陸軍小火器史(2) ―ミニエー銃とゲベール銃(2)

銃腔内のミゾ

 施条(銃身の中の穴に溝を彫ること)が、弾丸の直進性や打撃力を増すことはすでに前から知られていた。15世紀後半から16世紀の初頭の頃だったらしい。初期のライフル銃は、わが国に火縄銃が広がる前に生まれていたのだ。しかし、それはあまり使われることがなかった。
 アメリカ独立戦争(1775~1783年)の時代には、前話でも書いたように英国陸軍はブラウン・ベス小銃を使っていた。マズル・ローダー(前装)であり、滑腔である。口径0.75インチ(19.05ミリ)、銃身長46インチ(116.8センチ)、全長は62インチ(157.5センチ)という長大なもので、ロング・ランド・パターンと呼ばれた。ランドとはLANDのことで、陸軍を表している。現在でも英陸軍では陸軍用小銃にはLの文字を使う。「L85A1」などという。パターンとは型式「モデル」をいう言葉で、ショート(短い)、インディア(東インド会社用)などがある。
 では、大陸軍(たいりくぐん)といわれた独立派の武装組織アメリカ民兵軍は何を使っていたのだろうか。フランスから供与された、やはり前装式シャルルヴィル・マスケット銃を使った。マスケットというのは滑空銃の総称でもある。口径は0.69インチ(17.52ミリ)、銃身長44インチ(113.5センチ)、3つのバンド(環帯)で銃身と銃床を結んでいた。外観上、英軍のブラウン・ベス小銃との大きな違いがそこにある。
 これらに加えて、のちにケンタッキー・ライフルという名称で知られるようになったペンシルヴァニア・ライフルという小銃がアメリカ民兵によって使われた。もともとは猟師たちが愛用したもので(イエーガー・ライフルともいう)、銃腔内にライフリングが彫られていた。口径は0.36~0.45インチ(9.14~11.43ミリ)というもので、銃身長は35~48インチ(88.9~121.9センチ)というやや小ぶり。ごく初期のライフル銃といえる。装?は面倒だったが、滑腔銃と比べればかなりの命中率の向上を見せた。これで狙撃された英国軍将校は多かったという。
 この装?の面倒さはよく理解できる。もともと黒色火薬や弾丸の鉛のカスがこびりつくのを防ぐために、まっすぐな溝が彫られていた。その本数が増えてゆき、斜めに溝を切った方がさらに効率がよくなることが分かった。そのうちにたまたま、弾丸が回転することに気が付き、ツイストした条、施条された小銃が開発された。ところが、溝を彫ったために、銃腔の大きさには「山と谷」ができた。弾丸をより密着させるには「谷」、つまり深い方、直径が大きい方に弾丸の直径を合わせることになった。
 山に合わせたら、そこから火薬ガスが逃げてしまうからだ。おかげで銃腔内に押しこむときに、けっこう抵抗があって、時間もかかることになった。獲物を待ち伏せることが多い猟には使えたが、戦場での撃ちあいには向いたものではないと考えられた。

ミニエー大尉の発明

 鉛玉が使われたのは比重が大きく、しかも適度に軟らかいことだ。そうして発射された球形の弾丸は、皆さんの想像を超える変形をする。後ろ半分、つまり火薬ガスに押される側は扁平になる。これは実験で確かめられる。筆者は火縄銃でそれを見た。半球状の弾丸が飛んでゆくのだ。とすると弾丸の後部に窪みをあけておけば、そこに入ったガスの力で、後部は膨らむのではないか。
 それが成功すると、「谷」の内径に弾丸の大きさを合わせることはない。山の部分に密着し、こすれるような大きさでいい。火薬ガスの力で膨らんだ弾丸の後部は、がっちりとライフリングに食いついてゆく。ガスも洩れることはない。厳密には深い溝だと少しは洩れてしまうが。弾丸の頭部も球形である必要はない。こうして尖頭弾(せんとうだん)、あるいは「椎の実弾(しいのみだん)」といわれる現代につながる銃弾の形ができあがった。
 この銃弾は発明者であるフランス陸軍のミニエー大尉の名前をとって、ミニエー弾といわれている。また、この弾丸を使った前装式ライフル銃を、ミニエー・ライフルというようになった。弾丸の発明は1844年といわれ、フランス軍がこの弾丸を使ったライフル銃を完成させたのが1846年だったという。
 一方、この時代わが国では1839年に勃発したアヘン戦争に刺激された動きがあった。すでに1832年には長崎の町年寄(まちどしより)である高島秋帆(たかしましゅうはん、1789~1866年)が燧石銃をオランダから輸入していた。これは1777年式といわれる。これを用いて洋式戦闘訓練を1840年から始めた。そうして翌年には、江戸郊外の徳丸ヶ原で門弟を指揮して幕府要人の前で、騎兵・砲兵・歩兵の三兵による演習を見せたのである。
 また、1808年にはフェートン号事件といわれる悲劇も長崎で起こっていた。英国海軍のフリゲートがオランダ国旗をあげて入港し、偽装に気付かず乗船したオランダ商館員を人質にして、長崎奉行に食品や水の補給を要求した事件である。このとき長崎警備にあたっていた佐賀鍋島家の対応はあまりに貧しかった。泰平に酔うとはこういうことか。旧態依然の青銅砲や火縄銃では、とてもたった1隻のフリゲートのカノンや燧石銃を装備した海兵隊などの武力に対抗できなかったのである。長崎奉行は責任を負って自決し、佐賀藩も処罰を受けた。以後、佐賀鍋島家は洋式の兵器や戦術開発に熱意をもつようになった。

ミニエー銃は世界流行になる

 1849年には幕府は江戸湯島(東京都文京区)で大筒鋳立場(おおづついたてば)を開設する。1851年には佐賀で反射炉が建設され、鋳鉄大砲を製作した。そうして翌年には佐賀藩はむこう10年間でオランダ製小銃3000挺を輸入することを決定した。幕府や諸藩も決して居眠りを続けていたわけではなかったのである。
 1853年にはペリーが浦賀にやってきた。幕府がそれに驚き、何もしなかったというイメージばかりで語られるが、それはあまりに簡単な受け止め方である。6月の来航以後、9月には多数の兵学書をオランダに発注している。同月には伊豆韮山(にらやま)の代官、高名な洋式兵学者である江川太郎左衛門(1801~55年)が江戸湾に品川台場(だいば)を築造した。
 この1853年にはロシアとトルコがクリミアで衝突した。この戦争は56年まで続くが、54年には英仏もロシアに宣戦する。上海(シャンハイ)の英仏聯合艦隊は、ロシアの極東の拠点、ペトロハバロフスクを急襲した。街は焼かれ、ロシア軍の反撃は成功しなかった。兵力にも勝ったロシア軍の反撃を許さなかったのは、艦隊の砲もだが、海兵隊員がもつミニエー・ライフルの力も大きかった。
 国際情勢の緊迫化のなか、幕府は1855年には、諸藩にも『小銃製作勝手たるべし』という武器製造の自由を与えることになった。それというのも、すでに前年には幕府は重要な軍制改革の一環として、「講武所」の開設を起案していた。そして57年には伝来の剣術や槍術などといっしょに西洋流砲術(小銃射撃も含む)も幕臣に教えようとした学校が開かれたのである。
 この学校の様子を詳しく語るのは本稿のねらいからはずれる。結論からいえば、うまくいかなかったのだ。幕府の旗本・御家人たちは「小銃」を手にして駆けまわることを好まなかった。
 ところが時代は一気に駆け足を始めた。記述を急ごう。

軍隊は自らの失敗からしか学ばない

 第1次世界大戦(1914~18年)で欧州の軍隊は当初、機関銃で守られた敵陣地に勇猛果敢な白兵突撃を行なった。多くの兵士が機関銃の防禦射撃に倒れた。
 彼らの祖国は10年前の極東での日露戦争(1904~05年)に多くの観戦武官を派遣した国々である。彼らはその多くが旅順要塞への攻撃を見た。野戦築城された陣地への有効な攻撃は、野砲や野戦重砲の榴弾射撃や歩兵を掩護する機関銃射撃で行なわれたことを十分に知っていたはずなのだ。
 
 長州藩(正確にはまだ「藩」とはいわないが)が目覚めたのは、強烈な敗戦からだった。1863(文久3)年、5月10日の深夜、長州藩兵は関門海峡を通行中のアメリカ商船ペンプロ―グを無警告で砲撃した。同船は船体に損傷を受けたが、なんとか豊後水道に逃げることができた。幕府が4月に出した「攘夷令」を忠実に実行したまでだと実行者たちは報告した。
 23日にはフランス海軍通報艦キァンシァンが砲撃を受けた。機関に損傷を受けるという危険な状態になった。26日にはオランダ海軍のメデュサが砲撃を受けた。オランダは長い間の友好国だったから、まさか自分たちまでもと油断をしていたのである。おかげで大きな被害を受けた。ようやく佐賀関(さがのせき)方向へ脱出した。
 これに対して、なんと京都の朝廷は「お褒めの言葉」を出した。「いよいよさらに勉励(べんれい)して、皇国の武威を海外に輝かせるよう」というのだから、攘夷家たちは有頂天になった。
 ところが、列国の報復が始まった。この日、アメリカ海軍ワイオミングが関門海峡に奇襲をかけてきた。これによって、長州海軍の2隻の軍艦はたちまち撃沈された。長州のもつ4隻中の2隻が1日で失われた。さらに4日後、フランス海軍のセミラミスとタンクレードが関門海峡の東口である早鞆(はやとも)の瀬戸から侵入してくる。
 海岸に面した前田・壇ノ浦・杉谷の3か所の砲台に猛烈な射撃を浴びせた。圧倒された長州兵の面前に海兵隊70人と陸戦隊180人が上陸してきた。火縄銃とミニエー銃、とても抵抗するどころではなかった。砲台の守備兵は兵器もそのままに一斉に逃げた。フランス兵は上陸し、砲を使えないように火門(かもん)に鉄釘(てつくぎ)を打ちこみ、砲車を焼き、弾薬は海中に投げ込んだ。この写真はいまも資料集や教科書に載っている。火門というのは前装砲の砲尾に開いた細い穴で、筒内の装薬に点火する重要なものである。そこにきつい釘を打ち込んでしまう。うまく外せればいいが、たいていは砲を廃棄することになった。鹵獲されたら敵に使われないようにする砲兵には当然の自損行為だが、それをすることもできず、むざむざと敵にそれをされてしまったのである。
 深刻な衝撃を受けた長州藩。兵器の力の隔絶の前では「武士の誇り」や「勇敢さ」も役には立たない。卑怯、臆病な振る舞いも言い訳が立たなかった。思い知らされたのは武士という階級に属する伝統的な戦士たちの無能さだった。
 6月6日、亡命していた高杉晋作(たかすぎ・しんさく、1839~67年)が呼びもどされた。その高杉が唱えたのが、「従来の世禄(せろく)の士は腰ぬけで役に立たぬから、これは新たに勇壮の士を募って、軍隊を組織した方がよい」という、「奇兵隊」創設意見である。以後、長州藩は諸隊(しょたい)といわれた洋式銃隊の訓練と装備の向上に全力をあげるようになった。
 同じような経験をしたのは薩摩島津家の軍隊である。英国人を斬ってしまった薩摩武士たちは意気も高く英国艦隊を迎え撃った。結果は深刻な反省をもたらした。射程の違いから一方的に艦砲射撃の被害を受け、鹿児島の町も、せっかくの洋式工場も焼かれた。藩船も鹵獲されてしまう。これでは攘夷など夢にしか過ぎない。深刻な反省は英国から学ぼうという姿勢をつくりだした。
 死力を尽くして戦った者しかもてないリアリズム感覚のもたらしたものである。自分たちが負けたということを真摯に受け止め、その理由も素直に理解した。両藩の当事者たちは、激しい波浪を制して動く敵の軍艦を見、うなりをあげる銃砲弾の嵐のもとで手にした惨めな自己像を素直に見つめ、改善への道を歩み出したのである。
 次回は幕末の兵書の記述から、洋式小銃の操作法や、銃隊教練の様子を描こう。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(2018年(平成30年)11月14日配信)