陸軍小火器史(15) ─騎兵装備用の国産第1号拳銃「26年式拳銃」―

お便りへのお礼

 YH様、またまた嬉しいお便りをありがとうございます。30年式銃剣の鞘には、先端に円い球状のふくらみがある物があります。おそらく、鞘をかぶせて実銃で、銃剣格闘の訓練をした名残ではないかという説もあるそうです。また、陸軍初期にはスナイドル銃で着剣した状態で型稽古をしていたと聞いています。「短剣道」との関係も、貴重なお話とともに勉強になりました。ありがとうございます。
 MM様、松本零士さんの戦場シリーズでしたか。さまざまな日本軍兵器が登場したことを覚えています。その中のご指摘ですが、インパールでの英軍は、おそらくSLMEの更新として1939(昭和14)年末から量産が始まったNo.4 Mk.1ライフルだったのでしょうか。ボルト(遊底)のロッキング・ラグ(噛み合わせ用突起)のバランスに改良が加えられたそうですが、それ以前のタイプだと、遊底が重いという苦情があったといいます。いずれであれ、遊底覆がついた38式小銃は故障も少なく、作動も良かったと理解しています。

お知らせとお願い

「戦場のポニー」といわれた陸軍九五式軽戦車の里帰り計画をご存じでしょうか。この運動がいよいよ本格化しました。長い付き合いの畏友、御殿場市かまどに株式会社カマドの社長であり、NPO法人「防衛技術博物館を創る会」代表の小林雅彦氏の呼びかけです。当時のエンジンで走る、世界的に貴重な1台が現在英国の好事家の手にあり、それを入手しようという計画になります。
 南洋のミクロネシア連邦ポナペ島に眠っていた同車は1981(昭和56)年にわが国に還ってきました。86年から京都嵐山美術館に展示され、91年に南紀白浜ゼロパークに移管されましたが、同館の閉鎖にともなって、2004年に英国人に買われてしまいました。
 英国人も大切にしてくれて、10年以上にわたって修復作業をしてくれました。現在、エンジンは軽快に作動しています。これを何とか生まれ故郷のわが国に還せないかということで、相手からのオファーは約1億円です。それから寄付金を集める苦労が始まりました。
 ようやく、インターネット上のクラウドファンディングもスタートしました。4月末までが開催期間です。ぜひ、貴重な軍事技術史、車輛技術史の大切な史料を取り戻したいものです。ご関心のある方は、特定非営利活動法人・防衛技術博物館を創る会のHPもご検索ください。https://readyfor.jp/projects/type95HA-GO

無煙火薬を使ったリボルバー「二六年式拳銃」

 ダブル・アクション、つまり撃鉄を親指で押しあげる必要がなく、引鉄を絞るだけで輪胴(シリンダー)が回転し、撃つことができる。制式化は1894(明治27)年9月、以来1925(大正14)年までに約6万挺が造られたという。もとは騎兵幹部用のサイド・アーム(副武装)であり、騎兵科将校と同下士に、つづいて憲兵科将校に支給された。騎兵兵卒は騎兵銃と騎兵刀で武装する。
 軍用拳銃だから決して軽くはなく、口径も9ミリである。リボルバーであるのは、当時の列国の自動拳銃では威力が少なかったからだろう。騎兵同士の遭遇戦や襲撃のときにはシングル・アクション(1発ごとに撃鉄をあげる必要がある。引鉄も軽く、精密な照準も可能である)より、速射、連射できる方が有利と考えられたからである。10メートルもない、接近戦でせいぜい5~6メートルの敵に当てればいいという考えからだ。フランス騎兵の拳銃戦闘訓練では「敵の身体に押しつけるようにして撃て」といわれていたという。
 外観の特徴は、ダブル・アクション専用なのに有鶏頭(ゆうけいとう)という型式でハンマー(撃鉄)が露出していることだ。シングル・アクションならば、親指で撃鉄を引き起こすために指掛けがついている。それがないから、サック(拳銃嚢)から抜くときに引っかかることがなかった。
 全長は260ミリ、銃身長120ミリ、高さは130ミリ。頑丈なフレームが大きく見える。重量は927グラムもある。それでも「一番型」といわれた、銃身長165ミリ、弾丸口径11ミリ、制式拳銃S&WのNo.3リボルバーよりも350グラムも軽かった。構造は「中折れ式」である。フレームの上端をおせば、銃身は下に向きシリンダー(6つの穴があいている)が全体を見せる。現在のリボルバー拳銃の弾倉(シリンダー)は、ほとんどが横に降り出すスイング・アウト式である。これに対して銃を折るようにして弾倉を出すのでテイク・ダウン方式という。
 フレーム内の構造はきわめて簡単で、左側のサイド・プレートを開けると見ることができる。開ける道具は不要。撃鉄とハンマー(逆鉤)、撃鉄バネ、支槓(しこう)と押槓(おうこう)、引鉄(ひきがね)という少ない部品でできている。支槓というのはシリンダー(輪胴)を回すためのアームであり、押槓は回転を止めるための部品である。
 頑丈な構造のおかげで、たとえ馬上から落としても壊れない。また、道具がなくても修理・点検が容易であり軍用にはとてもふさわしかった。照星は大きく、半月形で2段になっている。照門はフレームへの切れ込みである。グリップは後ろから見て、左右対称ではない。左側はメイン・スプリングが入っているから厚みがある。凝った造りは他にも見られる。引鉄を保護する用心鉄の外側には網目(あみめ)模様が刻まれている。馬上での取り扱いについての配慮だろう。

口径9ミリの実包

 実包は9ミリのセンターファイアで、わが国独自の設計である。弾頭は「陸軍省大日記」によると重量9.8グラムの鉛だったが、1899(明治32)年にハーグ平和会議の宣言で、ダムダム弾などが禁止されたことをうけて弾頭すべてを覆うフルメタル・ジャケットになった。無垢の鉛は『不必要ナ苦痛ヲ与フベキ兵器』にあたることから、軍用拳銃弾も銅などで覆うことになった。これがフルメタル・ジャケットである。
 陸上自衛隊練馬駐屯地には、ニッケル・メッキの白銀色の26年式拳銃がある。グリップは山毛欅(ぶな)の材で美しい。引鉄の動く幅が小さいので、だいぶ力が要る。引鉄の動きは「軽い・重い」と表現するが、かなりの重さに感じる。弾丸の初速は230メートル毎秒だから、当時の拳銃としてはふつうになる。
 この9ミリ弾は低威力だったとされる。全長は30ミリ、薬莢径9.8ミリ、リム1ミリ、全体重量は13.2グラムである。被銅された弾頭重量は9.8グラムだから、たとえばロシアのナガン拳銃(7.62ミリ)弾の弾頭重量6.29グラムより圧倒的に重い。ナガン拳銃はロシア革命で、妖僧といわれたラスプーチンに6発を撃ちこんだことで有名である。この初速は326.1m/秒だった。
 威力の大きさを運動エネルギーの大きさと結びつけると分かりやすくなるようだ。弾頭の運動エネルギーは重量と速度の2乗に比例する。ただし、専門家の多くはこの運動エネルギー=威力とは単純に認めなかった。そこで、弾頭の客観的パワーを求めるジュールという計算が現在では主流になっている。
 ジュールの計算式は(速度の2乗・m/秒)×(重量・グラム)÷2000で求めることができる。
 26年式は(230×230)×9.8÷2000=259.21
 ナガン拳銃は(326.1×326.1)×6.29÷2000=344.44
という数字が出て、たしかに口径こそ9ミリだが、ジュールでは約75%ということになる。
 さらに比較のためにジュールの話を身近な例であげる。硬式野球のボールは同じ計算式でジュールを求めれば、重さ145グラムで速度140キロ/時で計算すれば110ジュール。現在の軍用拳銃で使われる9ミリ・パラベラム弾は8グラムで350メートル/秒だから490ジュールにもなる。ちなみに、軍用ライフル弾の代表、64式小銃でも使われている7.62ミリNATO弾は9.5グラムで840メートル/秒だから3352ジュールにもなってしまう。ライフル弾の強力さがよくわかる。
 また、別のもっと異なる角度からの意見もある。銃器研究者であり陸上自衛隊出身の、かのよしのり氏によれば、「その動物の体重に『キログラムフォース・メートル(kgf・m)』をつけた運動エネルギーが、その動物を倒すのに必要な標準エネルギーである」という見方もあるという。
 Kgf・mは、(弾丸の質量×速度の二乗)÷(2×9.8)で求める。
 そうであると、26年式拳銃弾は、0.0098×230×230÷(2×9.8)ということになる。計算すると、26.45という数字が出る。同じくナガン拳銃弾は34.12である。現用の9ミリ・パラベラム弾は同様に50と求められる。いずれであれ、70キログラム以上の人体を止めるにはやや不十分なのだろう。
 こうしてみると、威力が低いかどうかは状況や相手次第ということになり、一概にダメな拳銃とは決めつけられないことが分かる。

兵器工業の端境期

 残念ながら日露戦争では使われる場面が起きなかったらしい。乗馬騎兵戦はほとんど起きなかったのだ。よく知られているように、わが騎兵旅団は「乗馬歩兵」として、機関砲の掩護下によく戦ったといわれる。騎兵の主武器は30年式騎兵銃であり、ホチキス繋駕機関砲が騎兵砲の代わりに、コサック騎兵を撃退し、ロシア歩兵を撃ち倒したのである。
 では、歴史上でどのような場面で26年式拳銃は登場するか? それは日露戦前の東京砲兵工廠のいわゆる「端境期(はざかいき)」である。このリボルバー拳銃は清国に輸出されて、外貨を獲得していたのだった(『日本軍の拳銃』)。この一部軍事史専門家にはよく知られている「端境期」について説明しておこう。
 陸軍が新兵器を制式にすれば、その調達数が明らかになる。新装備ですべてが更新されるまで、砲兵工廠では生産計画を立て、陸軍省が示した期日までに全数を納入し終わらねばならない。日露戦争まで、陸軍はいつも規模を大きくしてきた。師団数だけでも日清戦争(1894~5年)は近衛も含めて7個で戦った。それが戦後には、1896(明治29)年から第7から同12までの6個師団、騎兵2個旅団、砲兵2個旅団、そして台湾に混成3個旅団を増設することにした。
 兵器の製造数はうなぎ登りである。新型の30年式歩兵銃、同騎兵銃、そうして31年式野砲、同山砲、そのた附属品などの製造で工廠は大騒ぎになった。兵器の性能も向上しているから、工程数も増え、次々と機械設備と工員を砲兵工廠では増やし続けねばならない。そのための予算手当ては陸軍省が行なう。しかし、その生産予定期間が終わったとたん、工廠にはまるで仕事がなくなってしまうのである。そうして工廠を維持する経費も、翌年からバッサリと削減された。
 問題はそこから起こった。熟練職工の退職である。当時のわが国には、ごくごく一部しか終身雇用などという考えはなかった。年金も退職金も、保険もなかった時代である。腕一本で世の中を渡っていく人も多かったし、職人や職工という人たちは、よりよい待遇を求めて職場を渡り歩くのがふつうだった。工廠を辞めても、民間企業は大喜びで採用した。性能の低い中古の外国製工作機械を使いこなして、なんとか外国製兵器と立ち向かう武器を造っていた腕前だったのだ。
 社会の仕組みは、現在とはまるで違っていた。ほんのごくわずかの高等教育を受けた人、少数派の中等教育を受けた人、そして多くの初等教育しか受けていない人々の生活の差は大きく、その外側にはさらに多くのろくに学校教育を受けていない人たちがいた。初等の教育を受けただけ、あるいはそれも不十分な人たちの中では、熟練職工の稼ぎはたいへん大きく、豊かな生活を送る人も多かった。のちの話になるが、海軍が新しい軍艦を大量発注した昭和戦前期の工廠と軍港の町、広島県呉では「職工の奥さま、士官のおかみさん」という言葉があったほどだそうだ。
 熟練職工はいつも決まった数だけいなければならない。戦時増産、あるいは戦期は新式兵器の発注があっても、素人工員はすぐ集められる。ただ問題は熟練工員を抱え続けることだ。日露戦前の端境期はまさに、開戦数年前に起きた事態だった。逆にいえば、それほど30年式小銃は十分生産されていたことになる。

配付された26年式拳銃

 26年式拳銃のサック(拳銃嚢、けんじゅうのう)については、須川氏の紹介がある。フランス軍のものをモデルにしたらしい。厚くて大きな貝殻型(かいがらがた、クラムシェル)といわれるフラップ式の蓋である。蓋を開けるとポケットがあり、18発の実包が3段になって入る。それと手入棒(クリーニング・ロッド)が入るようになっている。
 日華事変中の写真を見ると軽機関銃手が腰に着けていることがある。また、輜重兵の班長(下士官)や衛生兵、砲兵の馭兵などといっしょに写っていることもある。戦記には残念ながら戦闘に使用されたというものは見たことがない。
 ただ、1936(昭和11)年2月26日の朝、安藤大尉に率いられた歩兵第1聯隊の決起部隊の下士官たちが、この拳銃をもっていた。部隊本部用に配布された物だったのだろう。2人の曹長が寝間着姿の鈴木貫太郎侍従長に至近距離から4発の弾を浴びせた。出血は多かったが、とどめを刺すことを避けた安藤大尉のおかげで鈴木は助かることになった。
 鈴木貫太郎は海軍大将であり、のちに敗戦時の首相として、また国家に尽くすことになった。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(2019年(平成31年)2月20日配信)