陸軍小火器史(23) ─小さな迫撃砲「八九式重擲弾筒」ー

十一年式曲射歩兵砲

 十年式擲弾筒が開発されたころ、歩兵は十一年式曲射歩兵砲という口径70ミリの軽迫撃砲を装備していた。第一次世界大戦の教訓から生まれた塹壕戦用の、山なりの砲弾を撃ちだす火砲である。この砲弾は英語ではボム(BOMB)と表記された。ほぼ垂直に落下する迫撃砲弾は着発信管の場合は、水平方向に破片を飛ばした。
 曲射砲の重量は63キログラムで、施条された砲身をもっていた。迫撃砲のように砲口から砲弾を落下させると砲弾底の装薬に点火するといった方式(墜発式という)ではなかった。装填して、拉縄(りゅうじょう)を引いて撃針で叩く。装薬を収めた弾底部分がガスで膨張する。それがライフルに食い込むといった、昔のミニエー銃弾のようなものである。しっかりした木と鉄でできた底板があり、高低、左右も照準を精密にできるものだった。ちなみに火砲の引鉄をひく縄のことを陸軍では「りゅうじょう」といった。しかし、元々「拉」には「ラツ」、「ラフ」といった読み方しかない。「りゅう」とは陸軍だけで使われた言葉だろう。
 なお、迫撃砲というのは名称通り砲兵があつかうものである。曲射歩兵砲は命名どおり歩兵が装備する重火器だった。砲身を傾けて遠近の照準をつける他に、撃針覆(げきしんおおい)という部分を上下させることで、薬室の容積を変えて射撃距離を調整できた。最大射程は1550メートルである。運搬は長方形の底板の長辺に提棍(ていこん)という棒をつけて2名で持ち上げた。この機能をなるべく変えずに、1人で持てないかと考えたのが89式重擲弾筒だったのだ。

八八式榴弾を撃つ重擲弾筒

 制式化は八九式だから皇紀2589(1929)年だが、生産は1932(昭和7)年からである。この制式化から「重」擲弾筒(ジュウテキ)といわれ、これまでの10年式擲弾筒は軽擲(ケイテキ)と呼ばれるようになった。どちらも手榴弾を撃つことができるが、重擲は専用の八八式榴弾を撃つこともできた(弾薬箱には八九式という表記もある。八九式重擲で撃つから誤認しないようにという配慮だろうか)。
 この榴弾は全長148ミリ、直径は49.5ミリで黒く塗られている。真鍮製の瞬発信管、弾体、銅でできた装薬部と3つに分けられる。信管は高さが34ミリ、底部の直径が25.5ミリで3段構造になっていた。先端は鉄製の衝撃用信管で固いものに当たると内部の炸薬を起爆する。次に擲弾筒からの発射時に、その加速度が与える衝撃で外れる安全装置、そして一番下が針金の安全栓になり、長めの水色の紐が付いている。
 3グラムの装薬が充填された部分は幅が20ミリだが、銅の部分は16ミリ、底部の中心には雷管がつき、その周りには直径4.5ミリの穴が8つ開いている。ここからガスが噴射され飛ばすようになっていた。全重量は880グラム、炸薬はTNT火薬150グラムが充填されている。この威力は大きく、半径10メートルに被害が及んだ。炸薬量はふつうの攻撃型手榴弾のおよそ3倍である。
 距離の指定は指揮官が行なった。射手は命令に従い、筒身(長さ248ミリ)の下にある「整度器」を回す。方向を示すのは筒身の上に引かれた赤い直線である。狙いをつけたら、筒を正確に45度に傾ける。須川氏によれば、守備兵が玉砕したアッツ島で筒身に45度がわかる水平儀をつけた遺品があったという。筒の傾きが一定であれば、あとは装薬の量を変えること、あるいは薬室の容積を変えることで射程を調整することができる。重擲弾筒は後者の方法で射距離の大小を変えた。
 整度器は回すことで内部の「撃針覆(げきしんおおい)」を上下した。筒内の容積を変えることで射出力を変えて飛距離を調整するためだ。筒身を45度に左手で支えて、右手で引鉄を引く。発射速度は1分間で10発、右手にもった榴弾の安全栓を口でくわえて引き、右手で装填、続いて引鉄を引くことになる。これに専用の弾手がいた場合、20発を1分間で撃てたという。

重擲弾筒の要目

 1932(昭和7)年に450挺が造られた。1938(昭和13)年までには年平均2700挺くらいのペースで生産されたが、39年には1万3738挺、40年が2万1827挺、41年は1万9412挺と動員が進むにつれて生産数も増えている。須永氏の推計によると、43年にも2万挺近くが造られ、総合計で12万挺くらいが生産された。
 全長は608ミリで、軽擲弾筒の525ミリより長い。筒身長は248ミリで軽擲より8ミリ長いだけだが、筒内にはライフルが切ってある。筒の下の柄桿(へいかん)に取り付ける駐板(ちゅうはん)は幅90ミリ(軽は50ミリ)、長さ200ミリ(同165ミリ)だから軽擲と比べるとその大型化と見た目の頑丈さもすぐに分かる。重さは小銃よりはるかに重い4700グラムもあったから、擲弾筒手はたいへんだった。
 戦後の伝説に米軍はこれを「ニー・モーター(膝射ち迫撃砲)」と呼んで、駐板が曲がっているのでそこを腿にあてて発射して怪我をしたという伝説がある。曲がっているのは、反動を吸収すべき地面が軟弱なった場合、木などを挟むための工夫だった。反動は決して人体で受け止めるようなものではなかった。

「主要教訓及び対策」から

「わが死傷の8割は手榴弾によるものだ」と歩兵学校では指摘している。中国兵の突撃はわが軍の陣地前方30メートルあまりに近付いて一斉に手榴弾を投げ、引き揚げていくというものである。あるいは市街戦では、建物の屋上から手榴弾を投げ落すという戦いをした。中国兵の多くはドイツ製の柄付き手榴弾を投げてきた。
 手榴弾と擲弾の違いは何か。英語ではハンド・グレネードとグレネードである。榴弾というのは軍用で、破片と衝撃で目標物を破壊するものをいう。手榴弾はハンディタイプのグレネード、手で投げるグレネードという意味で名称は付けられた。これに対して擲弾は「擲」に「ほおる」という読みがあるように「投げる・発射する」という意味に重点がある。どちらも投げるのは同じだろうと思うが、手榴弾は投げずにその場で爆発させることもできる。仕掛け爆弾の代わりにも使えるのだ。これに対して、擲弾は必ず投射することが前提になっている。ほかにも小銃で撃つものをライフル・グレネード、擲弾銃といわれる擲弾専用発射銃をグレネード・ランチャー、日本の擲弾筒はグレネード・ディスチャージャーと訳している。
 歩兵学校の要望が興味深い。「優良な手榴弾を開発してくれ。擲弾筒でも撃てるというような配慮は要らない」というように、投擲専門の手榴弾を現場は待っていた。それなのに、中央はまだ擲弾筒でも撃てるという手榴弾を開発している。それが九一式手榴弾というのだが、現場の部隊は八八式榴弾で敵を撃つことに効果があると主張していた。
 八九式重擲弾筒はつるべ撃ちで大きな効果をあげた。2筒、もしくは3筒を並べて、次々と射撃した。この事実は米軍の記録にも残る。たとえば米軍の軍事情報部によると部隊への通報である。
「日本軍砲兵はジャングルでも正面の歩兵線を支援するため、後方に位置する。そのほうが側面も撃てるし、歩兵の攻撃の2次支援もできるからだ。それがジャングル戦ではそれができない。高く伸びた樹木の上をかわしながら撃たねばならないし、歩兵の進出時間がジャングルのために予測できないからだ。ところが、日本軍は進撃する歩兵の近接支援火力を発揮するために、側面に砲兵を配置するようになった。味方歩兵のわずか50ヤード(47.5メートル)前方に火力を投じることができるようになっている」
 これは正確にいえば砲兵ではない。小型迫撃砲である重擲弾筒のことだろう。歩兵といっしょにジャングルを進む砲兵、それは買いかぶりというものだ。

戦場の重擲弾筒

 米軍の南方戦線の記録によると、「日本軍は防御陣地を追われた場合、即座に逆襲に出ることになっている。50ミリ擲弾筒(グレネード・ディスチャージャー)の弾雨とともに行なわれるが、高度に組織化されることも、大兵力で行なわれることもない」という。重擲弾筒の弾雨、連続射撃のめった撃ちである。その飛翔と、着弾、爆発の間、アメリカ兵は頭を上げることができなかった。さらに携帯式の軽機、生き残った重機の射撃が加わる。この間隙をぬっての突撃が日本軍の採れた唯一の行動だった。
 30メートルあまりで手榴弾を投げ、その爆発と同時に突っ込むしかない。当然、アメリカ軍の軽機関銃も黙っているわけがなかった。勇敢な機関銃手はどちらにもいたのだ。有名な「バンザイ突撃」はただの自殺的行動ではなかったのである。
 重擲弾筒は3人で運用した。それぞれが榴弾を18発運んだ。その重さは14.4キログラムにもなった。歩兵小隊には軽機と同数が装備された。1個聯隊の定数は63門になるが、硫黄島などでは増加装備として2倍近い配当を受けたともいう。もともとは対ソ連戦用に大陸での使用が意図されていた。日本軍の教範でも、それが明らかにされ、突撃前に射撃し、着弾と同時に敵陣に突入するための攻撃用兵器だった。それが南方戦線で意外な効力を発揮した。見通しのきかないジャングルで、高く撃ちあげて近距離の敵を撃つ。大型砲を持ちこめない地形で人力で持ち運ぶ重擲弾筒の集中運用はまさに日本軍だけが行なったことだった。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(2019年(平成31年)4月17日配信)