陸軍小火器史(32) ─番外編 陸上自衛隊駐屯地資料館の展示物(4)─靴や装具など─

ご挨拶

 まず入梅です。よく降ります。うっとうしいなと思いながら、それなりに降雨がなければ、夏には水不足がいわれるでしょう。紫陽花がきれいです。
 7月には参議院選挙が行なわれ、またまた賑やかな季節になりそうです。いずれであれ、わが日本の将来を託せる政治家の方々に出ていただきたいと願います。

陸軍将校の長靴や短靴の色

 資料館にうかがうと、さまざまな靴や装具が置かれている。陸軍では日露戦争以後、下士兵卒用には編上靴(へんじょうか)を支給し、巻脚絆(まききゃはん)でその上部から膝の下まで巻き上げるようにしていた。乗馬しないことを原則とする下級兵科将校(乗馬本分ではない)も編上靴をはき、巻脚絆や革脚絆で足元を固めていたことが多い。
 色はどうだったかというと、将校や相当官の靴の色は規定があった。映画やテレビドラマでは黒色が主流のようだが、あれは間違い。黒でも茶色でもどちらでもよかった。だから、保管されている物の中には茶色があってもおかしくはない。祖父の遺品も茶褐色だった。
 ただし、制限があった。正装、礼装の場合は黒のみである。通常礼装のときは黒でもよいが、茶褐色が正式だった。軍装でも正式には茶褐色で、黒であってもよいという規定があった。『ナニナニすることを得(う)』という但し書きがついている。
 正装、礼装は服が黒だったから黒が合う。通常礼装、軍装は服が茶褐色(カーキ色)だから、なんとなく茶褐色の靴が合うというところだ。しかし、黒の靴でもおかしくはないという規定だった。
 ここで昭和の時代の軍人の服装のことをもう一度まとめよう。正装とは鶏の羽の前立てをつけた正帽(金色日章)をかぶり、正肩章、サッシュ(飾帯)を着けた服。礼装とは、正服を着るが羽の前立てを使わず、飾帯もつけない。ただし正肩章はつけた。通常礼装とは、カーキ色の軍衣袴に正肩章をつけ、帽子も軍帽にする。ただし、刀は正刀帯を上着の上につける。軍装とは、戦時の姿である。略房、軍帽をかぶり、重い軍刀は略刀帯(俗称ズベラ・バンド)といった頑丈で幅広な機械編みの綿製のベルトに吊った。これは上着の下につけて、上着の脇の切れ目から軍刀をのぞかせた。

短靴とはアンクル・ブーツのことをいう

 短靴(たんか)という用語があった。長靴(ちょうか)はすぐに分かる。乗馬長靴という言葉があるように膝下までおおう革製の長靴(ながぐつ)である。短靴は「陸軍服装令」に決まっている。『(正装のときは)短靴は深ゴム式とし編上式(半靴式ヲ除ク)を用ふることを得』、これが規定である。
 短靴とは「深ゴム式」というように、アンクルブーツ、わたしたちの世代では「デザート・ブーツ」といった足首までおおうものをいう。内側サイドがゴムになっていて、戦前社会では「村長靴(そんちょうぐつ)」などといったらしい。田舎の村では、名士しか洋式の礼服などもたなかったし、それが村長さんくらいしかいなかったということだろう。様式は紐で結ぶ編上式でもよい。礼装も同じ。通常礼装の場合も同じ。軍装のときは、次のような規定がある。『短靴、長靴及び革脚絆は茶褐色とす。ただし、黒色のものを用ひることを得』となっていた。
 なお、将校とその相当官の革脚絆が制定されたのは1921(大正10)年8月のことである。もちろん、色は茶褐色だった。文化史の研究者によると、この頃から一般人も茶色革の靴をはくようになったとか。

半靴式が許されたのは船舶部隊だけ

 正装でも、礼装でも、軍装でも許されなかった「半靴(はんか)」とは何だろうか。これがいま、わたしたちが履いている靴、つまり足首に届かない長さのものである。日露戦争の途中でカーキ式の戦時服が制定されるまで、黒服に黒色の半靴で戦った。膝から下は、いまも海上自衛隊が行進するときに使う「甲がけ脚絆」、スパッツでおおっていた。これはスパッツがなければ、隙間ができて、そこに雪や泥が入ってしまう。また、半靴は深い泥などに足を踏み入れると、脱げてしまうことがあった。
 
 例外規定があった。船舶部隊である。そこでは長袴(ちょうこ)、わたしたちがふだん穿いている長ズボンのことをいう。長袴と半靴が許されていた。たしかに上陸用舟艇(大型発動機艇や小型発動機艇)や交通艇などの運行にあたる船舶工兵や、商船に乗り組む船舶高射砲兵などは半靴式が便利だっただろう。万一のときにも、短靴では水中で脱ぎにくかったはずだ。

日露戦争の軍靴

 日露開戦前から陸軍は、英国軍などの実績を考え、カーキ色の軍服採用と巻脚絆(ゲートル)、短靴の採用に意欲的だった。開戦直後の1904(明治37)年2月11日には勅令第29号で、これまで白色だった夏服をカーキ色にすることができるとした。編上靴と羊毛製のゲートルの採用も決定し、その標準耐用期間も決めた。原則、軍靴(編上靴)は6ヶ月に一組、巻脚絆は1年で一組、靴下は1か月一組である。もっともこれは「三八式軍靴」に関わる平時における規定にしかすぎない。
 軍靴や背嚢(はいのう)、帯革(たいかく)、弾盒など、軍隊が必要とする牛革は膨大な数になった。肉食中心で、屠殺(とさつ)、皮革処理にも慣れた欧米社会と違って、わが国は牛の飼育頭数もひどく少なかった。
 開戦の1か月後には、当時の韓国から牛皮(塩皮、乾皮)の輸入を始めた。それだけではとても足りないので、食べるために殺した牛の皮を内地に還送するお達しが各部隊に届いた。ところが、この処理の仕方が難しい。なにぶん、そうした技術自体がふつうの兵隊にはろくに知られていなかったのである。
「角、耳、四蹄(してい・ひづめのこと)と尾を切り取れ」とし、革に刃傷(にんじょう)するな、肉片、血液などをしっかり除去し・・・と兵站の糧輸部に送るまでの注意も出た。塩漬けにするときは、塩二升(約3.6リットル)ないし六升(約10.8リットル)を使って、皮の表裏にわたって注意深く撒布(さっぷ)することなどという。塩の調達もたいへんだった。
 
 こうして内地に送られた牛皮も、大きさによって違いもあるが、1頭あたりおよそ編上靴4足をまかなうのがやっと、長靴だと2足分しか取れない。奉天会戦(1905年3月)から1か月後に内地に戻された牛皮は約2万7000にもなったが、それでも編上靴10万足分にしかあたらない。海を越えた野戦軍は100万人にものぼっていたのである。
 革不足のために、内地では背嚢が「帆布製」、靴もズック靴になり、炊事場の兵などには靴の代わりに下駄(げた)が支給された。

泣き所は縫い糸と形

 1909(明治42)年には手縫い式の42式、続いて明治45年にはミシン縫いの45式、さらに満洲事変(1931年)の直前には「改45式編上靴」が制定された。45式は編糸にも補強のために瀝青(れきせい・ピッチ)を塗った。ピッチとはタールを蒸留したものをいう。「改45式」は靴の底の縁を外側に出してミシン縫いする改良を行った。
 この靴底と甲部をつなぐのはミシン糸しかなかったわけだが、一番の破損はそこから起きた。濡れても、乾かす暇も十分になく、過酷は環境下ではすぐに糸は腐り、底が抜けた。第一次世界大戦で湿気と疫病に苦しんだ欧米軍は、ゴム製の化学接着剤を開発したが、わが陸軍にはそのゆとりがなかった。大東亜戦争でも各地で悲劇は起きた。倒れた敵から、その装備を奪うとき、すぐに靴に目がいったと体験者はいう。米英軍の靴は頑丈で、破損も少なく、防湿性にも優れていた。
 装備品はその国の工業レベルを残酷なまでに反映する。たかが軍靴の接着剤の優劣が、戦場の兵士達の戦闘力を左右する。たかがで済まなかったのが軍靴だった。
 サイズは昔の単位で「十文~十三文」だった。一文は約2.4センチだから、用意されたのは24センチから31.2センチ。まずまずのラインナップだった。しかし、西洋直輸入の木型(きがた)を元に製作した軍靴である。
 その木型が十分な研究をされて作られたかというとそうではなかった。なにぶん、「靴を足に合わせるのではなく、足を靴に合わせる」のが軍隊だった。入営するまで、下駄や藁ぞうり、長距離では草鞋(わらじ)などで暮らしてきたわが軍の新兵さんである。硬い皮の軍靴はマメの温床になった。
 当初の軍靴が西欧人の足型に合った靴だったことに疑いはない。いわゆる「百姓足」、つま先は広がり、足指の間は十分広い。甲が高い。登山する人は重い装備品や携行品を背負う。そのために厚底の靴を履くが、同じように重い荷物を背負っても軍靴の底は薄くて硬かった。ある戦場体験者は、「敵とぶつかる前に、すでに戦力の3割は消耗していた」と語った。
 
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(令和元年(2019年)6月19日配信)