陸軍小火器史(24) ─7.7ミリ九九式軽機関銃ー
ご挨拶
いよいよ今上陛下のご譲位も近づいてまいりました。新しい御代が希望とともに満ち溢れるよう、「令和」という新元号も嬉しく受け止めています。
そうしたなかで、各地で選挙も行なわれました。つくづく「民意」とは難しいものと思っております。それでも民主主義とはコストがかかるものと、国民誰もが重く受け止める時代も同時にやってきたなと思います。
もうすぐ長い十連休がやってきます。わたしはどこも混みそうなので、ひたすら家にとじこもるつもりです。皆様も楽しく過ごされますよう願っています。
軽機関銃手はエリート
1937(昭和12)年5月、「歩兵操典草案」が出された。正規の改訂は3年後になるが、そこに火力重視の文章がある。
「射撃は先ず軽機関銃要すれば之に若干の小銃手を加えて之を行い敵に近接し、火力の増加を必要とするに至れば所要の小銃手を増加するものとす。火力を増加するに方(あた)り過度に小銃を配列するときは却って我が重火器等の射撃を妨げ、且つ突入に先立ち無益の損害を被(こうむ)るに至ること多きに注意すること肝要なり」
この文章は草案だから下書きに過ぎないと思ったら間違いである。現場部隊の意見や歩兵学校の研究によって細かい部分は変えながら、ほぼ草案の基本は踏襲される。しかも、拘束力もあり、部隊では工夫を重ねていかねばならないものだった。
「要すれば」というのは軍隊用語で、「必要ならば」という意味である。あくまでも敵陣を攻撃するには軽機関銃という主張が読み取れる。
そうして96式軽機関銃の制式化から、わずか3年で口径7.7ミリの99式軽機関銃が制式化された。同時に、小銃も念願の「増口径化」がされて口径7.7ミリの九九式小銃が採用されるようになった。すでに同口径の九二式重機関銃があり、こうして日本陸軍も欧米なみの8ミリに近い弾薬で小銃、機関銃が揃うことになった。
99式と96式を並べると、明らかに99式が力強い。銃身の直径は3ミリ太く、機関部に近い方は5ミリ以上太く、最後部の尾筒底も3ミリ太い。弾倉の曲がり方がゆるい。銃口にフラッシュハイダー(消炎器)が付き、床尾の下にはモノポッド(単脚)がついている。
消炎器は短い銃身から7.7ミリの強力実包を撃つので大きな閃光が出る。射手にとっては目に残像が映り、照準しにくくなるのを防ぐためだ。このラッパのような消炎器はかなり有効だった。ただし、反動を強くしてしまったことは疑えない。戦後の新しい機関銃では消炎器を使う機関銃はほとんどない。ついていない九六式軽機と見分けることもすぐできる。
モノポッドは塹壕戦などの接近戦時に役に立つ。至近距離で敵を見れば、どうしても銃口は上に向いてしまう。夜間でも正確に高さをたもって点射ができるよう、あらかじめ床尾からの高さを固定しておくのだ。短い状態では150ミリ、内部の管も伸ばすと280ミリにもなった。先端はとがっている。
全長は床尾から消炎器の先端までが1185ミリ、床尾から銃口まで1070ミリ(1048)、銃身長540ミリ(540)、床尾から引鉄までの長さ350ミリ(330)、初速715メートル/秒(735)、重量9.9キログラム(9)だった。( )は比較のための九六式のデータである。弾倉重量は630グラムで30発の実包を入れると合計で1380グラムになった。
部隊では軽機関銃手はエリートだった。体格もよく、判断力に秀で、我慢強く、忍耐力のある兵が選ばれた。10キログラム以上の軽機をもち、狙撃能力が高く、目標を冷静に狙える人でなくてはならない。副銃手や弾薬手にも的確な指示が出せなくてはならなかったし、何より整備、保全にも気が配れる人しかなれなかったのだ。当然、平時では一選抜の上等兵(満1年間で上等兵に進んだ人)の役目であり、予備役で召集されても、軽機射手であるというその地位は高かった。
平時の歩兵中隊では4個内務班、2年間の兵役時代では15人ずつが同じ班で起居した。一選抜上等兵は各班で2~3人と考えられるから、1人は軽機の射手となっただろう。
「18年度対ソ連戦開始の軍備充実計画」の挫折
6.5ミリの九六式軽機関銃は7.7ミリの九九式とともに最後まで生産された。6.5ミリ体系の給弾システムをとる部隊がある以上、生産打ち切りとはできなかったからだ。戦時中の装備改編ほど難しいものはない。新しい兵器には、新しい取り扱い要領と、新しい教範(各種教科書類)の作成、新しい戦術(射程の延伸や弾薬の性能変化に対応する)の教育などが必須のものだからだ。素人が考えるように、ほらこれが新しい機関銃だ、すぐに撃てるぞというようなものでは決してなかった。
しかも、九九式軽機が制定され、生産が軌道に乗った当時は、日華事変はまさに拡大の一途をたどり、次々と国力を超えた動員がされていた頃である。有名な「関東軍特種演習」、ソ連に対する開戦準備の動員で知られている(昭和16年7月)。このとき、関東軍が満洲に展開する兵力は約35万、これに増加したのが予算人員約50万、馬が15万頭の増加だった。とたんに人員約85万、馬22万頭にふくれあがったのである。
増派される師団は2個師団(第51、同57)だったが、満洲・朝鮮にいる14個師団や飛行集団が動員され、すべての部隊が戦時定員体制になる。その予算総額は、当時、陸軍省軍務局軍事課予算班員だった加登川幸太郎少佐によれば、21億円を関東軍は要求してきたという。当時の1円を現在の3000円ほどと考えると、6兆円という巨額である。それをなんとか折衝で削って17億円にしたということだ(『陸軍の反省』上、1996年、文京出版)。
「戦(いくさ)に勝てばいい」というだけで、国力や生産、補給、国民生活という冷厳な数字に目を向けない参謀本部等の作戦担当者が主導したことである。
戦争とはいかに金がかかるか。満洲の兵備は1人あたり年間3500円くらいかかった。換算すれば1050万円である。50万人も増やしたら5兆円以上になる。中国戦線での戦費は1人当たり4500円くらいだった。これが年間38億円、ざっと11兆円ほどである。
もともと、陸軍省の兵備や動員の主務者たちは慎重な計画を立てていた。対ソ連戦を最重要課題と考えていた陸軍軍政中央部はなかなか合理的な計画を立てていたのだ。
国防の台所
防衛庁が編纂した戦史叢書33号の附録に、陸軍省軍務局軍事課資材班の中原茂敏砲兵少佐が昭和15年7月に軍需動員関係事項をまとめた「国防の台所」がある。その内容は恐ろしいばかりに貧弱なわが国の現状がある。すべてを転記はできないが、主要なものを書いておこう。なお「新軍備充実計画」とは昭和18年度の対ソ連開戦に備えたものである。
火砲については、現在年間2000門を生産している。官は大阪造兵廠、民は日本製鋼、神戸製鋼などを中心に、官民比率35対65で製造。「新軍備充実計画」が完成すると4000門くらいの能力が見込まれるが、その時点では2万1000門が保有量である。全軍動員の場合は、現在の補給率(年50%)でも年に1万門を造る必要がある。ことに15糎加農以上の大口径火砲は150門ほどがあるが、その製造能力は1年に5門くらいである。15加は1門製造に8カ月、24糎榴弾砲は18カ月が必要になる。このような大型機械製造設備の現状は貧弱である。
昭和12年の事変以降、この設備拡充に重点を注ぎ、18年度までには官有設備拡充の半分である約4億円の増加になっている(当然のことに対米英蘭戦争は考慮していない)。
弾薬については、現状では3万台の機械を動かして、砲弾2000万発、爆弾17万発を製造している。その中の砲弾については、現在1日6万発、年間で2000万発を製造している。うち3分の1は支那戦線で射耗して、3分の2が蓄積されつつある。現在の保有量は約1500万発で4億円ほどにあたる。18年度末の新軍備完成時には6000万発、16億円分を保有することになる。
機関銃に関係する実包についても書かれている。現在は月産6000万発で18年度には1億2000万発に向上させる計画である。
事変の発生以来14年度までに、弾薬製造に使った鋼材は約50万トンで、18年の新軍備完成後全軍動員には少なくとも年100万トンを必要とするだろう。
最後に火薬について挙げておこう。爆弾が多くなったので、最近は炸薬と装薬との比がおよそ2対1であり、現在合計月3000トンの能力がある。開戦時には月1万トンが必要だが、18年度には月6000トンに達する。
開戦1年半後の実態
大きな戦争が始まってほぼ1年、1942(昭和17)年暮れのことである。ガダルカナルの攻防戦があり、たくさんの輸送船が沈み始めた。飛行機だ、弾薬だ、いや船舶だと大騒ぎになった。ガダルカナルの撤退があった18年の初めから18年度軍需動員計画が検討されたが決まらない。年度計画に基づいたふつうの動員ではなく、臨時動員が次々くり返され、人も兵器も膨大な数が必要になった。
おかげで計画はガタガタである。昭和18年5月になってようやく決まった計画がある。
こうなると、小火器の整備などはほんとうに削られる。17年度の生産実績と18年度の計画数である。17年度の数字をあげて、( )内に18年度の計画数と比べる。
軽機関銃1万5900(1万1000)、重機関銃1万2800(4000)、92式歩兵砲500(250)、94式対戦車砲2000(200)、47ミリ対戦車砲400(700)、94式山砲190(0)、95式野砲110(60)、10糎榴弾砲230(0)、15糎前同177(20)、15糎加農37(24)、機関銃関連の小銃実包4億発(2.5億発)である。
火砲の減少も重大だが、軽機、重機の生産数の削減が大きい。別に高射砲弾薬は133万から発から176万発へ、高射機関砲弾薬も130万発から240万発へ増えている。中央では、とにかく現場が頼りにする小火器や弾薬よりも航空機、船舶に重点をかける。もちろん、制空権もなくなり海上輸送手段も減る。それでは現場も立ちゆかないだろうということからの判断だが、国民のほとんどはこうした実態を知らなかったのだ(数字はすべて戦史叢書、軍需動員から)。
さらに悲惨なのは、19年度計画である。新しい部隊が召集された兵士たちですぐできあがる。ところが支給する装備がなくなる。戦っている部隊には新しい兵器が渡らない。「19年度整備基準(案)」である。小銃80万挺、重擲弾筒3000、軽機1万5000、重機5000、92式歩兵砲275、97式曲射砲600、47ミリ対戦車砲700、41式山砲250という数字がある。野砲は造らない。94式山砲だけが250門となる。大口径火砲は軒並みゼロ。高射砲、高射機関砲だけを整備する。ついでに戦車もゼロが並び、4式中戦車、5式中戦車、10糎加農搭載戦車がそれぞれ5輌ずつである。
戦う99式軽機関銃
造られた軽機は新編部隊にも交付されたが、海外で戦う部隊にも送られた。特に船舶輸送がなんとかできた沖縄や台湾、小笠原などに届いた率が高かったことだろう。また上海などの中国にも順調に運ばれ、問題はその先だった。連合軍の進撃が速すぎ、各地で兵器弾薬などの物資の滞留がかなり多かったことだろう。
また、日本軍の戦い方も当然のことながら、変わってきている。一ノ瀬氏は前掲した『日本軍と日本兵』の中で、ビルマの撤退作戦での日本軍の行動についての米軍情報部の分析を紹介されている。
後衛隊は有利な地形を選んで陣地を造る。外側に外哨兵を置き、英印軍が接近すると射撃をして包囲される前に主陣地に戻る。英印軍の隊列が主陣地の射程に入っても、集中射撃や一般の射撃も行なわない。敵に機関銃陣地や火点を発見させないようにするためである。包囲される前に夜間に撤退する。機関銃手と狙撃手だけが明け方まで発砲を続けていた。
ここには、戦後の定説になっていた、日本兵のやけくその銃剣突撃などはなかったことの証拠が示されてる。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(2019年(平成31年)4月24日配信)