陸軍小火器史(30) ─番外編 陸上自衛隊駐屯地資料館の展示物(2)

縦型の階級章

 多くの駐屯地には陸軍階級章が展示され、いまの陸自との比較などもされている。ただ、残念なことに肩章と襟章の違い、それぞれの由来などの解説がない。せっかくの遺物がもったいないと思うのは私だけだろうか。
 わずかに見ただけだが、程度も展示もさすがなのは需品学校のある松戸駐屯地である。ガラスケースに丁寧に保管され、美しい状態を保っている。
 まず、陸軍武官の階級は昭和15年の時点では、将官3階級、佐官3階級、尉官3階級の将校(士官)と准士官、下士官3階級、兵が4階級に分かれていた。将校の区分は、大・中・少である。よく「小」でないのはなぜと疑問をもたれる方もいるが、もともと「大」は「つかさどる」(主務者)という意味で、「少」は「たすける」という意味がある。
 はるか8世紀の昔、律令体制が始まったとき、「大納言・だいなごん」、「少納言・しょうなごん」などと官名が決まった。そんな由緒正しい用語であり、「中納言・ちゅうなごん」というのはのちに新設された官である。これを「令外官(りょうげのかん)」という。中国直輸入の「令(行政法)」の「外(ほか」だからだ。中納言は少納言の上位、大納言の下位になった。
 明治の初めごろには、尉官は律令体制の「四等官(しとうかん)」すなわち、「かみ(長官)・すけ(次官)・じょう(判官)・さかん(事務官)」と官人が身分を分けられたの中の第3等官だった。これが近代軍の「士官」とされた。はるか昔、近衛府には「大尉・少尉(だいじょう・しょうじょう)という官があった。左右の衛門府にも同じく、「佐衛門尉(さえもんのじょう)」という官があり、時代劇で有名な「遠山の金さん」こと江戸町奉行遠山景元(とおやま・かげもと)はそれだった。
 だから、陸軍士官学校というのは、まさに尉官の養成学校だった。では、佐官はといえば「上長官(じょうちょうかん)」とされ、はっきりと区別された。佐官の「佐」は「すけ」とも読む。NHKの「大河ドラマ」の人気者、真田信繁(昔は幸村といわれた)は、大坂城の中では「左衛門佐(さえもんのすけ)」と呼ばれていた。秀吉の奏請によって、朝廷の武官としての正規の官名をもらっていたからだ。遠山金四郎の直上の上司だった(時代は違うが)わけである。明治になっても、正式には尉官は士官、佐官は上長官と区別された。
 さて、資料館などでよく展示されている陸軍階級章だが、おそらく大正から昭和前期のものばかりである。長方形で、緋色のラシャ地。カーキ色の軍衣の両肩に肩甲骨と直角につける。ヨーロッパの軍隊はふつう、横向きにつけるから珍しい。日本と同じなのは意外なことにアメリカ軍である。映画、『ラストサムライ」でも米軍大尉は、その形式の階級章を肩につけている。また、いまもアメリカ陸軍の将校は礼装では肩甲骨に直角に縦型階級章をつけている。なんでもフランス式、あるいはドイツ式かと思い込んでいると、実はアメリカ式だったという面白さである。

銀星と金星

 昭和12(1937)年まで、陸軍には「将校相当官(しょうこう・そうとうかん)」という言い方があった。士官以上で軍隊指揮権をもつ者だけを「将校」といった。軍隊運営の支援をする経理部、軍医部、獣医部などの士官(高等官)は将校ではなく、「相当官」という身分上の区別があった。前回解説した各部の識別色の他に、階級章も、それが一目で分かる意匠になっていた。
 緋色のラシャの台地の両側に「縄目繍(なわめしゅう)」という線がつく。その中に平織線が入るが、それらが兵科は金、各部は銀だった。平織線は将官は太く、以下佐官、尉官と細くなってゆく。その上に真鍮製の星がのるが、兵科は金星、各部は銀星だった。下士官は両側の縄目繍がなく細い平織線のみで、これも各部は銀、兵科は金の星である。兵卒は平織線がなく、兵科は黄色、各部は白の絨製の星がついた。兵科の金星を「かぼちゃの花」とも兵卒はいったらしい。
 毎度、森林太郎軍医に登場いただくが、日露戦後に凱旋されて新制式の軍衣をまとったと思うが、両襟の鍬形は深緑、その階級章は一目で相当官とわかる銀線、銀星だったのである。
 この区別がなくなり、各部の将校相当官以下の軍衣の襟部徽章や、ボタン、星章、線章、刀緒(とうちょ・剣につける飾り)の緒帯が金色になったのは1922(大正11)年のことである。もちろん、大正の民主化運動(差別をなくそうという気分)の影響もあったに違いない。

あまり知られていない臂章(ひじしょう)と襟部徽章

 各兵科や各部の襟には定色の鍬形があった。それにつけたのが所属を表す徽章である。現役・予備役はアラビア数字(真鍮製)をつけた。緋色の鍬形にアラビア数字で1をつければ、歩兵第1聯隊(東京)、34とあれば歩兵第34聯隊(静岡)、33なら歩兵第33聯隊(三重)、5なら青森の歩兵第5聯隊である。この隊号をあげたのは偶然ではなく、いまの陸自の普通科連隊と同じだからである。陸自の隊員は右肩にワッペンをつけている。その上部の色が職種(兵科)を表し、アラビア数字が隊号を示す。
 このほかに臂章という左腕の上部に着けるマークがあった。1908(明治41)年のことである。薬剤官(衛生部の深緑)、獣医部(やはり深緑)、喇叭長(ラッパちょう・下士)、喇叭手(兵卒)、火工掛下士、砲台監守下士、蹄鉄工長(砲兵・騎兵科の技術下士)、鞍工長(あんこうちょう)、銃工長、木工長、縫工長、経理部縫工卒、靴工長、経理部靴工卒、伍長勤務上等兵、看護長勤務上等看護卒、陸軍監獄長・監獄看守長・同看守などがそれぞれデザインされたマークをつけた。
 襟部徽章は1917(大正6)年にはさらに改められた。9月1日、『独立守備隊及支那駐箚(ちゅうさつ)部隊被服品中徽章』という達しが出される。独立守備隊とは、日露戦争の結果得た満洲鉄道の沿線守備にあたる。鉄道レールの断面に歩兵銃が交差した徽章である。
 支那駐屯軍所属の士官候補生徽章も少し後に決まった。士官候補生とは現役将校の候補者であり、予備役幹部の通称「幹部候補生」とは異なっている。内地の部隊付きの士官候補生は金色の星章を襟につけるが、支那駐屯軍のそれは星を桜葉で囲んだものだった。これは実物を目にしたことがあるが、もっとも凝った意匠だと思う。

金鵄勲章(きんしくんしょう)

 金鵄勲章が置かれていることがある。勲章は旭日章(きょくじつしょう)、瑞宝章(ずいほうしょう)、宝冠章という3種類になっている。それらは勲一等(くんいっとう)から勲八等までに分かれている。もちろん、一等が高く、最下級が八等である。
 もうひとつの勲章は戦後廃止された、軍人と軍属だけに授与された「金鵄勲章(きんしくんしょう)」である。これだけは「功一級(こういっきゅう)」から功七級までの7等級だった。
 金鵄とは金色のトビ(鳶)のことをいう。神武天皇が長髓彦(ながすねひこ)を征伐されたときに、天皇の御弓の先端に金色の鵄がとまり、敵軍は目を開けていられなくなったという故事に由来する。制定されたのは皇紀2550年、すなわち西暦1890年、明治23年のことだった。
 戦場で「武功抜群」と認められると、金鵄勲章が与えられた。初めて授与されるときを「初叙(しょじょ)」というが、階級によって差がついた。兵は功七級、下士官は七級もしくは六級、准士官も同じ。尉官は功五級、左官は四級、将官は三級である。何回か重ねて与えられるときがあり、極限も決まっていた。将官は功一級、佐官は二級、尉官は三級、准士官は五級から四級、下士官五級、兵は六級となった。
 金鵄勲章には年金がついた。本人には終世与えられ、死去すると家族が1年間だけもらえた。年金制度が廃止されたのは、1941(昭和16)年7月のことである。一時金になってしまった。また、1940(昭和15)年からは、生存者に与えられることがなくなった。
 金鵄勲章の年金額は日清戦争のあとで、功一級は1500円、二級は1000円、三級は700円、四級500円、五級300円、六級200円、七級100である。1円がざっと1万5000円くらいと考えると、七級で150万円、六級300万円、五級450万円、三級750万円、二級1500万円、一級2250万円だから大したものだ。
 敗戦にいたるまでの功一級の拝受者は誰かというと、海軍20名、陸軍28名であり、人員規模からみて海軍はやや甘いとみていいか。さすが日露戦争の戦功が多く、山縣有朋、大山巌、それに野戦軍の各軍司令官、野津道貫、黒木為禎、奥保鞏、乃木希典、長谷川好道、西寛二郎、川村景明、寺内正毅、皇族では閑院宮載仁親王、そして死後の追叙(ついじょ)になるが児玉源太郎である。海軍は東郷平八郎、伊集院五郎、山本権兵衛、片岡七郎、上村彦之丞が日露戦争の戦功が評価された。
 次回は従軍記章などを説明しよう。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(令和元年(2019年)6月5日配信)