陸軍小火器史(3) ―ミニエー銃とゲベール銃(3)
長州藩、ライフル銃隊に負ける
関門海峡の東口は周防灘(すおうなだ)の西の端になる。下関(山口県)側の串崎(くしざき)と門司(福岡県北九州市)側の部崎(へざき)を結ぶ線である。海峡はそこから南西に向けて幅が狭くなってゆく。もっとも狭くなる場所は「早鞆(はやとも)の瀬戸」と呼ばれる、幅がおよそ650メートルの部分になる。現在はそこに関門大橋がかかっている。
ふつうに「大瀬戸・小瀬戸」というのは、この大橋を境にしている。「大」の方は、西半分であり南西方向に下ってゆき、彦島(ひこしま)の南で鋭角状態で反転する。そこから北西に向かう。「小」は今は一部が埋め立てられ、橋もかかっていて、彦島も「孤島」にはなっていない。
この海峡の潮の流れは速い。東流は最大で毎時8.5ノット(時速約15.7キロ)、西流は同じく6.5ノット(同前12キロ)だから、ちょっとした川である。しかも1日に4度も潮の向きが変わる。そして、海峡は風の通路にもなる。瀬戸内海の周防灘へ、北九州沖の響灘(ひびきなだ)の海風が吹き抜けて、温かい空気、冷たい空気がぶつかるので、濃い海霧が発生する。
1864(元治元)年8月5日の午後、17隻の艦隊が東から海峡に侵攻してきた。前年の砲撃事件への報復攻撃である。英国軍艦9隻、オランダ同4隻、フランス同3隻、アメリカの武装商船1隻という大艦隊だった。旗艦は英国海軍ユリアラス、午後3時には同艦のマストに戦闘旗があがった。艦砲射撃が始まり、前田、壇ノ浦の両砲台が応戦したが、射程が短く、一方的に叩かれた。長州藩軍の球形弾丸はむなしく海面に水柱をあげるだけだった。
台場では胸壁も崩れ、砲も被弾した。前田台場はすぐに沈黙するしかなかった。そこへ、人員殺傷用の榴弾が飛んできた。とても耐えられない。守備兵は後退するしかなかった。夕刻、陸戦隊が上陸してきた。頭をあげれば小銃で狙撃される。敵兵は薄暮に乗じて上陸してきた。砲のすべてを使用不能にして引き揚げていった。
翌日6日のことである。海峡は濃霧。潮流も逆転したので、艦隊の隊列は乱れた。英仏の2艦が衝突し、動きがとれなかったところを壇ノ浦砲台が直撃弾を与えた。すると、艦隊側は上陸を企てて陸戦隊があがってくる。
「弓隊も箭先(やさき)をそろえて射ると、それにあたって倒れる者もいて、敵兵は算を乱した。されど、夷狄(いてき・西洋人のこと)は生来として屈しない。先陣が崩れれば、第2陣がラッパの合図で交代する。第2陣が敗れれば第3陣が進んでくる。隊形を入れ替え、入れ替えして進んでくることが速い。敵味方の銃戦は激しく、いつ終わるとも思えなかったが、そのうち敵兵は前田川の中を姿勢を低くして進み、急に起ちあがり味方の側面に一斉射撃を浴びせてきた。不意をつかれ、潰走しそうになった」
長州藩兵は18名が戦死、負傷者29名が出た。4か国側は死者12名、負傷者も50名を数えた。死傷者数の合計では日本47名、艦隊側62名である。薩英戦争も数字だけ見れば決して、完全な負けとは見えないだろう。現に薩摩側では勝った、勝ったという人もいたのである。ただそれは天候のおかげで、敵の陸戦隊や海兵隊が上陸してこなかったおかげだった。刀や槍や和銃では、ミニエー・ライフルに立ち向かうことはできなかったのだ。
長州は誰もが負けを認めた。8月7日、8日と敵兵はまた上陸してきた。各砲台から砲を撤去し、しかも運び去ってしまったのだ。長州兵はそれを指をくわえて見ているしかなかった。攘夷など夢もまた夢だった。実際に戦ってみると、刀や槍には弱かったはずの異国人は遠くからライフル銃でこちらを撃ってくる。こちらの射程外から大きな砲弾を撃ち込んできた。実地に撃たれて、攘夷論を唱える者はほとんどいなくなった。
長州藩、軍制改革に大村益次郎を登用
長州藩は内部で不一致があった。幕府恭順派と過激派の戦いである。最終的に実権を握ったのは、奇兵隊をはじめとする「諸隊」をもつ過激派だった。
この1864(元治元)年の12月、過激派リーダーの高杉晋作が藩当局への反乱を起こした。高杉は藩では中士クラスの大番組の出身だった。諸隊の一つ、遊撃隊を率いて藩の役所を襲って、金と兵糧を奪う。続いて三田尻(みたじり・山口県防府市)で藩海軍の軍艦癸亥丸(きがいまる)を占拠した。他の諸隊も伊佐(いさ・山口県美祢市)に集結して決起の構えをとった。
これを鎮撫(ちんぶ)するために派遣された藩軍の先鋒は保守派の子弟の「選鋒隊」である。身分意識は当然、高かった。百姓町民あがりの諸隊など、自分たちとまともに戦えるとは思っていなかったのである。
藩の政庁がある日本海側の城下町萩(はぎ)と瀬戸内海側の山口の間には、カルスト地形や鍾乳洞が有名な秋吉台が広がる。その台地の東に絵堂(えどう)という地名がある。いまは美祢市の一部になる。当時は村である。
1865(元治2)年1月6日の深夜に、奇兵隊以下諸隊の兵約100名が、絵堂村に宿営中の選鋒隊に奇襲をかけた。突然の射撃に400余りの武士たちは動揺した。すでに奇襲を受けたことで心理的な衝撃は大きかった。たまらず敗走する。その後を追って諸隊は追撃した。各地で選鋒隊を撃破し、萩に迫っていったのである。
2月末、とうとう改革急進派すなわち過激派が政権を握った。武力を背景にしたクーデターである。和銃とゲベール銃の差だった、保守的な身分意識と実力重視の上昇志向の差だとも言っていい。井上聞多(いのうえ・もんた、のちに馨・かおる)、高杉晋作など、急進派リーダーの罪は許され、彼らの施策が次々と実行されることになった。
井上は1836(天保6)年の生まれ、1860年に藩主の小姓役に就く。62年には高杉らと英国公使館を襲撃するなど過激派として活動した。このときは諸隊の1つ、鴻城隊(こうじょうたい)長だった。
3月13日には、村田蔵六(大村益次郎)が防禦掛兼兵学校用掛に任じられ、兵制を大変革するようになった。これまで有志の集団だった諸隊は藩軍の正規兵となる。諸隊は御盾(みたて)、鴻城(こうじょう)、遊撃、南園(なんえん)、膺懲(ようちょう)、奇兵、八幡(はちまん)、第二奇兵、集義、荻野(おぎの)の10個隊、総人員1500名とされた。
ついでだから、当時の歩兵戦闘のあり方を伝えるこの諸隊の編制を書いておこう。指揮官は後世では隊長というが、当時は「総管(そうかん)」または「総督(そうとく)」という。副指揮官は「軍監(ぐんかん)」とし、隊を2分するときは総督と軍監がそれぞれ半分を率いる。
隊本部の要員には諸差引方(しょさしひきかた)、書記、稽古掛、会計方、器械方、斥候があった。差引方といえば庶務を扱う准士官のこと、近代軍隊の仕組みによく似ている。書記は戦闘記録や功績をあつかう曹長にあたる。稽古掛は訓練掛曹長で、それに経理部員、兵器部員がいて、偵察隊もいたわけである。
「数伍(ただし1伍の人数は等しくない。およそ30人で伍とした)をもって小隊とした(ただし小隊中の伍数も一定しない)。数個小隊で1隊とした。伍には「伍長」がいて、副指揮官を「押伍(おうご)」という」(防長回天史)。
たしかに一覧を見ると、鴻城(こうじょう)隊は100名、遊撃隊は250名、奇兵隊は375名、荻野隊は50名といった具合である。
改革にあたった大村益次郎(おおむら・ますじろう)は、もとは領内の百姓医師のせがれだったが、大坂の「適々齋塾」の塾頭をつとめた。そこでの猛烈な語学教育の様子は、後輩にあたる福澤諭吉の記述などでわかる。医学よりも、むしろオランダ語の翻訳能力で評価を高めて諸藩に請われて仕官した者が多い。大村という苗字は、当時の士族階級のならいで、領内にあった荘園名などの由緒ある地名によったという。
武器商人グラバー
幕府は第2次長州征伐を企画していた。政権を握った桂小五郎(かつら・こごろう)は長崎に井上聞多と伊藤俊輔(いとうしゅんすけ・のちに博文)を派遣した。幕府は長州に兵器を売ることを禁じていたから、薩摩藩の名をかたった。仲介者は土佐藩脱藩の坂本龍馬と中岡慎太郎(なかおか・しんたろう)である。坂本は有名な貿易商社「海援隊」の長であり、中岡は「陸援隊長」だった。2人してのちに京都でテロに倒れた悲劇は有名である。
英国商人トマス・グラバー(1838~1911年)はスコットランド生まれ、上海(シャンハイ)からやってきた。1862(文久2)年に商会を設立し、当初は茶再製場を経営して日本茶の輸出に力を入れた。1864(元治)年に大手商社ジャーディン・マジソン商会から資金を借り入れ、武器、兵器の輸入に取り組んだ。
井上と伊藤はグラバーとの話し合いを順調に進め、蒸気船1隻、小銃7300挺を購入する契約を結んだ。この船と銃は8月26日までに無事に長州藩に引き渡された。木造蒸気船のユニオンは代金を7万ドル(ただし、3万9000両と見積もった)、小銃はミニエー銃4300挺、ゲベール銃3000挺である。ミニエー銃は1挺あたり価格18両、ゲベールは5両で合計の代金は9万2400両だった。この幕末の貨幣の現在価値との換算は難しいが、インフレのために1両4万円としたら、ミニエー・ライフルは72万円、ゲベールは20万円にあたる。
ミニエー銃の銃種は明らかではない。ただ、当時もっとも多く見られるのは英国軍が1853年に制式化したエンフィールド銃である。わが国ではなまって「エンピール銃」と読んだ。もちろん、発火機構は雷管を使う。値段にはこうした付加品や銃剣、手入れ用具なども含まれていたのだろう。
いったいこの資金はどこから・・・と考えたら、実は長州藩庁はすでに1865(慶応元)年4月に藩内の士卒に対して『火縄銃や鎧・兜は売り払って』ライフル銃を年賦で買うようにという触れを出していた。藩政府が買ったものをすぐに軍隊構成員に転売するという仕組みだった。また、豪農や篤志家にはゲベール銃も売ることになっていた。動員体制も考えていたのだ。第一線部隊には新鋭ミニエー銃、後方部隊には旧式ながら雷管式のゲベール銃と計画してあったのだ。ただし、最初の支払い金は藩主の手元金だったという。
エンピール銃
慶応義塾大学の創始者、福澤諭吉(ふくざわ・ゆきち、1835~1901年)は豊前中津藩(大分県中津市・奥平家)の下士の家に生まれたが、のちに幕臣になった。得意の英語力を生かして、軍事に関する文献も多く翻訳した。そのうちの1冊が『雷銃操法(らいじゅうそうほう)』である。表紙には慶應二年、すなわち1864年12月の日付がついている。岩波書店の昭和34(1959)年復刻の「福澤諭吉全集・第2巻」で読むことができる。
興味深いのは「雷銃」ことエンフィールド銃の「最低弾道高」である。当たり前のことだが、銃口から出た弾丸は決して直進しない。引力のおかげで当然、下にさがってゆく。だから、銃身最後部にはリア・サイト(火縄銃でも目当てなどという)、現在では照門(しょうもん)といわれるように覗き穴式の照準具がある銃もあり、銃口近くにはフロント・サイトといわれる照星(しょうせい)がある。
のちの小銃になると、この後ろの照門は高さが変えられるようになっている。このエンフィールド銃では、ローマ字のMのようなリア・サイト、同じくAのようなフロント・サイトがついていた。
説明をしやすく、後世の銃の構造で説明する。遠くを狙うにはリア・サイトを高くする。そこを通して的を見るから、遠くになるほど銃口は上を向く。弾丸は山なりに飛んで行って照準した点に命中する。照準線(目と狙った的を結んだ直線)は弾丸が実際に飛ぶ道筋と2度交差することになる。1度目は銃口を出た瞬間、2度目は狙った的の場所である。
このときの弾丸が飛ぶ道のりを「弾道」というが、山なりに飛ぶとき、地上から最も近い高さを「最低弾道高」という。『雷銃操法』にもそれが書かれている。
1ヤードとは3フィートをいう。1フィートとは12インチだから、2.54センチ×12で約30.48センチメートルになる。したがって1ヤードはこの3倍、91.44センチになる。
100ヤード(約91.44メートル)の的を狙うと、4.5フィート(137.16センチ)である。200ヤードだと、これが5フィート(152.4センチ)、300ヤードなら7フィート(213.36センチ)、肉眼で敵歩兵を識別して撃てる限界である500ヤード(約460メートル)に届かせると14フィート(約427センチ)にもなってしまう。
当時、敵騎兵のシルエットは8.5フィート(約260センチ)、同じく歩兵は6フィート(183センチ)とされていた。指揮官が敵との距離を正確に測って、「敵との距離、200ヤード!」と号令する。部下の兵士が照尺(照門の高さを合わせて)を正しく合わせ、敵兵の足首を狙って撃つ。敵が200ヤード以内にいれば、弾丸は最高でも約152センチにしか達しないから、敵兵は中腰の姿勢でも必ず身体のどこかに当たってしまう。ただし、エンフィールド銃の時代は照尺がついていないので、照星、照門の重ね方を訓練の末に会得させたようだ。
集団で射撃しないで散開した戦闘の場合、2人が1組になった。1人だけが射撃する。もう1人は弾着を観測し、射撃済みの銃に次発を装?し、距離の修正を報告する。これは現在の狙撃兵も同じような行動をとっている。射手の視界はたいへん狭い。観測手は目標を指示し、同時に測距を補助し、より大きな視野で周囲を監視する。
興味深いのは、発射するときの心得である。現代語に直してみよう。「銃の台尻(床尾)を肩のくぼみに強く押しつけて、筒の振動を押さえなくてはならない。自分の銃は絶対に大丈夫なものと思い、少しも臆(おく)することなくして、放発(発射)すれば必ず手際(てぎわ)良い射撃ができる」
恐ろしかったのは反動だろう。100メートルあまりしか飛ばない火縄銃とはひどく違って、100ヤード、200ヤード、300ヤードも狙えるのだ。だから両手と肩の3点保持で反動をしっかり受け止めるのが洋銃である。何より恐れるべきは銃の振動だった。ぶれてしまったら弾丸は狙ったところには飛んでいかない。また、その装薬の爆発音は十分に恐ろしいものだった。銃が壊れたら、この銃身が裂けたら、機関部が割れたら、想像するだけで恐ろしい。まさに自分の銃こそ大丈夫と信じなかったら、「雷銃」を撃つことなどできなかった。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(2018年(平成30年)11月21日配信)