のレバーを前に倒す。ふつうに前進は両方ともに前に押せばいい。後進は両方のレバーを同じ角度で後ろへ引けばいい。これがのちの74式戦車になると、自転車のハンドルと同じ仕組みになる。

JIS(日本工業規格)とエンジン

 部品の国産化は当然の努力だが、ここに困ったことが起きたという。やはり武器科の三味氏の回顧である。当時、工業諸製品の規格はJIS(日本工業規格)が採用された。米国の1インチに対して25.4ミリと換算したが、アメリカでは1インチ=25.399ミリだった。その差は0.001ミリになった。
 M4戦車搭載のフォード・FM-GAA6002エンジン部品のベアリング関係の公差は、プラス・マイナス0.001ミリだった。そうなると1インチの物を製作すると、アメリカ規格の換算では公差プラス・マイナス0.001ミリの範囲は、25.398ミリ~25.400ミリ。これがJIS規格では25.399ミリ~25.401ミリとなることになった。
 これがエンジン内部の部品組み付けなどで事故を起こした。三味氏はオイル循環の例を上げておられるが、なかなか深刻な問題にもなったらしい。とはいえ、フォードエンジンは信頼性も耐久力も優れたものだったという。仮定として500時間、時速40キロメートルとして走行距離が2万キロメートルごとにオーバー・ホールすれば可動命数の延長が可能であり、独・ソ連の戦車用エンジンに比べて耐久性が高かったという。

配備が進む戦(特)車

 1962(昭和37)年まで、陸上自衛隊では戦車という名称は使えなかった。そのためこの当時は、「特車」であり、「特車中隊、特車大隊」だった。本稿では、統一して戦車の呼称を使っている。
1954(昭和29)年3月になって、日米相互防衛援助協定が調印された。これはアメリカの国内法であるMSA・1954による援助を日本が受け入れるための協定だった。これによって、わが国は米国から無償で兵器を供与されることになった。
 この当時の貸与された戦車はM24軽戦車が234輌、M4中戦車20輌、M32戦車回収車が32輌だった。それが協定の締結後、7月末には、それぞれ351輌、195輌、35輌となった。合計で581輌となる。しかも、強力なM4の増加数が多い。
 この年、防衛庁が設置され、7月には2万人が増えて保安隊から名称を変えた13万人の陸上自衛隊が発足した。このとき、従来の4個管区隊から6個に増やし、それぞれの管区隊には特車大隊(戦車の名称は使えなかった)が編制表に載ることになった。それまでの「歩戦チーム」で戦うための普通科(歩兵)連隊第14中隊が集成され、大隊編成になり、機動打撃部隊に様変わりするようになった。
 各管区隊の特車大隊の編成要領と駐屯地は以下の通りである。
第1特車大隊:群馬県相馬原で編成、千葉県習志野を経て静岡県駒門駐屯地へ。
第2同:北海道名寄で編成、上富良野(ふらの)駐屯地へ。
第3同:滋賀県今津駐屯地。
第4同:熊本で編成、熊本県健軍から大分県湯布院を経て同県玖珠(くず)駐屯地へ。
第5同:北海道帯広で編成、鹿追(しかおい)駐屯地に。
第6同:群馬県相馬原で編成、福島を経て宮城県大和(たいわ)駐屯地へ。
 戦車は近くに広い演習場を必要とする。そこで、大隊はそれぞれ東富士、上富良野、饗庭野(あいばの)、日出生台(ひじゅうだい)、然別(しかりべつ)、王城寺(おうじょうじ)の各演習場に隣接する地に駐屯している。同じように戦車をもつ偵察中隊も、中隊長職につくものが1尉(1等陸尉・大尉にあたる)から3佐(3等陸佐。少佐同)になり、第1から第4までの偵察中隊は当時の駐屯地で改編された。
 新たに編成された第5偵察中隊は北海道釧路(くしろ)で編成、鹿追を経て矢臼別(やうすべつ)演習場に近い別海(べっかい)駐屯地へ。第6同は群馬県新町(しんまち)で編成、宮城県船岡(ふなおか)駐屯地を経て、大和駐屯地に。
 さらに管区隊の隷下になかった独立第1特車大隊を第101特車大隊として改編し、北海道北恵庭(きたえにわ)に移駐し、第103特車大隊も同じく北恵庭で編成された。
 独立特車大隊とは本部管理中隊(M4×3、M24×2、M32×2)と戦車4個中隊と衛生隊で成っていた。1個中隊は各M4×5の3個小隊と中隊本部(M24×2、M32×1)でフル編制になる。合計で戦車が73輌、回収車が6輌といったかなりの戦力がある部隊だった。管区(後の師団)特車大隊のM24軽戦車×53、M4中戦車×3、M32回収車が×5と比べると、その強力さがよくわかる。
 当時は、その2個大隊が北海道に配置され、いかにソ連軍の侵攻を警戒していたかということである。なお、第102特車大隊にもふれておこう。
静岡県小山町の富士学校は1954(昭和29)年8月に開校したが、ここでは歩兵・砲兵・戦車兵に関する教育、研究が行なわれる。この機甲科部の教導部隊として新編されたのが第102特車大隊だった。この大隊はのちに(1961年)富士教導隊本部設立と共に特車教導隊として改編された。そのときの所属は戦車74輌編成だった。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(令和元年(2019年)10月2日配信)