陸軍小火器史(4) ―小銃弾薬の発達(その1)

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はじめに

 もういつの間にやら師走の声を聞くようになりました。山を行けば紅葉が深まり、一部からは初雪の声も聞かれます。皆様、いかがお過ごしでしょうか。
 この11月は自衛隊の各種行事に参加させていただき研修の機会も多くありました。何より素晴らしかったのは、茨城県阿見町にある土浦駐屯地と、土浦市の霞ヶ浦駐屯地のそれぞれの広報館の見学でした。
 どちらもJR常磐線土浦駅からほど近く、土浦駐屯地は霞ヶ浦に面して、現在は陸上自衛隊武器学校が所在し、霞ヶ浦駐屯地はやや内陸に位置して陸上自衛隊関東補給処、同航空学校霞ヶ浦分校があります。
 よく混乱するのが両者の名称と位置関係です。霞ヶ浦に面する土浦駐屯地、内陸の霞ヶ浦駐屯地。実は、いずれも戦前の海軍航空隊の跡地で、まず水上機の訓練用に飛行場が発足、そのときに近隣の有名な地名をとのことで「土浦」航空隊と名づけられました。つづいて、広大な地形を生かして、陸上機の教育・訓練用に「霞ヶ浦」航空隊がおかれたというのが両航空隊の名称の経緯です。
 戦後、自衛隊が発足したときには、それぞれ航空のメッカだったことは忘れられ、霞ヶ浦には陸自兵站の要、補給処が置かれ、土浦には武器学校が開設されました。ただ、ごく一部ですが、現在でも主に陸自の航空機の整備を学ぶ航空学校分校があり、航空機のエンジン音が響いています。
 先週の研修では、武器学校の豊富な旧陸軍火器、関東補給処広報館の貴重な海軍資料などを学ぶことができました。とりわけ前者の幕末・維新からの小火器の発達、後者では巨大なジオラマを中心に、霞ヶ浦飛行場の広大さを学べました。
 手続きをとれば、どちらも一般の方々も見学可能です。両駐屯地の広報班にお問い合わせください。
 また、土浦駐屯地には海軍予科練習生の遺跡が残ります。多くの若者が国家の危難に殉じた記録が残り、顕彰されています。

お礼

 MMさま、早速のご投稿ありがとうございます。おっしゃるとおりです。拳銃の反動とはまた違いもありますが、ライフルやおそらくゲベールも大きな音響、反動の大きさはご想像の通り、たいへんなものでした。和式の鉄炮は左手とほほの横での2点支持で、反動を銃口を上にあげることでそらします。ですから床尾も直線で構成されません。
 これに対して、幕末に入ってきた洋式小銃は、銃床、右手、左手の3点で反動を受け止めます。とりわけ、まっすぐに反動を受け止める肩への負担は大きいものでした。まさにご指摘の通りで、感服いたしました。今後ともよろしくお願いします。

鉄炮(てっぽう)の構造について

 ふつう、火縄で着火する小型火器を「火縄銃」といっている。この名称は現在の「銃刀法」に規定された、古式銃一般をいう法律用語である。したがって、研究者の間では「鉄炮」を使うことが常識となっている。この「炮」の字こそが、伝来以来の正式な歴史用語である。
 江戸時代には多くの炮術流派が生まれた。そのため、各部の名称などは流派ごとに違っていることが多い。ここでは、現在の用語で解説しながら、読者に鉄炮の知識を増やしてもらいたいと思う。
 まず、基本構造は筒(つつ)と台(だい)である。筒とは銃身であり、台は銃床である。銃身は鉄製で銃床は木製であった。台は筒をはめこむ銃架(じゅうか)とカラクリ(発射機構)を付けている台尻(だいじり)に分けることがある。台尻は現在では床尾(しょうび)ともいわれる。
 銃口を先口(さきくち)、逆の方を元口(もとぐち)という。元口は尾栓(びせん)というネジでふさぐが、その頭である立方体型の部分を捻頭(ねじかぶ)といった。銃身の下には栓差(せんさし)という突起を2~3個つけた。これを銃架にはめこんで目釘(めくぎ)あるいは目貫(めぬき)を差し込んで固定した。捻頭は台尻に差しこまれ、胴金(どうがね)で固定された。
 照準具は2つある。先目当(さきめあて)は銃口に近く、火皿に近く付けられているのは前目当(まえめあて)である。この前目当には矢倉(やぐら)を立てる横溝(よこみぞ)もついていた。この矢倉は遠距離射撃のための補助具である。遠くをねらうには銃口が上を向く必要がある。矢倉には目盛りがついていて、そこを通して先目当(照星)と合わせてねらいをつけた。
 弾金(はじきがね・毛抜金ともいう)は引金と連動して上下する。これが火縄挟(ひなわばさみ)を動かした。安全装置は蟹目(かにめ)といわれた。上がった火縄挟はこれにロックされた。引金を引くことで、ロックは外れて火縄は火皿の上の火薬に点火した。
 弾金、蟹目、火縄挟、引金は発射装置であり、カラクリといわれた。一体化した地金(じがね)といわれた細長い板に取り付けられている。台尻の右側についている。したがって火縄式の鉄炮は左肩にかついだ。カラクリは銅か鉄で造られ、17世紀になってからは銅と亜鉛の合金である真鍮(しんちゅう・黄銅)が素材に使われるようになった。また、引金に誤ってふれないように用心金(ようじんがね)というガードがついているものが多い。

火縄銃の射撃

 弾丸は球形である。「たま(玉)」という言葉の起こりでもある。素材は鉛(なまり)、鉄、青銅製などがあった。主に鉛が使われるのはその比重の大きさと加工しやすさが理由である。比重とは同体積の4℃の水の質量との比率であり、鉛は11.3という大きさになる。パンチ力には重さと速さが関係する。鉛は融解点も低く(327.5℃)、鉄と比べると低温で融けて加工しやすい。
 玉を造るには、オタマのような鋳鍋(いなべ)で鉛板を溶かして、ひしゃくで玉形(たまがた)といわれたペンチのような道具につぎ込んだ。この玉鋳型には鉄製と土製があった。ペンチのようなものは鉄製である。冷えたらパカッという感じで玉は取り出せる。バリはやすりで削られて、なるべく球形に近くなるようにした。これらは戦場でも携行されていた。玉の携帯に使われたのは革製の玉袋(巾着)に入れた。
 射撃の手順を説明しよう。まず、火縄に点火する。火縄はヒノキや杉の皮や、竹の繊維、木綿糸などを撚(よ)って、これに硝石の粉を吸い込ませてつくった。火持ちはいいが、それでも時々、息を吹きかけたり、振り回したりして酸素を補給しなければならない。もし、炎をあげてきたら、吹き消して残火だけにする。戦国時代の鉄砲隊などは夜間行軍で、振り回す火が遠くからちらちら見えたともいう。また、新月の夜などの闇の中での行軍では、前をゆく兵の背中にこれを付けて進行方向の目印にした。
 次に火穴(ひあな)を点検する。火穴は火皿からの導火(みちび)が通って、発射薬(玉薬)に点火するための孔である。それが通じるようにセセリ(竹の串など・現在では針金など)を通してみる。ここに前に使ったときの燃えカスがあると、発射薬に口薬(くちぐすり)の火が届かない。火皿をおおった火蓋(ひぶた)を開いて銃口から息を吹きいれてみる。火穴の通りを確認するためだ。タバコの煙なども入れれば、尾栓(びせん)の締まり具合も確かめられる。
 いよいよ発射準備である。火蓋を閉じて、発射薬を銃口から流しこむ。その量はおおよそ玉の重量の4割くらいである。6匁玉(口径15.8ミリ)は重量が22.5グラムだから火薬をおよそ9グラム、銃口から入れる。次に玉を投入する。ふつうなら、かんたんにコロンと入る。次に、木製(樫が多かった)のカルカ、つまり槊杖(さくじょう・多くは木偏に朔の字を使う)を銃口から差しこんで、火薬と玉を十分に突き固める。
 銃を横たえて、火皿の上の火蓋を開く。合戦の用語では、「開く」ことを「切る」という。今も使われている開戦することを表現する「火蓋が切られた」という常套句はここから始まる。戦闘開始のようにいまは使われるが、実際にはまだ発射までには手順がある。
 火穴に細かい口薬を入れるようにしながら、火皿の凹部に口薬を盛る。そうして火蓋を閉じる。このとき、風が強かったり、雨が降ってきたり、あるいは霧が立ちこめたりしたら面倒である。もちろん、雨滴が火皿に入らぬように雨覆(あまおおい)という部品も付けられていた。
 今度は火縄の取り付けになる。火縄の火の先を口で吹いて、灰を落とす。火先が確実に出るように、火縄を火挟みの龍頭(りゅうず)にはさむ。このとき、縄尻(なわじり)は左手の指にはさんでおく。ここで目標をねらう。左手で銃を支えながら右手の指先で、火蓋を開く。そうして初めて目標に照準し、引き金に指をかける。
 引金を引けばバネの力で勢いよく鶏頭(けいとう)は火皿の中に火縄を撃ちこむ。口薬はパッと燃え、火穴の細かい火薬が発火し、発射薬に到達する。そこで初めてドドンと発砲ということになる。そうして、最後に残火(のこりび)がないか、銃口から息を吹きこんでおく。万一、火がくすぶってでもいれば、次の装?のときに暴発してしまうからだ。
 このように鉄炮の射撃は、現代から考えるとかなり面倒で、かつ慎重な配慮を必要とするものだった。しかも、黒色火薬は燃えカスが多く、数十発ごとに分解しての完全な水洗いを必要とした。また、射撃時も火皿の上からのアオリ(爆風が射手の目の前にあがる)が必ずあり、向かい風で撃てば、当然、呼吸に困難さまで感じることもある。
 こうして考えれば、幕末に雷管式の発火システムが好まれ、さらには後装式の小銃弾が愛されたのも理解が容易だろう。

早合(はやごう)という工夫もあった

 点火用の口薬と、発射用の玉薬はそれぞれ専用の容器に入っていた。口薬はより細かい粒で印篭(いんろう)型の容器に入れた。玉薬入れはふつう円形である。どちらも木製で、上部には火薬を注ぎやすいように細い管がついている。
 玉薬を入れて玉を入れる。これをいっぺんにできたら、装?(そうてん)が速くなる。そこで玉と玉薬を1発分ずつケースに入れる工夫がされた。蓋(ふた)がついた管状の容器で、木製や張懸製(はりかけせい・革または紙を張り重ねたもの)だった。
 いずれも湿気を防ぐ、軽量のものである。これを胴乱(どうらん)という革製、あるいは木製のバッグに入れた。腰につける腰付(こしつけ)胴乱と肩からさげる荷担(にない)胴乱があった。熟練した射手であると、1分間に2発を確実に撃てたらしい。

ゲベール、雷管式の登場

 欧米では燧石銃が長い間使われた。ただし、前にも説明したように命中精度は火縄の鉄炮に比べれば、ひどく低いものだった。欧州からの渡来にあたって、どこの大名家でも和式炮術家が導入に反対したのは、その弱点があったからだ。
 着火が石を金属に激しくぶつけるものだったから、その衝撃はひどく大きかった。日本人が鉄炮に要求する狙撃には向いていなかったのだ。欧米でも密集隊形同士の撃ち合いに使われるのが主流だった。
 雷管の採用は着火の仕組みを大きく換えた。点火薬をのせた火皿に火打ち石の火花を落とすやり方はなくなり、点火薬も火皿も要らなくなった。これをパーカッション・ロックという。パーカッションとは音楽の世界でも打楽器を指すように、打撃とか衝撃という意味である。
 弾薬も紙薬莢(かみやっきょう)の前身といわれるようなものとなってきた。考え方は早合である。それは1989年のアメリカ映画『Glory』の戦闘シーンや訓練シーンで見ることができる。映画は南北戦争のマサチューセッツ第54志願歩兵聯隊を描いたものだ。支給された銃は1857年型スプリングフィールド・マスケットという。マスケットというから滑腔(無施条)であろう。
 そこでは、紙袋の封を切る。包まれていた弾丸と発射薬を、槊杖で外装の紙ごと突きいれ、つづいてプライマー(雷管)をニップルという突起(凸)にはめる。このニップルには銃身後部の点火孔まで穴が貫通していて、ハンマーで叩かれた雷汞の火が発射薬に点火した。
 どこの国の陸軍も1分間に3発まで撃てるように訓練したらしい。新兵が訓練中に聯隊長が後ろに来て、頭の後ろで拳銃を発砲する。リボルバー(輪胴式拳銃)であるから、大佐は次々と発砲した。落ち着いた射撃場の中でいくら早く込められても意味はない。このシーンはのちに『ラスト・サムライ』でも全く同じように使われた。
 次回は、ミニエー弾の装?、戦いの様子を詳しくみよう。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(2018年(平成30年)11月28日配信)