陸軍小火器史(21) ─10年式擲弾筒と手榴弾ー

日露戦争型手榴弾

 旅順要塞戦で日本軍が手榴弾を発明したという話がある。佐山二郎氏の『日露戦争の兵器』(2005年、光人社NF文庫)には、旅順要塞盤龍山(ばんりゅうさん)堡塁攻撃に「手投爆弾」が使われたと書かれている。1904(明治37)年8月22日のことだ。開発者は姫野工兵軍曹である。堡塁の攻撃に、これは大きな効果があり、その後改良されて旅順攻囲戦だけで消費数が4万5000にもなったという。
 対してロシア軍もさまざまな投擲用の、爆薬をつめた「手投げ弾」を投げ返してきたらしい。戦死傷者の原因別統計では、銃創、砲創、白兵創などといっしょに「爆創」という分類がされるが、爆弾や地雷、手投弾などの爆発で死傷すれば、これが爆創とされた。『戦役統計第3巻』から算出すると、要塞戦と野外戦では大きな違いが見える。(数字は概数)
 遼陽会戦(1904年9月)では銃創が85%、砲創が12%、その他が3%である。沙河同(同年10月)では銃創81%、砲創12%、その他7%。奉天同(1905年3月)では銃創77%、砲創13%、その他10%だった。それが旅順要塞第3回総攻撃(1904年11月)では銃創56%、砲創16%、その他28%となっている。
 この「その他」の内容はごく少数の白兵創があり(白兵創は1%くらいでしかない)、多くは爆創であることは明らかである。投石による死傷もあり、格闘戦での銃剣による刺突、あるいはスコップで殴打されるといった死傷原因を含んでいるとはいえ、堡塁で互いに手投げの爆弾を投げあったことは確かである。
 陸軍が手榴弾を制式化したのは1907(明治40)年3月だった。その前に戦時中の明治38年3月、東京砲兵工廠に8500個を生産するように指示が出ている。防衛研究所に残る陸軍省軍務局砲兵課の書類に『壺型(つぼがた)手榴弾外四点製作ノ件』とあるように、当初は『壺型』と表記されていた。それが制式化されたときには年式もつかずに「手榴弾」とだけされた。
 形は筒型で全長は131ミリ。弾体は鋳鉄製である。頭部には円盤形の、着発信管が仕込まれた部品がついている。弾の内部には30グラムの黄色火薬がつめられ、下部には木製の蓋があり、そこから麻ひもが伸びていた。その先端には手拭のような綿布がつけられた。写真で見ると、大正中期の後期型では棕櫚(しゅろ)または藁(わら)が結び付けられているから改良されたことがわかる。これらはエア・ブレーキの役を果たした。これを持って投げてもよく、空中では弾のトップヘビーを保ち、先端の信管装置から落ちるようになっていた。
 信管は着発式である。投げられて先端が地面や堅いものにぶつかると、ゴムリングで保持された黄銅製の撃針が内部の雷汞(らいこう)を突いて発火させた。小銃薬莢の雷汞1グラムだった。撃針と弾体の間には安全子(あんぜんし)が組み込まれ、抜かないと撃針は雷汞を叩くことができなかった。ただ、軟らかい地面や、斜めに着地すると不発になることがしばしばだった。そうかといって、あまりに信管を敏感にしても実用にはほど遠いものになる。起爆の確実性と安全性を両立させることはいつも難しい。

手榴弾の使い方と教育法

 手榴弾の使い方は1914(大正3)年10月の『偕行社記事483号』に「手榴弾使用法教育に就(つい)ての意見」という和歌山県の歩兵将校による提言がある。日露戦争の体験者であるK少佐は手榴弾の使い方について次のように書く。
「攻撃時には3~40メートルの距離から投擲し、敵が頭を下げている間に敵堡塁下に肉薄するようにする。防禦の場合は、わが堡塁の外壕内に進入した敵にやはり3~40メートルで投げる。その劇烈(げきれつ)なる爆音で、敵を震駭(しんがい、驚かせること)せしめ、その心胆(しんたん)を寒からしめ、逆襲の時機を得ようとするときに投げる。または、自らの退却の自由を得ようとするときには有効である」
 人は身近で大きな爆発音に出会うとパニックを起こしてしまう。いまも警察がバスジャックや、部屋などへの立てこもり犯人には「閃光弾(せんこうだん)」を投げている。これは大きな音と光をだす手投げ弾である。犯人がうろたえて、判断が停まったところを制圧するためのものだ。さらに提言は続く。
「警戒部隊(小哨、下士哨)、停止斥候(せっこう)が突然敵襲を受けた時、血路を開き、あるいは爆音によって危急を後方部隊、隣接部隊に報告・通報するために投げる。また、敵の前哨線、線内に潜入したときに敵を攪乱(かくらん)させるために使う」
 さらに入営兵への教育方法が書いてある。教育開始の1期目(4カ月)では徒手で30メートルを投げさせる。続いて2期目では30メートル以上に伸ばし、突撃の前進中には20メートルを投げさせる。最後には武装して40メートル内外を投擲距離とさせる。そうだったのかと膝を打つのは、次の記述である。
「およそ入営する若者は、どこの地方の出身だろうと、幼いころからゴムまりで遊んだり、ボール投げをしたりといった徒ラ事(いたずらごと、役に立たないこと)などはしたことがない。ある物体を上方に、前方に抛(なげう)つような経験をしたことがない者がほとんどであろう」
 野球などというスポーツはごくごく一部の者の娯楽でしかなかった。ほとんどの若者は物を投げるなどということはしたことがなかったのである。彼らが育ってきた農山漁村では、生産に関わらないことはイタズラごとであり、ゴムまりなども見たことがなかったのだ。でも、と少佐は言う。「射撃だって、銃剣術だって、すべて初めてすることばかりだ。それに加えて戦場ではひどく有効な手榴弾の投擲は必須の訓練である。また、実戦から10年余りが経って、下級幹部の中には砲弾や手榴弾が身近に落ちた経験もない者が増えてきた。演習では彼我の手榴弾の爆発がどのようなものか実見しなくてはならない」
 そうして、ここで使われているのはまだ着発式の手榴弾である。

擲弾銃の挫折

 技術審査部は1914(大正3)年9月に「手榴弾、照明弾を小銃をもって発射する」近接戦闘用兵器を開発した。世界大戦の影響というより、日露戦争の戦訓からであろう。説明書によると18年式村田銃を改造して、手榴弾よりやや大きい榴弾を約300メートル飛ばすようにする。山なりに(これを落角が大きいという)投射して、掩護物の背後にある敵を殺傷するものだという。つまり、小型迫撃砲の代わりにしようということだ。小銃に弾頭をつけない空包をこめて、そのガスで撃ちだそうというわけである。この思想は現在も続き、陸上自衛隊でも小銃擲弾を装備している。ただ、専用の擲弾銃というようなものはない。通常の歩兵が使う小銃から発射できる。
 迫撃砲の有効性はすでに要塞戦で十分知られていた。野砲などの直射では堡塁の後や、地物に隠れた敵を撃てない。榴弾砲では射程が長すぎる。そこで手榴弾を近距離の敵に投射できたらどうかということになった。
 口径は12ミリで村田銃を改造し、450ミリの滑腔銃身を取り付けて銃把をなくした。肩当てではなく、地面で反動を受けるようになっていた。専用の榴弾は重量が約1キログラム、鋳鉄製で上部に雷管がつく。弾薬ベルトに5発入れて、銃手が運んだ。射程は80メートルから300メートルというが、詳しいことは不明である。だが、この銃は採用されなかった。結局、システム全体が大きく、重く、分隊(10人ほど)ごとに配備するには無理があったのだろう。銃手に副銃手、それに弾薬手はそれぞれ38年式歩兵銃を背負うのである。

陸軍技術本部と陸軍科学研究所の発足

 1919(大正8)年、陸軍は平時編制を改正した。1903(明治36)年に、それまでの砲兵会議、工兵会議が陸軍技術審査部に統合された。それから16年もの間、技術行政システムに変化はなかった。それがこの年、陸軍技術本部が発足して、その下部に科学研究所が設けられる。一般の兵器技術ばかりではなく、世界大戦で出現した毒ガスなどの新兵器が登場したので科学研究所もできた。
 軍隊をもてば、兵器、機・器材の研究、審査などの機関が必要になる。明治の陸軍は明治9年に砲兵会議、同16年に工兵会議を設けた。会議といっている間には事務局だけがあった。常設の役所はなかった。両会議が統合されて、技術審査部という常設の官衙(かんが、役所)ができた。同時に火薬研究所もできる。東京砲兵工廠の板橋火薬製造所(現・自衛隊十条駐屯地)の中に設けられて、所長は工廠提理(ていり、工廠長)の指揮下に入った。これが1903(明治36)年、日露戦争の前年のことである。
 大正時代になってから第1次世界大戦が起こり、研究すべき兵器、器材の数はたいへんなものになった。そこで技術本部は総務部、第一部(火砲、銃器、弾薬、車輛、観測器材)、第二部(無線関係を除く工兵器材)、第三部(兵器図ほか図書作成)からなっていた。満洲事変(1931年=昭和6)年の末期から、戦車や自動車の発達にともなって、担当部を第三部にして、通信関係は第四部といわれるようになった。

陸軍技術本部の兵器研究方針

 1919(大正8)年6月には研究方針の申請が陸軍大臣に提出された。大臣は審議機関である技術会議に審査することを命じた。この技術会議は、陸軍次官を議長に、参謀本部、陸軍省、教育総監部の関係課長、技術本部の関係部長、造兵廠や兵器本廠などの関係する官衙の職員などを委員とした。このときの議長は、山梨半造(やまなし・はんぞう)陸軍次官だった。山梨はこの後、陸相になる有名な軍縮を断行した将軍である。
 技術本部の申請は約1年にわたって審議され、翌年5月に大臣に報告された。こういう制度の話を書くのも、陸軍という大組織の動きを理解してもらうためである。この報告を参謀本部、教育総監部に、さらなる意見はないかと問い合わせる。そうして何も意見、要望がなかったときに、正式に命令として技術本部長に戻されることになる。
 1920(大正9)年7月20付の文書がある。それが、この後の日本陸軍兵器開発の基本方針となるものだった。全文はたいへん興味深い内容に満ちているが、その中で小火器に関するものを抜きだして紹介しよう。以下、漢字・仮名遣いなどは現代語にする。
 まず、「綱領(こうりょう)」である。綱領は根本方針のことをいう。★は筆者の解説である。
(1)兵器の選択には運動戦・陣地戦に必要なすべてを含むが、運動戦用兵器に重点をおく。また、努めて「東洋の地形」に適合するように着意する。
★欧州戦場のような大規模な塹壕戦は起きないということである。陣地戦は想定しないから第1次世界大戦からの教訓も取捨選択しようということである。予想戦場も道路や鉄道が発達しているヨーロッパと違う。アジア独特の地形、状況にあう兵器を作れということだ。
(2)戦略・戦術上の要求を基礎として、これに応じられるよう技術の最善をつくすことを根本義とする。かつ、兵器製造の原料、国内工業の現状にかんがみて戦時の補給を容易にすること、及び使用に便であり、戦時短期教育を容易にできるよう顧慮する。
★戦時補給の大変さ、資源のない国の悲しさである。動員される多くの予備・後備・補充兵にも教育しやすいように構造も考えろということである。
(3)兵器の操縦運搬の原動力は人力及び獣力に依る他に器械的原動力を採用することに着手する。
★日露戦争は、人と馬の汗と涙で砲も弾薬も、糧秣のさまざまな資材を運んだ。おそまきながら、機械化宣言だった。
(4)新たに着手するものや大きな修正を加えるべき重要な兵器の研究方針を示すもので、重要ではない新研究や現制兵器の小さな修正は別に検討する。新兵器研究の結果、旧式となる兵器があっても部分的修正を加えてこれを利用する。
★いわゆる「ハイ・ローミックス」である。小国の陸軍と異なり、装備一つ変更しても担当者にはたいへんな負担がかかる。取扱法、教育法、戦術などなどの変更が必要になる。
(5)敵の意表に出るような兵器の創製はわが国軍にもっとも緊要である。しかし、この創製は発明、あるいは案出に属するから、秩序的業務としては規定しにくい。そこで本方針には記載しない。
★強く奨励されなければ、意表をつく発想の兵器は生まれないだろうに、そういうことは苦手だったとしか思えない。これが大東亜戦争の末期になると、風船爆弾などの新兵器の出現があった。追いつめられて初めて緊要になったものだろう。
備考1、航空機に装備すべき機関銃、小口径火砲、及びこれらの弾丸や投下爆弾などの研究は、陸軍航空部の要求に応じて陸軍技術本部が担任する。
備考2、自動車、無線電信、及び毒ガス等に関しては、他の兵器と関連して研究すべきものであっては、それぞれ当該調査委員と協定して研究するものとする。
 この後は、兵器、器材に関する方針が詳しく書かれている。その中で小火器に関するものだけを書き出してみる。
 歩兵兵器は甲乙2つに分けられている。甲は速やかに研究、整備すべき兵器とされている。以下は甲である。
(歩兵銃)口径7.7ミリのもの
(機関銃)3年式機関銃につき、口径変更、三脚架改正など
(軽機関銃)既成の2種の軽機関銃の実用試験ほか、口径は歩兵銃改正に伴い7.7ミリ
(歩兵砲)37ミリ砲は既成品の2種について、左の要件の曲射(きょくしゃ)歩兵砲を研究
(手榴弾)曳火(えいか)手榴弾を研究
(銃榴弾)歩兵銃で発射し得るもの
(特種弾)防楯(ぼうじゅん)、装甲鈑を射貫(しゃかん、撃ち抜くこと)し得るもの
備考、歩兵兵器とみなされている軽迫撃砲は本来の迫撃砲兵器の部で研究する。歩兵に配属することは戦術上の使用区分に任せる。
「乙」は余力をもって研究しようとする兵器
(自動小銃)新たに一・二の様式を研究する
(塹壕兵器)擲弾筒の他、世界大戦で用いられたあらゆる兵器
 このように、小銃弾薬の非力(ひりき)さによる増口径の要望が大きくなっている。6.5ミリ弾の開発、制定された時には「不殺銃」であるとか、「与えた傷がすぐに治癒してしまう」などの批判があった。それを「徒(いたずら)に敵を殺害するのが軍用銃の主目的ではない」「敵の戦闘力を一時的でも奪えば良い」といった主張で開発者はかわしたのだが、やはり増口径への希望は大きかった。

10年式擲弾筒(てきだんとう)と10年式手榴弾

 小銃で撃つことが難しいなら専用の発射筒を開発しようとなった。研究方針の塹壕兵器の項にもあった。そうして開発されたのが10年式擲弾筒である。全長は530ミリと短く、重量も2.5キログラムしかない。口径は50ミリで、内部に腔綫はなく、つるつるの滑腔である。攻撃型手榴弾をただ飛ばせばいいと考えられていたからだ。
 第1次世界大戦では多くの国が小銃の銃口にカップ型アタッチメントをつけて、そこに手榴弾を入れて空包のガス圧で飛ばした(ライフル・グレネードという)。わが国の6.5ミリの歩兵銃では、それはかなわないことだった。銃口エネルギーというが、口径が小さいためにガスの力が弱かったのだ。そこで開発されたのが手榴弾を発射できる擲弾筒だった。
 10年式手榴弾は曳火式(えいかしき)である。火を曳(ひ)くという言葉通り、着火すると延時薬が燃え始めて、数秒後に爆発をする方式をいう。これに対して、旧いタイプは固い物にあたってすぐに起爆する。それを着発式といった。日露戦争型の手榴弾である。
 世界大戦で使われた手榴弾は2種類だった。1つは多くの炸薬をつめた防禦型、もう1つは炸薬を少なくした攻撃型である。防御型は重く、破片の威力も大きかった。敵が攻めよせてくる。自分は陣地の中にいるので、大きな爆発と破片効果があっても安全である。攻撃型は軽量で、投げつけて爆発と同時に自分も混乱する敵中に突入するので、あまり威力は大きくはない。自分も被害にあっては困るからである。
 10年式手榴弾は鋳鉄製で上部はねじ込み式の蓋になっている。重さは530グラム、TNT炸薬65グラムが入っていた。この爆薬は1863年という幕末期、ドイツでは摂氏80度で融解して、その安定性、つまり叩こうが切りつけようが発火しない安全性を評価された。しかも爆発すると、周囲の空気を酸欠状態にした。爆速はピクリン酸に劣ったが、加工性のよさと貯蔵時の安全性が高く評価された。
 爆発すると加害半径は5メートルである。頭部から円筒形に飛び出した真鍮製の信管部にはピン(U字型の安全栓)がささっている。投げるときは、このピンを抜いて、固い物に思い切り信管部を叩きつけた。そうすると、コイル・スプリングで浮いていた撃針が雷管をたたき、延時薬(ヒューズ)が燃え始め7~8秒後に炸薬が破裂する。擲弾筒で発射する時には、この信管部を叩きつける必要がない。発射される時の加速度で撃針が沈みこんで延時薬が発火する。7~8秒という長い時間は擲弾筒から発射する都合からである。だから、早く投げると炸裂前に敵に拾われ投げ返される。そこで、兵は固い物に叩きつけ、延時薬に点火して炎が横から出ることを確認してから4つ数えて投げるように教育された。
 弾体の底部には擲弾筒発射用の装薬筒(直径26ミリ、高さ24ミリ)がねじこまれていた。このネジのもっとも奥の部分が厚紙1枚で本体の炸薬と接していた。製造公差が甘いものは、その隙間から装薬の炎が炸薬に伝わり、腔内爆発をすることがあった。

発射の手順と運搬

 まず距離を合わせる。遠くならガスを全部使う。近くなら筒身横の穴からガスをすべて逃がす。最大射程なら穴は全部ふさがれた。回転筒という輪には目盛りが刻まれ、表示は220メートルから5メートルになっている。次に左手で筒身を45度の角度にセットし、赤い筋が筒身にあるので方向をあわせる。安全栓(ピン)を抜いた手榴弾を筒口から入れる。右手で柄桿(へいかん)についている引鉄、革ひもでこれを引く。引鉄はダブル・アクションになっていて、筒身の底から撃針が飛び出して装薬筒の真ん中にある雷管を撃った。またこの装薬筒には6個の穴が開いており、弾体は回転しながら飛ぶ。
 擲弾筒の本体は4つに分けられた。筒身、駐板、柄桿、筒身の基部、これに蓋がついた。上部にあたる筒身の中に、うまく全部が入る。革製のケースに入れて肩かけにできた。
 全生産数は7000挺あまりという。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(2019年(平成31年)4月3日配信)