陸軍小火器史(22) ─傑作といわれた九六式軽機関銃ー

チェッコに撃たれる

 九六式軽機は、現役を引退した南部麒次郎中将が興した中央工業南部工場製の製品である。満洲事変(1931年)以後の戦場で、中国軍はチェコ・スロバキア製の口径7.62ミリのブルーノZB26軽機を撃ちかけてきた。ZB26は世界最初の完成された軽機関銃であるといっていい。
 世界大戦後にチェコ・スロバキアは独立を達成した。独自の兵器を開発するということから、国策会社ブルーノが1922年に設立された。政府が75%、スコダ社が20%、その他が5%という資本構成だった。24年、ホレク技師がチェコ陸軍の機関銃の採用トライアルに応募し、ガス作動式の軽機を提出した。これが26年に制式化された。優秀なスコダ鋼と、元から評価の高いチェコの精密工作技術、優れた設計と三拍子そろったものだ。
 全長は1161ミリ、銃身長672ミリ、重量は2脚をいれて9.6キログラム、給弾方式は箱型30発入り弾倉、初速は762メートル、口径は7.92ミリというドイツ式の強力なものだった。1930年には改良が加えられた。撃針が短くなり折れにくくなったといわれている。これをZB30というが、チェコ軍もわざわざ更新することもなく26型を使い続けた。30型は主に外国に輸出された。その最大のお得意さんは中国だった。満洲事変以後、あらゆる戦場で「チェッコ(日本兵のつけた通称)」は日本軍に火を吐いた。
 また英国は第1次大戦以来のルイスに代わるライト・マシンガンにこのZBを採用した。1935(昭和10)年には英国向けに改良された口径0.303(7.7ミリ)のこの軽機はブレンと名付けられた。ブルーノの頭文字と製造権を取得し英国で生産するロイヤル・スモール・アームス・ファクトリーが所在するエンフィールドの頭文字を組み合わせてBRENとされた(『第2次大戦歩兵小火器』ジョン・ウィークス著、床井雅美訳、並木書房、2001年)。1940年夏までに3万挺以上が生産され、英国軍に支給された。のちにインパールやニューギニアなどの英豪軍もこれを装備していたから、わが十一年式や九六式軽機とも撃ちあったことだろう。
「とにかく火制距離がある。600から800メートルで撃ってくる。場合によっては1000メートルでも届いてきた、しかも停まらない」とチェッコに撃たれた体験談にある。十一年式軽機は満洲の厳寒、埃に弱かった。整備を十分にして、熟練した射手でもよく故障を起こした。それに比べて、チェッコは無故障ではないかと思えるほど盛大に撃ってきた。
 十一年式軽機にかわる新機関銃の開発には珍しい方法がとられた。民間の銃器産業育成の視点から、軍が仕様を示し、民間メーカーがこれに応募して競争試作をするという初めてのやり方にした。もちろん、官である陸軍造兵廠もこのコンペに参加することになった。その結果、南部中将の中央工業南部工場が採用を射とめたというものである。

軽機の役割が変わる

 小銃と軽機を7.7ミリに増口径をという要求をいったんおいて、小銃弾と同じ6.5ミリ弾の軽機が設計された。全長は1048ミリ、銃身長550ミリ、尾筒底(機関部の最後部)まで銃口からは824ミリ、重量は弾倉ともで10.2キログラムである。列国の軽機と比べると、少し小柄に見える。実際、チェコZB30と比べると、約110ミリ短い。アメリカのBARの1214ミリと比べても、同じく170ミリも短くなっている。発射速度は550発/分、初速735メートル/秒、最大射程4000メートルである。
 制式化されたのは皇紀2596(西暦1936、昭和11)年なので「九六式」となった。兵器の制式名称は、ふつう元号を冠した採用年にした。明治38年なら「三八年式」、大正4年ならば「四年式」とされた。昭和になると、明治や大正と紛らわしいので、わが国独自の皇紀年号を使うようになった。ちなみに陸上自衛隊は西暦を使い、1989年の小銃を「八九(はちきゅう)式」、2010年の戦車を「一〇(ひとまる)式」としている。
 九六式軽機が部隊配備された頃には、軽機は十一年式時代とは違った役割を担うようになった。昭和初期まで十一年式軽機は1個小隊(50~60名ほど)に2個分隊があった。2挺の軽機が4個小銃分隊(40人ほど)を掩護したのである。つまり、小隊を掩護する機関銃だった。九六式軽機が採用されたときには、戦闘群戦法、分隊戦闘が導入されていたので、小隊は軽機分隊と擲弾筒分隊で構成されるようになった。「分隊レベルの主火力は軽機、擲弾筒であり、歩兵銃は撃たない」ということが常識になってきたのである。
 このことはすでに1920(大正9)年に、渡辺錠太郎(わたなべじょうたろう)少将がヨーロッパから帰朝後、指摘していることだった。渡辺は1894(明治27)年に一般徴兵で陸軍に入った。小学校尋常科も中退したといわれる苦学力行の人だった。入営4カ月後に陸士に入校した。士官候補生第8期生である。
 陸軍大学校第17期を首席で出て、1904(明治37)年、旅順攻略戦で歩兵第36聯隊(福井県鯖江市)中隊長として奮戦し負傷する。帰国後、大本営参謀兼ねて山縣有朋元帥の副官を務め、07(明治40)年にドイツ駐在武官補佐官(少佐)になった13(大正2)年、中佐で歩兵第3聯隊(東京市麻布)付、参謀本部外国戦史課長になり、17(大正6)年オランダ公使館付武官、その後、欧州駐在で3年間、戦中・戦後の状況を直に見ることができた。20(大正9)年8月に少将に進み、歩兵第29旅団長(静岡市)になる。後、参謀本部第4(戦史)部長、中将になって陸軍大学校長である。
 その最期は悲惨だった。陸軍教育総監だった1936(昭和11)年2月26日、昭和維新を叫ぶ決起部隊に私宅を襲われて拳銃で反撃、軽機で乱射され亡くなった。
 欧州戦場を観察し、ドイツの将軍たちから聞き取りを精力的に行なった。1920(大正9)年10月、「世界戦争の経験に基き歩兵戦術の変化に関するドイツ軍事界の趨勢(すうせい)」という報告書を出した。その内容は次の通りである。
「戦術は常に武器の進歩に伴いて変化するものにして、世界戦争中に於ける武器の変化は実に驚くべきものあり。歩兵の如き、現今其主兵器は機関銃となり、従来の小銃は単に補助兵器にたるに過ぎざるに至れり」(前原透「日本陸軍用兵思想史」所収)
 1937(昭和12)年5月、新しい『歩兵操典草案』が配付された。草案とはいいながら、のちに発布される操典と同じように、拘束力をもつものだった。
 支那駐屯歩兵第1聯隊の佐藤軍曹の証言をみよう(『昭和史の天皇』15、読売新聞社)。
「分隊は←印のように、カサが半開きの恰好に散開します。・・・」。以下、要約する。
右肩の部分に分隊長が位置し、最先端部には機関銃手、その左側の傘の骨にあたるところに2人の弾薬手が伏せた。傘の柄に当たるのは小銃手だが、状況次第で右にも左にも移動した。小銃手のうち射撃がうまい2人が狙撃手になった。各分隊が敵前7~800メートルに接近すると、狙撃手に撃たせて敵の指揮官を倒す。距離が300~400メートルに近付くと、擲弾筒を敵の火点に撃ちこみ、軽機を撃たせる。このあと突撃して白兵戦に移るが、軽機の射手もいっしょに突進するようになった。

九六式軽機の特徴

 耐久試験を行なった結果、銃腔の中にクロームメッキを施すことにした。これはずいぶん贅沢なことだったが、おかげで銃身命数はたいへん伸びた。このことは、世界中どこの陸軍も採用していなかった。また銃身の厚さを増やしたり、腔径を100分の7ミリ小さくするなどの改修をし、弾の直径も100分の3ミリ大きくもしたりした。このように、自動装?式火器の設計、製造は難しいものだった。
 外観では十一年式になかった銃身上のキャリング・ハンドルが付いた。これで熱い銃身を直につかまなくてよくなった。照門の上下装置は、ZB26によく似た円盤型である。尾筒の左側に円い円盤がついていて、それを回すことで照尺の覗き穴が上下した。弾倉は30発の箱弾倉で湾曲している。バナナ弾倉ともいう。小銃実包にはテーパーが付いているので、30発も入れると湾曲させなくてはならなかった。
 もう一つ贅沢な装備があった。倍率2.5倍の照準眼鏡である。遠くへ正確な射弾を送るためであったが、視野を明るくし、薄暮や夕暮れでは照準が容易だったと現場は語っている。プリズムを使って全長を短くしているのも工夫だった。銃身前方につけられた二脚は意外なことにぶらぶらしている。これは地形が斜めになっていても安定させやすいという工夫らしい。興味深いのはアメリカ軍のBARも後期型ではこのぶらぶら動く二脚を付けたが、九六式と異なって、折り畳むことができなかった。
 銃剣を着けられるようになっている。「軽機に銃剣とは」と、これまた白兵重視思想といわれそうだが、別にそういうわけでもない。後方からの掩護射撃だけではなく、小銃兵の突撃と同行するためのものだ。支那事変(1937年)からの戦闘では軽機は分隊の先頭に位置して射撃を行なった。副射手と弾薬手がそばにいて、小銃班は左右に下がっていた。上から見ると、傘の形になるので傘型隊形といった。十一年式軽機の射手は銃剣を右手に握って、左手で軽機を肩から吊り下げ走らねばならなかった。もちろん、副武装として拳銃を支給されたが、軽機にも銃剣があるのは心強かったに違いない。
 九六式軽機にはバレル(銃身)から発射ガスを導くガス・ポート(ガス漏孔)には規制子(きせいし)がついていた。1~5までの5段階でガス量を調整できた。これは回転速度の調整のためとされていることが多い。しかし、無故障機関銃といわれたチェコのZB30にはこれがなく、中国戦線でこれを鹵獲した報告にはしばしば回転不良を起こしたというものがある。原因はおそらく装薬が少ない実包を使ったためだろう。ZBには強力な7.92ミリのオリジナル実包の場合、調整などしなくてすむ頑丈さがあったのだ。
 ガス量の調節は孔の大きさが1.5ミリ、1.8ミリ、2ミリ、2.2ミリ、2.5ミリになっていた(須川薫雄『日本の機関銃』)。同じように英国ブレン軽機にも、原型のZB30になかったのに、レギュレター(規制子)がついている。「発射速度を変化でき、機関部の汚れやゴミによる作動不良の排除もできる」とジョン・ウィークスの前掲書にもある。九六式軽機は発射を続けるにしたがって、ガス圧を強くしていった。おかげで回転不良がかなり減らせたのだと思う。

射撃と弾薬運搬

 構えてみると、尾筒の左側には目視用の照準装置と右側には照準眼鏡がついている。銃身の前の左側には照星座と照星がある。照尺のつまみは大きな転輪で、回すことができる。照準眼鏡は2.5倍のプリズム内蔵型で短い。視野はかなり明るくなって、これは世界で初めての試みである。
 銃床は十一年式の曲がった形式と変わって、銃のセンターにある。とはいえ、大きな弾倉が立っているので真ん中で照準を合わせるわけにはいかなかった。左は左目、右は右目で狙ったのだ。二脚を使って銃を立てた。箱型弾倉には30発の実包が入る。前から装?口に入れて、後部をあとから押し込んだ。弾倉止めがカチッという感じで作動して、はずすときには前にこれを押せばいい。
 装?は内蔵されたバネのおかげで、後になるほど力を必要とした。ただし、弾薬装?器という道具があった。5発がまとまった保弾子から一気に入れることができた。左手の人差し指で、横にした実包をおさえ跳び出しを防ぐ。親指で駐鉤というロックを押しながら、柄をもった右手で「一挙ニ力ヲ加フ」と図にある。この装?器は帆布製の収容嚢に入れて、副射手などが帯革(ベルト)に通して腰につけた。
 左側の槓桿を手前に引いて初弾を薬室に送り込む。30発はおよそ4秒で撃ち切ってしまう。弾倉の後部の下には円形の窓があって、残弾が4発から1発まで表示される。細かい配慮だと思うが、実戦で射撃中にこれを確認したのだろうか。熟練した射手なら、数発ずつの点射の感覚で、およその残弾の見当がついたに違いない。
 厳寒の満洲での使用が前提に設計されたのが分かるのが、手袋をつけたまま操作できる配慮である。用心鉄と引鉄が大きい。用心鉄の内部を測ると縦30ミリ、横が54ミリもあった。引鉄は40ミリと長い。そのため、用心鉄には窓が開いており、そこに引鉄の先端が入っている。手袋が引っかかったり、はさまれたりするのを防ぐためだった。
 弾薬手は弾倉をその収容嚢に入れて運んだ。2個がまとまって直方体の嚢に入った。肩かけである。蓋の部分が長く、2個の金具で閉じる。高さは250ミリ、幅105ミリ、厚さは65ミリで、重さは350グラムである。素材はゴム引きの帆布、ふつうの帆布、皮革などだった。現存する遺物はたいへん頑丈だった。拳銃嚢などと同じくハードケースになっていたのは、射撃戦中に銃手に投げることもあったからだろう。8個の収容嚢を運ぶのがふつうだったから、副銃手、弾薬手2名だけではとても無理だったはずだ。
 6.5ミリ弾が30発で約600グラム、それに金属製弾倉が540グラムあった。2個入りの嚢は合計で約2.6キログラムになる。弾倉を8個となると、その4倍だからざっと10キログラム、軽機とほぼ同じ重さになる計算だ。この他に手入れ用具を運搬したのだから、多くを人力に頼ったのだから大変だった。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(2019年(平成31年)4月10日配信)