陸軍小火器史(11) 西南戦争(2)─幕末・明治初めの拳銃─

S&W No.2

 2003(平成15)年6月、新聞をにぎわせた記事があった。熊本城の本丸周辺の整備に関しての発掘調査で、天守閣横の溝の中から拳銃が発見されたのである。天守閣が炎上して失われたのは「薩摩軍」の決起による西南戦争のときである。1877(明治10)年2月のことだった。そのときに焼けた残骸などといっしょに、リボルバーつまり回転弾倉(シリンダー)式6連発の拳銃が発見された。弾倉といわれる部品には、レンコンのように弾丸を入れる穴があき、中心の軸で回転するようになっている。
 この天守閣の炎上については、いまだに失火説、政府軍による放火説の決着は完全にはついていない。失火説というのは、当時、城内には籠城に備えて将校家族などが入城していた。その料理をまかなった天守閣近くの台所が火元らしい。ある将校夫人の発火時点の目撃談もある。また、天守閣には籠城戦の準備として多くの兵粮米と弾薬が備蓄されていたという。それをわざわざ焼くだろうかというのが失火説である。事実、政府軍はそのあと、大騒ぎで城下に出て米などを買い集めた。
 放火説というのは、城内にいた薩摩軍間諜の仕業だという。あるいは、士気を高めるために城内の政府軍によるといわれる。近代的な野・山砲や臼砲をもつ薩摩軍。籠城中に天守を撃たれ炎上したら、混乱する。そこで事前に焼いてしまったという推理である。実行犯まで名指しされている。少佐参謀児玉源太郎である。ただ、やはり公平に見て、そこまで政府軍はやっただろうか。計画的な放火ならば、貴重な兵糧や弾薬は、実行以前にそれとなく運び出していただろう。
 ともあれ、この出土した拳銃は、その残ったフレームや輪胴式弾倉(シリンダー)の形状などから、米国製のS&W(スミス・アンド・ウェッソン)No.2と確定された(製造開始は1861年)。金属製薬莢を使い、撃鉄で底にある雷管をたたいた。もちろん、薬莢に詰まっているのは黒色火薬である。アーミーモデル(陸軍型)・2号と直訳すべきか。現在でも多くが保存されているのを見ることができる。撃鉄を1回ごとに起こしてシリンダーを回転させて引鉄をひいて発射する。いわゆるシングル・アクションだった。外観的な特徴は、引鉄を保護する用心鉄(トリガー・ガード)がない。
 この拳銃については、わが国でも逸話が残っている。幕末の有名人、坂本竜馬がこの拳銃を持っていたことだ。有名な話は、伏見・寺田屋で奉行所役人から包囲を受けたときのことである。当時の竜馬は幕府側からみれば重要指名手配犯だった。深夜に踏み込まれた。
 護衛の長州藩士と2人で、2階の部屋において拳銃で応戦する。2人を死傷させて、多くの出血に悩まされながら、ようやく薩摩藩邸にたどりついた。長州藩の高杉晋作から譲り受けた拳銃だった。高杉はそれを中国の上海で2挺入手し、1挺を竜馬に渡したという。
 口径は32、すなわち100分の32インチ、約8.1ミリである。弾倉、シリンダーに弾をこめるには、いささか面倒くさい手続きがいる。竜馬はこのとき事前に5発を装てんしていたらしい。2人を撃ち倒して、突入をひるむ捕り方の様子をうかがいつつ、再装てんしようとした。そのとき、はじめて右手が不自由だと気付いたらしい。室内戦闘に慣れた奉行所同心が横から小手に脇差で斬りつけていたのだ。
 再装てんには銃を折って弾倉を外し、銃身下についたラマーで空薬莢を1個ずつ押し出す。その後に新しい実包をこめて弾倉を取り付ける。親指の付け根に傷があり、右手が不自由では、どうにもならなかっただろう。前述したように、1発ずつ撃鉄を起こして発射するシングル・アクションで、弾倉は撃鉄と連動して回転した。
 熊本城から発見されたこの拳銃の持ち主は誰だったのだろう。当時の政府軍将校には拳銃を携帯する義務はなかった。陸軍将校の軍装に、拳銃武装の規定ができるのは日露戦争後のことである(1907年)。
 ただし、それだから将校たちが当時、拳銃を持たなかったということにはならない。多くは片手持ちの輸入品のサーベルを提げていたのが当時の実態。接近戦では拳銃もかなり有効な武器になったはずだ。おそらく私費で購入した外国製拳銃をもっていた。籠城する準備であわただしいときに、天守閣の炎上という大事件。誤って落としてしまったのだろう。

拳銃についての基礎知識

 拳銃(けんじゅう)とはリボルバー(回転弾倉式)やオート・ピストル(自動装てん式)の総称である。この「拳」という字が当用漢字ではないので、マスコミなどでは「けん銃」としたり、「短銃」と表記したりする。自衛隊でもまた「9ミリけん銃」とか「機関短銃」などと使っている。
 ピストルというのは中世のヨーロッパで生まれた名称である。語源についてはいろいろな説があるが、確定的なものはない。もともとは、個人の決闘用の、片手で使い、射程も短い、したがって威力の小さい火器をいった。
 19世紀になって回転弾倉式の連発銃をリボルバーと通称し、機関銃の動きにヒントを得て自動装てん機能を備えた拳銃をピストルと呼ぶことが多くなった。しかし、コルト社では19世紀ころには自社のリボルバー拳銃をピストルとしていたし、英国軍は官給品のリボルバー拳銃を同じようにピストルとも呼んでいた。だから、あまり厳密に分けることにも無理があるといえそうだ。
 現代では片手で射撃できる小火器をハンド・ガンという(近頃は両手で保持することもあるが)。回転弾倉式をリボルバー、自動装てん式をオート・ピストル、セルフ・ローダーといっている。

拳銃の発達

 長い間使われてきた単発の小型銃はやはり前装式の燧石(すいせき)式である。燧石式発火装置をつけた小銃の銃身を短くしただけのもの。帆船海軍の斬り込みなどでよく見られ、1発撃ったあとは再装てんする時間もないから、銃身を握って棍棒のように使った。
 そこへ大きな改革をもたらしたのは雷管の発達だった。まず、弾倉の採用が始まる。弾丸と火薬が入る孔を貫通させた弾倉を開発し、それが回転しながら孔と銃身とが合致するようにした。前から火薬と弾丸を入れたら、銃身の下にあるローディング・レバーをつかってラマー(装てん棒)でしっかり圧着させる。前面の火薬の漏れを確認し、弾丸がこぼれ出ないようにグリースかクリーム状のワックスを塗った。その後に、ネジの差しこみ式になっているニップル(受け台)に、銅製のキャップに入った雷管(プライマー)をはめた。
 プライマーというのはパーカッション・キャップともいわれる。薄い銅板をプレス加工して小さなカップの形状にした。雷汞(雷化第二水銀)をその中に塗りこんで外側をラッカーで防水処理をしたものである。右側にあったニップルにそれをかぶせ、打撃するだけで細い穴を通った火が発射薬に点火をできるようになった。点火皿に火薬を盛る必要もなく、雨や風にも強かった。これが拳銃にも小銃にも使われるようになった。
 パーカッション・ロックの拳銃は米国人、サミュエル=コルトが1830年代に数型式のものを造った。同じころ、英国でもセルフ・コッキングといわれたダブル・アクション拳銃(DA)を採用していた。ダブル・アクションとは撃鉄を毎回起こす必要がなく、引鉄を絞れば連動して撃鉄があがり、弾倉も1発分回転するというものだ。引鉄は当然、重くなるが、少しでも発射速度をあげることができた。外観上は撃鉄(ハンマー)に指をかけるスパーがない。
 この面倒くさい装てんの手順をひどく簡単にしたのは金属製薬莢である。ただし、当初は薬莢に初めからピンを差しておいて、それを打撃して雷管を発火させるピン・ファイアといわれる方式が使われた。わが国でも、これを「蟹目(かにめ)式」といっていた。蟹の目が外に飛び出している様子に似ていることからだ。
 このピン・ファイア式拳銃は、フランスのカシミール=ルフォショウの開発した一連の拳銃が有名である。わが国にも幕末に多く輸入された。フランス式戦術・制度を導入した幕府陸軍将校はこれをもっていただろう。口径は11ミリで、銃身長は192ミリ、全長は305ミリだからさすがに軍用拳銃らしい貫禄がある。薬莢から垂直に突きだしたピンを打つため、撃鉄は上から覆いかぶさるような形状であるから見分けやすい。
 試行錯誤が行なわれたのはアメリカである。とうとう薬莢の底部中央についた雷管を打つ金属製一体型の拳銃用実包ができあがった。パーカッション・ロックの拳銃に手を出さずにいたS&W(スミス・アンド・ウェッソン)社はただちに回転式弾倉式拳銃を造った。コルト社も負けてはいない。22口径の弾丸(直径約5.6ミリ)を使うと8発も弾倉に込めることができた。これをNo.1拳銃といった。しかし、軍用拳銃としてはいかにも威力が小さかった。そうして造られたのが、32口径のNo.2だったのだ。

日本陸海軍が採用した「一番型拳銃」

 陸上自衛隊武器学校の小火器館に変わったリボルバーがある。明治陸海軍が採用した「一番型(いちばんがた)拳銃という。やたら大型で、用心鉄の外側にさらに中指をかけられるような大型のフック状の指かけが付いている(どうも海軍仕様かとも思われる)。これが陸海軍で一番型拳銃といわれたS&W、ナンバー3(No.3)である(1870年製造開始)。この拳銃は、制式化されて広く学校や部隊に配布されていた。以下は、杉浦久也氏(『日本軍の拳銃』ホビージャパン、2018年)の論稿に多くをよる。
 防衛研究所が所蔵する『陸軍省大日記』をみると、1878(明治11)年4月付の文書に以下のような内容がある。西南戦争(1877年2月~9月)で戦地部隊から陸軍省第三局(砲兵局の後身)に「拳銃増加配備」を希望してきた。そこで第三局は、(東京)砲兵本廠に洋銀建てで1036ドル20セントを用意して、「一番型拳銃」を95挺と実包1万発を集めさせようとした。ところが、東京、横浜で探してもとても要望に応えることができなかった。
 そうこうしているうちに、第三局の頭越しにS&W社に向かってすでに拳銃が3416挺、実包94万3800発の発注がされていた。このように砲兵本廠から報告があったので、もうこちらで購入はしなくてよいですね、という内容の「伺い」である。
 また。海軍がこの銃を購入した記録もある。海軍省兵器局から海軍卿(のちの大臣)へ上S&W社の代理人であるアーレンス商会から買いたいと上申された文書だった(1878=明治11年6月)。それは『米式一番形拳銃600挺』を購入したいという上申書である。それによれば1挺16ドル50セント、弾薬は常備8万1000発、予備15万9000発をS&W社から購入したいという。洋銀で代価は9900ドルである。やはり海軍も上陸戦闘や、海上での臨検など士官が武装する必要もあったので、艦船や部隊に配備していたのである。研究家の須田薫雄氏の『日本の軍用銃』によれば、1万挺あまり式が輸入されたという。
 杉浦氏が紹介するアメリカの研究者によれば、1878年から翌年にかけて、アーレンス商会が中継し、ラッシャン(ロシアン)と呼ばれる44口径(約11.2ミリ)の弾丸を使う3型のタイプ2が推測で6000挺あまり輸出されている。
 ただし実戦での評価は見られない。拳銃はいまもサイドアームといわれるように戦闘のわき役でしかないので、記録にもあまり残らないのだろう。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(2019年(平成31年)1月23日配信)