陸軍小火器史(9) 幕末・維新戦争の銃撃戦(その2) ─金属薬莢の後装銃の登場─
ご挨拶とお礼
新年のお慶びを申し上げます。いよいよ今上陛下がご譲位される年になりました。陛下と、支えてこられた皇后陛下が少しでもお楽になればと存じます。新年の一般参賀でもお元気なお姿を拝見することができました。心よりお慶びを申し上げます。
明るい気持ちの中で、解決していない問題があります。まるで海賊のような韓国海軍駆逐艦の行動の真相はどうなのでしょうか。海賊のようなというのは理由があります。韓国海軍所属を表す「軍艦旗」も「国旗」も揚げていません。また、二転三転する言い訳のあげく、照射はなかった、日本が威嚇した、日本が謝罪すべきだという主張を公にしました。
「火器管制レーダーをわが哨戒機に照射した」。そうした事実があったかなかったかより、低空飛行で威嚇したと主張を変えて、論点をずらそうとしています。お粗末な反論動画、しかも大部分をわが国が公開したものを編集しているというシロモノです。よほど真相、北朝鮮の船と何かしていたことを隠したいのかなと勘繰ってしまいます。
もっとも「反日無罪」、日本には何をしても構わないという国ですから、どうしても真相を発表することはないでしょう。やはりなあと思わされたのが、わが国の政治家や(あっち側の)御用マスコミの評論家などの一部からは、「事を荒立てるな」「韓国のメンツを立ててやれ」、はては「海上自衛隊も反省しろ」「安部政権の陰謀だ」などという声までも聞こえます。
政治家はおそらくあの「日韓友好なんたら」の議員たちだろうし、評論家も反日を語ってきた人たちだし・・・、およそ背景の見当がつくのがたいへん興味深いわけです。わが国の一部の世論やらを動かしている気分の人たちの、ねらいがよく分かります。
わたしは高尚な政治の話やら経済の話が苦手で、きちんと理解できない無学な者です。ただ、国際関係でもやってはいけないこと、約束を破ってはならないことはあると信じています。同時に、報復行為や謝罪要求も当然、出さねばならないと考えております。もう言葉だけの「遺憾」はやめた方がいいですね。
MMさま榴弾の歴史についてのご指摘、たいへん興味深く読みました。榴弾が開発された頃には、専門家だけがあつかったことなど興味深いご教示でした。ありがとうございます。球形の実体弾の中をくりぬいて内部に炸薬をこめた時代。時限式の導火システム、導火線の装着、調整などは専門家の出番だったと想像できます。ご指摘のように、19世紀の半ばになれば、ナポレオン砲や四斤山砲といった新しい火砲が生まれ、弾丸も誰もが扱えるようになったということでしょう。
咫尺(しせき)を弁ぜず
「咫尺(しせき)」とは中国周代の制度で「咫」とは8寸のこと、「尺」は10寸である。距離が非常に近いことを表現している。「咫尺を弁(べん)じず」とは視界がきかずに、ごく近い距離も見わけがつかないことをいう。伏見奉行所で戦った薩摩藩砲兵隊の指揮官の言葉である。
われわれ無煙火薬の発砲炎と煙に慣れている現代人には想像もできないほど、黒色火薬は煙を出すのだ。再現ドラマも映画も絶対に信じてはならない。あるいは、地域の祭りなどで「古銃愛好会」のグループの演武を見て、あれが火縄銃(黒色火薬)の発砲の忠実な再現と考えるのは本当の事情を知らない人である。
古銃愛好会の方々が一般にお見せしているのは、現在の法律で許されている銃砲店が扱う黒色火薬である。それをまた、安全上から弾丸を入れずに空包で撃っている。射撃の手順や行動を見せるのが目的なので発射薬はなるべく少なくしている。競技場などで許可を得て実弾を撃つときはもっと盛大な煙をあげているはずだ。
奉行所の北門が突然開かれた。新撰組と会津藩兵は突進してきた。横300メートルにも広がって、およそ400?500人の集団である。騎馬の士官が4、5人で指揮を執り、銃を撃ちながら刀槍をひらめかせて進んできた。
40間から50間(70~90メートル)に近づくと、新政府軍は装?しておいた3門の山砲から榴弾を撃った。
榴弾の爆発による衝撃波と音響、飛び散る破片による混乱をねらったのだ。続いて霰弾を浴びせた。前装式の火砲はどれだけ急いでも、次弾の発射まで30秒以上がかかる。必死の作業が続いたことだろう。4斤山砲の操作は4人で行なう。照準手1名と砲手3名である。砲弾の側面には12個の鋲(びょう、スタッド)がついていて、それを慎重に腔内のライフリングにはめこんでいく。それから込め矢といわれた棒で砲弾をゆっくりと押し込んでいった。
問題は腔内に残った前弾の火薬や袋の燃えカスである。それをたっぷりと水を含んだ海綿(かいめん)を先端につけた棒で拭いとる。その上で綿製の袋に入った発射薬(薬包という)を詰めこんだ。あとは火門(かもん)から垂直に錐(きり)を差して薬包に穴を開ける。摩擦管(まさつかん)を挿入して発射準備完了。
黒色火薬を使った火砲は現代の我々の想像以上に水を必要とした。大きなバケツと水源の確保はなくてはならないものだった。御香宮には境内に井戸があった。そこを往復して水を運ぶ兵卒の姿を想像してほしい。
そのあとは砲隊護衛の小銃兵と砲兵も小銃を連発した。轟音、全身を衝撃波が打つ。あたりは硝煙が地上を覆いつくす。視界といえるようなものがない。3門もの山砲がそれぞれ2回、合計で6発分の煙を吐き出した。そのうえ、100挺余りの小銃の連続発射である。風もほとんどなかった。硝煙はほとんど動かず、夕方であることもあり、周りは薄暗くなった。
しばらく何も見えなかった。そのうち少し煙もはれてきたので、その間から透かし見をした。すると旧幕軍は100メートル余り先の柵門まで後退していた。数十枚の畳を立て並べて胸檣(きょうしょう)にしている。その後は互いに猛烈な銃砲の撃ちあいとなった。新政府軍が少しでも射撃の密度を下げると、会津兵と新撰組が、刀槍をひらめかせながら6~70メートル余りにまで接近してくる。そんなことがたびたびあった。「隊中一同粉骨をつくして相働き打ち退け候」というのが原文である(『中原猶介覚書』による。『鳥羽伏見の戦い』野口武彦)。
『戊辰戦役史』には、密集隊の4列縦隊で前の2列は膝打ち、後2列は立ち打ちの構えで、後2列だけが交代で発砲したという記録がある。前の2列は全長2メートル余りになる銃剣をつけたエンフィールド銃を構えつづける。前に紹介したように英国式の第2列だけが発砲することもあったが、指揮官が臨機応変に命令を下したものだろう。
市街戦-ヒョイヒョイと出てくる指図役
長州藩兵は奉行所西側、つまり正門側の町屋の中で戦った。伏見の町屋は碁盤の目のように整然とした区画で仕切られている。軒の低い2階屋が細い道の両側に建っていた。江戸期の絵図を見ると、荷車がようやくすれ違える幅の道くらいである。いまも弾痕の跡が残る料理屋もある。車1台が通れるような道に面した木の表格子に斜めに弾丸の擦過(さっか)した跡がみえる。角度から推測すると向かい側の低い2階屋の窓から撃ちおろしたものだろう。伏見区京町3丁目にある京料理屋「魚三楼」には、それが今でも残っている。その店は伏見の戦いのとき、薩摩軍の炊き出し場所になっていたそうだ。
長州兵は藩内抗争で「馬関の戦」を戦っている。すでに市街戦は経験済みである。伏見の住民はみな避難して無人になっている。屋内から畳を運び出して、それを道の両側に積みあげた。胸檣の代わりにするためだ。互い違いに6~7間(11メートル~12メートルくらい)ごとに左右にそれを置いた。そうすれば身を隠しながらジグザグに前進できる。
薩摩の部隊との取り決めで長州兵は南に向かって、薩摩兵は西方向に撃った。十字火である。道路が交差したところに出た旧幕歩兵は次々と倒された。進撃の先頭に立つのはどこの軍隊でも下級将校である。軒下や物陰に隠れているばかりの兵を叱咤して、指揮刀を振りあげながら「ヒョイヒョイと」進んできた。背景は燃え上がる奉行所である。大きな火炎をバックに黒い影がたいへん目立った。「ピチリピチリ」と撃ち倒したと長州兵の回顧談にもある。
両軍の勝敗の差はどこからきたか?
こうしてみると、兵器は同等。旧幕府軍の訓練もけっして劣っていたわけではなかった。個々の兵士たちの戦闘能力もほぼ同じだったのに、なぜ旧幕府軍は敗れたのか。大きく見れば、上級指揮官の無能・卑怯未練と、中・下級将校の人材不足だったとしか思えない。将官級はほとんど状況の把握もできないまま、命令も的確に下せなかった。家柄だけで選ばれた飾り物の将官、勇敢な者もいたけれど判断力に欠点を見せた佐官・尉官級指揮官たち。
そして何より、政治の小細工が好きだった最高司令官がいた。旧幕府洋式銃隊は大坂城で一戦もしないうちに、最高指揮官から見捨てられてしまったのである。有名な徳川慶喜による敵前逃亡だった。旧幕府洋式兵たちの消息は、その後、働き場所を求めてさすらった東北、北海道の戦いで聞こえることになった。
スナイドル銃が開発される
スナイドル銃は西南戦争の両軍の主力小銃だった単発の後装ライフルである。1866年にエンフィールド・スナイドルといわれ英国で制式になった。特徴は金属製の薬莢を使うことである。もちろん、前に紹介したスペンサーライフルも金属薬莢だったが、レバーアクションによる連発銃で本格的な高性能の軍用ライフルにはなれなかった。構造上の限界があり、弾薬も長距離射撃には向かなかった。
スナイドル銃は陸上自衛隊富士学校資料館に、ほぼ完全な保管がされている実銃があり、その構造も見ることができる。
1861年に始まったアメリカの南北戦争。その前後に、自己完結型弾薬が実用化されるようになった。弾丸と発射薬と金属薬莢を一体化させたものを自己完結型弾薬という。発射薬はもちろん従来の黒色火薬である。ただし紙製薬莢との違いは大きかった。湿気や衝撃に強く、しかも薬莢が金属の性質上、熱によって膨張するので火薬ガスを封じこめる性能が飛躍的にのびたのである。
銃口から弾丸をこめる必要がなくなった。姿勢を高くしなくても次弾をこめることができる。しかも、それが短時間でできた。前装ミニエーが1分間で3発のところを、後装スナイドルでは毎分20発の発射の記録がある。それは火力ではざっと7倍も増えるということになる。
ただし、後装式は同時に銃尾からのガス漏れをどうするかという問題を抱えている。プロシャのドライゼ銃も、フランスのシャスポー銃も塞環(そくかん)を使うことで後部からのガス漏れを防ぐようにしていた。
その問題を解決したのは金属製薬莢だった。英国のジェイコブ・スナイダーは1864年に従来の前装エンフィールド銃を改造することに成功する。まず、銃身を銃口から銃尾まで貫通させた筒にした。銃尾側を少し切りつめて、弾薬をおさえるブロックをはめこんだ。当初の弾丸はボール紙の薬莢の底部だけを金属にしたものだった。口径は0.577インチ(約14.7ミリ)という大型のものである。
この銃尾の開閉形式をわが国では『莨嚢式(ろうのうしき)』といった。莨とはタバコのことをいい、嚢は袋の意味である。銃尾の機関部の右側に蝶つがいのような仕組みで、開閉できる蓋が見える。左側に把手(とって)があり、遊底に固定されたものと、押しボタン式、ロック式と3種類の作動法がある。把手タイプはそれを上げると、蓋は右側に倒れて薬室が現われる。弾薬を入れて蓋をとじ、撃鉄で撃針を叩いて薬莢の雷汞(らいこう)に点火するシステムである。発射後は逆の操作をして、手前に把手を引けば、抽筒子(ちゅうとうし・エクストラクター)が撃ち殻薬莢(以後は空薬莢と表記する)を引き出してくれる。
使用する弾薬筒はボクサー・パトロンと呼ばれる形式だった。英国人エドワード・ボクサーが開発したものでセンター・ファイア(雷管が中央にある)形式の完成品といえる。金床(アンヴィル)が内蔵されていて、発火した火を発射薬に伝える孔(伝火孔)が1つある。現在の陸自、米軍もこれを採用している。
薬莢(ケース)は金属製でふつう銅7、亜鉛3の割合で混ぜられた真鍮(しんちゅう)、あるいは黄銅(おうどう)といわれる金属でできている。発射薬、弾丸、雷管をケースに入れたものを現在では実包、弾薬包、カートリッジといっている。ついでにいえば散弾銃ではその弾薬を装弾という。原語はシェルである。
同時期にアメリカ人ハイラム・バーダン(ベルダンともいう)が開発したものはバーダン型とされ、これは金床がなく、伝火孔は2つになる。両者の比較では、価格的にはボクサー型は工程に手間がかかり、やや高価だが、薬莢の再利用がしやすい。戦場に散らばった空薬莢を回収すればリローディングが容易である。これに対してベルダン型は再生が難しい。
多くのミニエーライフルが後装式に改造され、銃の諸元はそれぞれの元の銃によって違ってくる。後装式1866年式歩兵銃(3ツバンド)は口径14.7ミリ、全長1375ミリ、重量4キログラム、腔綫3条で照尺は900ヤードである。同じく歩兵銃だが2ツバンドといわれたものは口径が前者と同じ、ただし全長が1232ミリと短く、腔綫は5条、そのせいか照尺は1250ヤードに造られている。また、砲兵銃といわれた口径14.5ミリのものは砲兵馭兵(ぎょへい)が自衛用に装備する。馬上での取り回しがいいように全長が1015ミリとなり、重量も3.3キロと軽い。照尺は800ヤードだった。
日本人の戦闘はどう変わったのか?
薩摩藩軍は1870(明治3)年7月に兵部省(ひょうぶしょう)への届出をみても、施条銃1万6015挺、撃針銃(銃種不明)4267挺、七連発銃1050挺となっている。ほかに短四斤砲など278門を保有していた(『鹿児島県史』1939年、鹿児島県)。1868(明治元)年の会津若松城での戦闘では、主武器はエンフィールド銃で、ほかにシャスポー銃、スペンサー連発銃などだった。以下、内容の多くを『鉄砲と日本人(鈴木眞哉、洋泉社、1997年)』に負う。
佐賀藩軍の装備はスペンサー7連発銃2000挺、エンフィールド銃1300挺、さらには1867年にアメリカ軍が採用したばかりのレミントン銃300挺も使ったらしい(『会津若松史』1966年、会津若松市編)。このレミントン銃とは、アメリカで1864年に開発されたもので、銃尾の下に閉鎖軸がある底碪式(ていがんしき)だった。口径は12.7ミリ(0.50インチ)、全長1200ミリ、重量は4キロ、腔綫6条、照尺は1500ヤードである。詳しい説明は省くが、機関の型式をローリング・ブロック式という。後装式のライフルだった。
対して会津藩は鳥羽・伏見の戦いのあとに大急ぎで西洋銃を輸入したという。ただ多くが前装の燧石銃(フリントロック)だったらしい。降伏時に引き渡したのは洋式銃1170挺、和銃1811挺といわれる。戦闘中の損耗もあったろうが、旧式で性能も劣った小銃で戦ったことが推察される。悲劇として語られる二本松藩も同じようだった。白兵戦に賭けるしかなかっただろう。
フランス式の銃剣突撃
旧幕府は恭順の姿勢を貫いたが、その陸海軍の多くは武装解除を拒んで「脱走」した。1968(慶応4)年、4月のことである。陸軍は大手前(現東京都千代田区)のフランス式装備の伝習第1大隊700人、同第2大隊400人、歩兵第7聯隊350人、御料兵200人、旗本士官隊と呼ばれた伝習士官隊700人、ほか砲兵、土工兵、桑名藩兵、会津藩伝習隊、これに新撰組などが加わって、下総国府台(千葉県市川市)に集結した。指揮官は大鳥圭介歩兵奉行(おおとりけいすけ、1833~1911)だった。
海軍はやはり降伏せず、榎本武揚海軍副総裁(えのもとたけあき、1836~1908)が率いた東洋最強といわれた8隻の艦隊が、多くの陸兵をのせて品川沖から北海道を目指した。
それまでにも、2月初旬には反乱を起こした幕府歩兵たちが兵営から脱走し、東北を目指して進んでいった。これを指揮下におさめたのは歩兵頭並(中佐相当)古屋佐久左衛門(ふるやさくざえもん、1833~1869)であり、この後、北越、会津と転戦し函館で海軍と合流した。
大鳥に率いられた伝習兵は日光東照宮(栃木県日光市)を目指した。その途中で大鳥軍は東山道を進んできた官軍を一蹴する。その回顧談がある。4月16日、場所は現在の栃木県小山市付近だった。この時代、お互いに偵察が行き届かず、いわゆる「不期遭遇戦(ふきそうぐうせん)」が多かった。出会いがしらに戦闘が始まるのである。
関東平野の広がった地形。雑木林を利用して30メートル余りに接近した伝習兵は、官軍に一斉射撃を浴びせた。外れる弾丸はほとんどなかった。混乱するところへ銃剣突撃をかけた。背中を見せて逃げる敵兵を次々と撃ち倒した。フランス教官団に習った教科書通りの戦闘だった。
教官団の教えは正しかった。数百メートルを隔てていては銃撃戦が続くばかりで一向にらちがあかない。そこで危険をかえりみず、接近していって射撃をする。敵の混乱をみて、一気に接近戦にもちこむ。この教えが正しかったことを実感できたと伝習隊の士官が語り残している。
二股口の射撃戦
榎本武揚が首班となった「函館政権」と新政府軍の戦闘があった。多くの戦記が残されているが、そこにスナイドル銃が登場する。1868(明治2)年、4月13日から24日まで続いた二股口の戦闘の描写である。野口氏も紹介されているが、函館軍の士官の手記の中に『わが方の費やした弾薬は3万5000余発、敵の多くはスペンセール(スペンサー連発銃)、スナイヅル(スナイドル)等の元込めの銃を用いた。対してわが兵はミニエー銃を用いる』とある。
また、別の士官の手記、『麦叢録(ばくそうろく)』にも、『敵兵はスペンセル、スナイドル等を用いたとみえて、銅銃包(どうじゅうほう)の殻(から)が数万も地上に散らばっていたという記録が発見できる。函館軍側も当然、撃ち返していたわけで、たいへんな戦闘だったことが分かる。
新政府軍の装備を新しくする努力はたいへんなものだった。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(2018年(平成30年)12月26日配信)