陸軍小火器史(16) ─空冷ホチキス機関砲と38年式機関銃―
お詫びと訂正
先週の「26年式拳銃」につきまして、銃器史の専門家の杉浦久也様からご丁重なご挨拶とともに、以下のようなご教示をいただきました。わたしの誤りでした。ここに掲げさせていただきます。
「フレーム内の構造はきわめて簡単で、左側のサイド・プレートを開けると見ることができる。開ける道具は不要。撃鉄とハンマー(逆鉤)、撃鉄バネ、支槓(しこう)と押槓(おうこう)、引鉄(ひきがね)という少ない部品でできている。支槓というのはシリンダー(輪胴)を回すためのアームであり、押槓は回転を止めるための部品である。」
以下、上記の誤りに対するご教示です。
手許にあります「二十六年式拳銃保存法」並びにアジア歴史資料センターで閲覧いたしました同史料によりますと、支槓(しこう)と押槓(おうこう)は支稈(しかん)押稈(おうかん)と記載されているように思います。
さてこの支稈(しかん)の作用ですが、撃発のため引ききった引き金から力を抜いた際に、引き金を元の位置に戻すためのレバーではないでしょうか。
特にこの拳銃ではガーランド式というダブルアクション機構が用いられており、引き金が戻る元の位置はリバウンドと呼ばれる位置に戻ります。
つまりこの銃では、引き金を引ききった時にだけ撃鉄先端のノーズが雷管を撃つ位置まで前進し、引き金を戻すとハンマーは数ミリ後退しますが、この作用をリバウンド機構といいます。
こうした機構を持たないシングルアクション拳銃では、撃鉄を倒した位置ではスプリングテンションはほぼゼロながら常時ハンマーノーズと雷管が接触した危険な状態となり、銃をハンマー側から落下させるなど不用意な外力がハンマーにかかると暴発させる危険がありました。
このためシングルアクションの6連発リボルバーは5発装填とし、撃発位置のシリンダー(弾倉)1発分は空けておくのが安全な操作方法でした(リボルバーの弾倉は弾倉であると同時に薬室でもありますので英語ではマガジンではなくシリンダーと呼称します。これを厳密に日本語訳すれば回転輪胴が正しいのではないかと思います。かつて銃器小説家の大藪春彦氏は初期作品でリボルバーの訳語にこれを使われていましたが、シリンダーの意味を考えると子の訳語が正しいように思います)
ダブルアクションになって、引き金に複座機構が必要になり松葉ばねを使うことでこのリバウンドが可能になったわけです。
次に押稈(おうかん)の機能ですが、これはシリンダーを回転させるシリンダーハンドの役割ではないでしょうか。
引き金に可動式にピン止めされているハンド(押稈)の切り欠きにばねテンションのかかったリバウンドレバー(支稈)がはまり、常時複座方向に圧力がかかっており、撃発のために引ききった引き金を放すと、リバウンドレバー(支稈)の作用で引き金とハンド(押稈)が撃発位置に戻り、再度引き金を引くとハンド(押稈)が上昇してシリンダーの尻にあるノッチにはまって回転を促すのだと思います。
二十六年式拳銃には、独立したシリンダーストップ(弾倉止め)は存在せず、引き金上部に設けられた突起が引き金を引ききった時だけシリンダノッチ(弾倉横の穴)にはまり込み、まさに撃発の時のみシリンダーを固定する機構のようです。
独立したシリンダーストップがないという欠点は、古くから二十六年式拳銃の欠点としてアメリカで指摘されている部分です。
以上は昨年アメリカで数十挺の二十六年式を見分しての意見ですが、私の事実誤認がありましたら再度ご教示ください。
先達にご意見する様で誠に恐縮ですが、ご一考いただければ幸いに存じます。
さて現在私はガンプロフェッショナルズ誌上で拳銃編を終了し、小銃編を連載し始めております。同じ材題を取り扱っておりますので本連載を楽しみに読ませていただいております、今後ともよろしくお願い致します。
杉浦久也拝
こちらこそ、よろしくお願いいたします。ありがとうございました。荒木肇
水冷か空冷か?
多弾速射とその連続性を身上(しんじょう)とする機関銃にとって、銃身や機関部の冷却はまさに最大の課題だった。過熱した銃身は内部が焼け、腔綫(こうせん)もつぶれ、銃身が膨張したり曲がったりもする。さらには実包が詰まっている薬室にまで過剰な熱が及ぶと、勝手に連発が続いてしまう。引鉄をゆるめても連発が止まらないのである。
銃身冷却の1つの方法は、空気にふれる銃身の面積を広くし、放熱効果をあげる「空冷」である。このためには銃身に鰭(ひれ)をいっぱい付けた。冷却フィンといった方が分かりやすいだろう。伝導された熱は表面から空中に逃げようとする。銃身の基部が太く見えるのはそのおかげである。空冷式はフランスのホチキス社が得意とした。
対して、銃身を水槽(ウォーター・ジャケット)で包んで、ラジエーターをつけて水を循環させて冷やそうとしたのが、英国ビッカース社のマキシム機関砲である。外見は太い円筒形の水タンクの中から銃口が突き出しているように見えるから、空冷とは区別が容易である。
技術のことはいずれも一長一短で、どちらがいいかはいろいろな方向から考えた方がいい。兵器にとっては、その運用方法によって評価が決まることが多い。水冷は水の確保に苦労し、重量も当然大きくなり、さらには寒気の中では盛大に水蒸気と湯気をあげてしまう。野戦では機動性も低く、冬季には撃つと目立つことから使いにくい。空冷はその点、水の確保や補充は要らない。しかも大きな水タンクも不要、当然、軽く造ることができる。
わが国は1890(明治23)年に英国のビッカース社から水冷マキシム機関砲2門を購入した。口径は0.303インチ(7.7ミリ)の英国規格である。作動方式は、世界で初めてのショートリコイルという反動利用式だった。この機構はのちに自動拳銃でも使われる。弾丸を発射した火薬の爆発力は薬莢を後方に吹き飛ばそうとする。この力を使って遊底(ゆうてい・スライド)を動かそうというわけだ。これを単純にブローバック式ともいう。
ところが、この方式の欠点は当然あった。それは火薬の力が強すぎると(軍用実包なら当然)、銃身の中の圧力がまだ高すぎるうちにスライドが開いて、危険な状態になる。後方にガスが噴出したら、射手も周囲にも危険である。そこで、スライド(遊底)と銃身に「噛み合い」をつくり、一瞬だけスライドと銃身がいっしょに後退するようにした。銃身が前後に数センチだけ動くようにしたのだ。発射のときに、薬室さえしっかりと押さえておけば、後方に飛び出そうとする空薬莢は、銃身そのものも後ろに動かそうとする。銃身はその力にしたがって数センチ後退した。その間に弾は銃口から飛び出し、高圧ガスは外に排出されている。
銃腔内の圧力が下がったら安全である。そこで初めて銃身とスライドが離れるようにした。これをショートリコイルという。現在でも自動装てん式の拳銃にはこの機構が使われている。ただし、この噛み合いの機構の製造と調整には高度な技術を必要とした。
陸軍は1893(明治26)年に英国のビッカース社にさらに4門のマキシム機関砲の発注をする。弾丸は村田連発銃と共通で口径8ミリである。これら輸入品を参考にして、とことんコピーをして東京砲兵工廠で200門を生産した。これをマキシムから名前をとって「馬式(ましき)機関砲」といった。全長は1092ミリ、銃身長721ミリ、重量37.7キロ、初速550メートル毎秒、装弾数250発(布製弾帯)、発射速度500発毎分というものである。
うまく動かないマキシム機関砲
しかし、この国産コピー機関砲の作動は快調とはいえなかった。しばしば故障を起こした。射撃中に薬室から撃ち殻薬莢(空薬莢)を抽出子(エキストラクター)が引き出そうとするが薬莢がちぎれてしまう。薬室の中には薬莢の上半分が貼りついて、当然、連発など不可能になった。それはやはり、部品の工作精度の問題であり、素材の質、加工技術の未熟が原因になっていた。
許容誤差が100分の1ミリという精度の部品を作ろうとしたら、それを加工する工作機械は当然、1000分の1ミリの精度で造られていなければならない。兵器の各部品は密着しなければならないし、同時に摺動(しゅうどう、こすれながら動く)という機能を要求される。火薬ガスを密閉し、熱で膨張した金属製薬莢をスムースに薬室から引き出すことができなくてはならない。
薬室と実包の設計を図面上で描きあげても、それを3次元化して組み立てるとさまざまな不都合が起きた。当時のマイクロゲージでは測りきれない、目に見えないテーパー、大きさや厚みの違いがあったのである。
この工作機械の精度の低さの悩みは、陸軍が敗亡するまで続いてしまう。大阪・東京の両砲兵工廠ですら、外国から中古の工作機械を安価に輸入するのがふつうだった。そのことは「偕行社記事」の中でも造兵将校のトップ、南部中将が語っている(第754号、昭和12年7月)。器械1台の単価が、外国では新品が数千円したものを、わが国では200円とか300円以下で中古品を輸入していたのである。これではとても欧米並みの仕上げなどとうてい望むべくもなかった。
機関砲隊の初陣は近衛師団、第4師団が派遣された台湾領収戦争(1895年)だった。大陸での戦闘にも16個の機関砲隊を編成し、第2軍所属としたが実戦参加の機会には恵まれなかった。各隊は口径8ミリのマキシム機関砲6門だったから、合計96門の機関砲があったことになる。実包は当然、近衛、第4の両師団が装備する村田連発銃と共有だった。
台湾への上陸時には近衛師団の2個歩兵旅団に各4個隊、同24門を配属した。しかし、当時の機関銃は馬の背に載せられず、輜重車や荷車などに高い姿勢で載せられ運ばれた。そのため悪路によって十分に行動ができず、歩兵との連携行動がしにくかった。攻撃面では不評だったが、有効だったのは防禦戦闘だった。陣地に据えつけた機関銃は、現地の台湾人反乱軍の包囲攻撃に対して素晴らしい成果をあげた。『城下の人』などの著作で有名な石光真清(いしみつ・まきよ)はこのとき歩兵第2聯隊の小隊長だったが、機関砲の強力な掩護を受けて救出されたことが記録にある。
「保式」機関砲
フランスのホチキス社の機関砲は空冷だった。1896(明治29)年に完成品を輸入し、99年から国内で生産を始めた。『陸軍兵器変遷の回顧』(「偕行社記事」104号)によれば、日露戦争の開戦時には「保式」=ホチキス機関砲を202挺保有していたという。しかし、大江志乃夫氏がいうように、当時の機関砲は要塞の防御兵器であり、したがって厳重な機密保持のせいで、その正確な数量は不明である。
自動装てん、排莢、連発の仕組みは馬式(マキシム機関砲)の反動利用式に対して、発射ガスを利用する「ガス圧利用式」だった。銃身の中では装薬が燃えてガスを発生する。ガスは膨張している。その一部を使って遊底を動かす。このときマキシムのショートリコイル式とは異なって、ホチキスの銃身は動くことがなかった。銃身の真ん中ほどに小さな穴が開けられていて、銃身の下にある筒にガスが入っていく。そのガスが筒の中にあるピストンを強く押す。このピストンは銃弾が銃口を出たときに、遊底が初めて動くようにした。
給弾方式はマキシムの布ベルト式とちがって、保弾板(ほだんばん)という金属製の、実包30発を並べることができる部品が使われた。黄銅(真鍮ともいわれ銅と亜鉛の合金。五円玉もこれで造られる)製で実包をくわえる爪がついている。使い捨てではなく、歪んだ爪を修正器で再生して20回ほども使えた。機関部の左から装てん口に差し込んだ。30発ごとに終わりというわけではなく、端のフックをひっかけていけば連続発射ができた。
このガス利用方式が、わが国にとって決定的に有利だったところがあった。反動利用式に比べて、小さな部品の製造公差が甘くてもよかったことである。つまり精度にばらつきが多少大きくても大丈夫だったことだ。技術的後進国、資源が乏しい国の悲しさはここにあった。
技術移転で、最も容易な方法はライセンス生産である。外国企業からライセンスを買い、技術指導を受け、工作機械も治具(じぐ)もすべて購入してしまう。ところが、それには多額の資金を必要とした。幕末、維新以来の借金にあえぎ、どうやら日清戦争に勝てた国には、そうした王道をゆける甲斐性はなかったのだ。
海外から実物を購入し、それをばらしてしまう。各部の長さや厚さなどを精密に測定し、図面を引く。しかも海外の会社には「黙ってこっそり」やってしまう。戦後の復興中にも、これはしばしば行なわれ、「ダマコツ」などという言葉が技術界では珍しいことではなかった。いま、中国が無断で他国のパテントや先進技術などを使ってしまう。それは悲しいまでに基礎技術の蓄積のない後進国の現実の反映なのだ。
馬式機関砲の要目は、全長1092ミリ、銃身長721ミリ、重量37.7キログラム、口径8ミリ、初速550メートル/秒、装弾数250発(布製弾帯)、発射速度500発/分。
日露戦争、機関砲の初陣・南山の戦闘
1904(明治37)年5月25日、旅順の東方、南山の丘陵地帯のロシア軍陣地に第1師団(司令部東京)が挑みかかった。ロシア軍は南山に野戦築城をほどこし、コンクリートや石で造られた堡塁(ほうるい)を設け、それらを連絡壕でつなぎ、周囲に鉄条網を張りめぐらしていた。堡塁の銃眼からはマキシム機関砲がわが攻撃隊に狙いをつけていた。その数は10門と記録されている。
対してわが機関砲は第1師団に24挺、第3師団に24挺、すなわち各歩兵聯隊に6挺ずつ配当されていた(歩兵第1、15、2、3の各聯隊)。このうち、第1師団の第1機関砲隊24挺が南山攻撃に加わった。撃った弾数はおよそ7万8000発余り、1銃あたり約3200発を1日で消費した。
この機関砲隊は急ごしらえのものだった。なぜなら、開戦するまで、機関砲を野戦で使うものだとは誰も考えていなかったのだ。まず、運ぶのに大変だった。重く、かさばるし、馬を使うしかなかったが、この馬を集めるのが大変だったのである。わが国の軍馬行政は明治の初めから列国に後れをとり、馬格も小さく、訓練も不十分、しかも国内での飼育頭数も少ないといった状態だったのである。
大江志乃夫氏が『陸軍政史』から引用されたように、陸軍は開戦前には機関砲は要塞防衛用の兵器とみていた。それを野戦に持ち出そうとは誰ひとり考えていなかった。ところが、情報によるとロシア軍は機関砲隊を編成して極東軍に送ったという。あわててこっちも送ろうとなったが、内地の要塞に配備するはずの定数の半分も保有していなかった。東京砲兵工廠で製造中のものも70門しかなかった。不調だったために工廠の倉庫にあったマキシム機関砲を要塞に交付して、代わりにホチキス機関砲で野戦隊を編成するといった泥縄式の対応だったのである。
第1師団に配属された第1機関砲隊の機関砲は徒歩車に積まれ、1銃あたり1万5000発、合計36万発(保弾板に換算すると1万2000枚)がやはり徒歩車で運ばれた。徒歩車とは内地でいう大八車(だいはちくるま)であり、2輪1軸の人間がひく荷車である。有名な騎兵旅団に配当されたのは繋駕(けいが)機関砲隊だった。当時の編制では騎兵旅団には固有の火砲はなかった。それぞれ2輪1軸の砲車と弾薬車をトレーラーのようにして4輪2軸にして4頭の輓馬(ばんば)で牽引するものである。
南山の戦闘報告の第1報が大本営に届いた。「桁が1つ違うだろう」と参謀たちが信じなかったという。当時少佐で第2軍参謀だった鈴木荘六大将が語っている。死傷3500名という数字のほとんどは機関銃によるものだった。実際の数字は戦死749名、負傷3458名の合計4207名である。
参加した歩兵第1聯隊長小原正恒(おはら・まさつね)歩兵大佐の手記によれば、「ロシア軍は堅固な掩蓋(えんがい)の下に砂嚢(さのう)を積みあげて銃眼をつくって、狙撃に巧みだった。ことにその機関砲は優良で損害をひどくうけた。わが機関砲小隊は戦線の左翼に集まって交戦したが、器械不良で、その使用法も熟練していなかったので射撃が中断することばかりだった」とのことである。
射撃姿勢が高かった悲劇
ロシア軍は天井も十分に補強した(つまり掩蓋付き)陣地にこもり、砂嚢の間からマキシム機関砲の猛射を浴びせてきたのである。機関砲はその十分な重さにより、よくその発射反動を吸収して、正確な射弾を送ってきた。使用法の未熟というのは、機関砲全体の構造によっていたものだ。いまの天体望遠鏡のような姿勢が高い三脚の上に載っており、射手と弾薬手は射撃中、まったく敵にその存在を暴露していたのだった。
続いて聯隊長の手記をみてみよう。「敵の歩兵は堅固なる陣地にこもり、精神沈着にして射撃してきた。おかげでわが軍の損害は甚大。それなのにこれを攻撃するわが砲兵はさかんに榴霰弾(りゅうさんだん)の雨を降らすけれど、掩蓋下の敵兵にとっては、屋根の上に雨が降るようなものでしかない。また、小銃機関砲をどれだけ撃とうが、銃眼の中に入るものではない」
榴霰弾とは当時の75ミリ野・山砲の弾種の一つで、空中で炸裂して前下方にパチンコ玉や拳銃弾のような弾子(だんし)を浴びせるものだった。地上で暴露されている隊列や、馬などには大きな効果をあげるが、上部が覆われている陣地にはまるで効き目がない。そうした堅固な堡塁を潰すには、堅い弾頭をもち、内部の炸薬(さくやく)を爆発させる榴弾がふさわしいが、当時の野砲兵はその保有する多くは榴霰弾だったのだ。
機関砲同士の撃ち合いでは、当然、掩蓋下の銃眼から撃つロシア兵が有利だった。しかも、わが機関砲は故障も多発した。しかし、陣地で防御に使う敵に対して、攻撃的に運用する。それは世界で初めて、野戦で機関砲を攻撃に使うという新しい体験になっていた。世界中のどこの陸軍も、このことについては未経験だったのだ。
これ以後、機関砲の運搬、陣地構築、展開、保守、弾薬の補充、部隊規模、戦場での用法などについて陸軍は研究を重ねていった。日露戦争で勝利を得た一因になったのは、わが先人たちの血と涙の努力の結果だったのである。
後になって、第3回旅順総攻撃でも合計80挺の機関砲が要塞に突撃する歩兵の掩護に活躍した。戦争2年目の3月、奉天会戦では騎兵旅団配属の12挺を除いても、合計256挺にもなり、わずか56挺のロシア軍の5倍近い配備数を実現していた。
ロシア歩兵のしばしばの銃剣突撃を「薙射(ていしゃ)」で防いだホチキス機関砲。薙射とは脚部にある固定用の緊定杆(きんていかん)をロックし、銃身の上下動を防いでおいて、左右にだけ振り回す射撃法である。まさに薙(な)ぐような撃ち方だった。横一線に広がったロシア歩兵はバタバタと倒れた。こうした用法こそが、まさに、火力重視の日本陸軍の象徴だったといえる。
38年式機関銃
機関砲の運搬手段には2つの方法があった。装輪(車輪を2つ付ける)して輓曳(ばんえい、輓馬で牽引する方式)するのと、三脚架をつけて駄載(ださい、駄馬の背につける方式)する方法である。戦場では輓曳はとても難しかった。悪路に弱く、すぐに横転をすることで馬も人も苦しんだ。そこですべて駄載式に統一された。
改良も進んだ。1907(明治40)年にはこれが制式化された。日露戦役の勝利を記念して「三十八年式機関銃」とされた。三脚架の三本の脚の先には、それぞれ棍棒(こんぼう)を差しこむ環(かん)がついている。ここをもって人力で運ぶのである。この三脚架は銃を上に載せてクランクで高さを上下できるようにしている。射手が椅子に座って撃つ姿勢はなくなり、匍匐(ほふく)した姿勢で頭だけを上げて撃てるようになった。
しかし、国産ホチキス砲と同じように欠点があった。薬室内で膨張した撃ち殻薬莢が内部にへばりつき、エキストラクターに引っ張られると、薬莢が裂断(れつだん)してしまう。連発がきかなくなってしまった。
薬莢は全体が薄い材料でできていた。上部にいくほど、より薄くなった。この上部が広がり、ガスを漏らさないようにするのだが、それが滑らかに薬室から抜け出てくれないのだ。原因は薬莢の材質と、薬室の精密工作技術、さらには保弾板が問題だった。保弾板から出る細かい破片やクズが機関部に入ってしまったのである。
諸元は38年式で、全長1448ミリ、銃身長790ミリ、重量51.5キログラム、口径6.5ミリ、初速765メートル/秒、装弾数30発(金属製保弾板)、発射速度450発/分。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(2019年(平成31年)2月27日配信)