陸軍小火器史(7) ―小銃弾薬の発達(その4)

レバー・アクションとリム・ファイア

 南北戦争の始まった年(1861年)である。この夏、ワシントンでは20歳の青年が持ち込んだ連発式の後装ライフル銃がトライアルを受けていた。ホワイトハウスではリンカーン大統領までがこの銃を試射している。結果、この青年クリストファー・スペンサーは、現在までも銃砲史に名を残した。
 弾丸口径は0.56インチ、すなわち約14.2ミリで、リム・ファイアといわれる発火形式だった。リムというのは薬莢の直径より少し大きな周囲の縁(ふち)のことである。そこに発火薬(雷汞:らいこう)が仕込まれていて、そのどこでも打撃すれば爆発する。だから撃鉄は機関部の右側にあった。現在のように、金属薬莢の底部の中央に雷管を埋め込んで、それを打撃するセンター・ファイア実包が開発されたのは1866年のことだった。だから、このスペンサー銃が使ったのは1857年に開発されたリム・ファイア弾というわけだ。
 連発の秘密は銃床の中にあった。床尾板の装?孔(そうてんこう)から7発の金属製実包を詰めた弾薬筒を込めたあとに、コイル・スプリングを内蔵した鋼製の弾倉管(だんそうかん)を差し込んで実包を固定した。その後に、引鉄の用心鉄(トリガー・ガード)を兼ねたレバー(アンダー・レバーという)を操作して撃発、排莢して次々と薬室に弾丸を送り込んだ。
 弾丸はコイル・スプリングによって押し出された。日本での形式名称は「底碪(ていがん)式」という。「碪」は「きぬた」という意味で、布を木槌(きずち)で打って光沢を出すときに下敷きにした木や石の台のことをいった。レバーを下に押し下げることで、尾槽(びそう)内にあった底碪が下がって薬室が開いた。そこへ弾薬(カートリッジ)が送り込まれた。
 銃身の長さによって歩兵銃と騎兵銃(カービン)に分けられる。合衆国軍(北軍)によって、カービンが7万7181挺、歩兵銃は1万2471挺が買い上げられたというが、実際は非公式に取り引きされたものも、もっとあったらしい(岩堂憲人『世界銃砲史』)。
 この連発銃をわが国で最初に、1867年に導入したのは佐賀藩だった。南北戦争が終わって、欧米では銃器、銃弾、装備品が大量に余ることになった。買い手はどこにいるか。政情不安で、各地に武装勢力が存在する所である。今も昔も変わらない。そこへもってきて、先人たちは「大の鉄炮好き」といっていい。欧米のどこの商人にとっても、わが国の諸大名家は最高のお得意さんだった。
 なかでも佐賀鍋島家は諸大名家のなかでも火力充実に熱心であり、1861年にはミニエー弾を使うエンフィールド・ライフルと、のちにその破壊力で有名になる後装のアームストロング砲を長崎のグラバー商会から購入していた。64年には歩兵戦闘法も英国式銃陣を採用する。これは64年に3000挺のミニエー銃をグラバー商会から買った薩摩藩より3年も早かった。
 このスペンサー銃を佐賀鍋島家では、1867年に当時の金額では1挺37ドル80セントで購入した(『図解古銃事典』)。総額で11万3400ドルである。佐賀藩の熱意と富裕さがよくわかる。幕末の両やドルの交換レートも複雑で、正確なことは分かりにくいが、1ドルが銀45匁(1両の4分の3)で概算すると、28両あまり。これまた1両が現在の4万円くらいと考えれば、110万円余りの高価格の銃である。
 同時にアメリカ製レミントン小銃も500挺買い入れたという。これはスペンサー銃と同じく底碪式になるが、用心鉄がレバーにはならない。銃尾の下側に薬室の閉鎖を行なう枢軸がある。機関部は撃鉄と底碪でできている。
 スペンサー騎兵銃はNHKの大河ドラマ『八重の桜』の中に登場した。山本八重子(1845~1932年、のちに新島襄と結婚する)が会津籠城戦で使ったことが有名である。彼女は藩の砲術指南役の家に生まれ、兄の覚馬(かくま・1828~92年)から洋銃射撃の訓練を受けた。籠城戦では薩摩軍の後装スナイドル単発銃との撃ち合いで、その速射性を見せていた。おそらく兄が個人的に購入した銃だったのだろう。
 ただ、このレバー・アクションという形式は軍用小銃には普及しなかった。地面に伏せた時には操作がしにくく、強力な発射薬は構造上採用しにくい。ただ、この後、ウィンチェスターM73のように一般人が使う軽便なライフル銃や、猟銃に使われた。西部の開拓史などの映画には、拳銃弾と同じ口径45インチ(11.4ミリ)を使うこのライフル銃がよく見られる。

ボルト・アクションの登場

 1866(慶応2)年12月のことである。幕府の命運もあと1年となった。ただ、誰もがそんなことを思ってもいなかった。幕府の軍制改革担当者たちも、良かれと思って、懸命の努力をしていた。そこへびっくりするようなプレゼントが届いた。フランスのナポレオンⅢ世(1852年即位)は当時のフランス陸軍の制式銃であるシャスポー・ライフル(chasepot rifle)を2個聯隊分も送ってくれたのだ。その数は2000挺という。
 口径は11ミリ、全長は1300ミリ、重量は4キログラム、螺状腔綫(らじょうこうせん、ライフリングのこと)4条、フランス制式なので照尺の単位はメートルである。発射機構は「回転鎖閂式(かいてんさせんしき)」という。「閂」とは「かんぬき」のことである。ボルト・アクションのことをいう。槓杆(こうかん)回転式と書かれることもある。
 円筒状の遊底についた槓杆(ボルト・ハンドルのこと)を左右に回転させて駐定(ちゅうてい)を解いて、鎖体(さたい)を後退させて銃尾を開く。また槓杆を前に動かして回転させて銃尾の閉鎖を行なった。まさに門や扉の「かんぬき」そのものである。後世の13年式、18年式、30年式騎兵・歩兵銃、38年式同、99式小銃でも使われた。現在の狙撃銃や競技用ライフルも同じ機構を使っている。いわば、完成された、もうこれ以上、改良が不能な銃尾機構だった。

プロシャのドライゼ銃(紙製弾薬筒)

 ボルト・アクションの機構そのものは、1841年にプロシャの技術者ヨハン・ニコラウス・ドライゼが開発した。同時に、固い紙で銃弾、発射薬、雷管を包んだ薬莢をつくった。引鉄を落とせば、ボルト(遊底)に内蔵された長い針(ニードル・needl)が紙薬莢の底部を突き破って雷管を突いた。このシステムを使ったドライゼ銃の紙製薬莢は、なかなか複雑なつくりのものだった。上から弾丸、サボ(ワッズ)、雷管、発射薬の順になる。サボは卵のような形をしたすぼまった弾丸の下部を支えるもので、その中に雷管があった。
 自由に動く遊底の中には撃鉄、撃針(げきしん)、コイル・スプリング、抽筒子(ちゅうとうし、エキストラクター)、安全子(安全装置)が組み込まれていた。撃針は弾薬筒の中の発射薬を貫いて、弾丸底部の雷汞を撃って発火させるために、抵抗が少なくなるよう細い針だった。おかげでそれは破損しやすく、欠点の一つに数えられた。
 照尺は伸縮型で400メートルから1200メートルまで、100メートルごとに分画(ぶんかく)があった。400メートル以下は固定照門である。弾丸についてさらに詳しく述べると、弾丸径は口径より小さく、弾丸の尾部を包んでいる固い覆いが銃腔内のライフルに噛みついて銃弾に回転を与えるようになっていた。わが国にも当然もちこまれ、ツンナール銃、火針銃などと呼ばれた。
 わが国で多く使われたのはプロシャ製の1862年式ドライゼ歩兵銃である。口径15ミリ、全長1340ミリ、重量は5キロと重く、照尺は1000メートルのものが多かった。他に口径が12.6ミリ、同14ミリ、同14.5ミリのものが輸入された。長く使われ、西南戦争(1877年)でも使われた。

フランス式伝習

 幕府陸軍フランス式伝習隊がシャスポー銃を使って訓練されたこと、鳥羽伏見の戦闘に参加したことは歴史学界では長い間、「まぼろし」とされてきた。
 その理由の第一は、「優秀装備の新政府軍」と「劣等装備の前近代的旧幕府軍」という思い込みがあったからだろう。少し前まで、歴史学者たちはそういう解釈を続けてきた。彼らの多くが奉じる「進歩史観」によれば旧い体制はすべて劣るものばかりで、新体制のものはすべての面で進歩していなければならなかったからだ。
 第二は、研究者たちの多くが兵器そのものに悪意ある無視をすることが、自分たちの知性の証しだと思っていたからだ。軍事組織やそこに所属した人々にも偏見をもちつづけていたからである。ある銃砲史の専門家とされる学者は、自身が学校教練にも出ず、実銃を撃ったこともないと誇らしく書いた。そればかりか、戦後、中国に招かれ人民解放軍の兵営で「気持ちよく過ごし、楽しく銃を撃った」ことをとくとくと自著で明らかにしている。
 幕府はフランス陸軍に援助を求めた。歩兵大尉シャルル・シャノアーヌ(1835~1915年)以下15名の教官団を迎えた(シャノワンという表記もある)。来日したのは1867(慶応3)年の1月だった。訓練はそれまでの横浜太田陣屋(横浜市中区)から、4月には教官団の意見によって江戸府内で行なわれるようになった。このシャノアーヌ大尉は一流の軍人であり、のちに1898年にはフランス共和国の陸軍大臣も務めたほどである。どこの先進国も後進国の肩入れする政権には優れた人材を送る。
 野口武彦氏も紹介されているが、『陸軍歴史』に彼の幕閣への建言が載っている(『幕府歩兵隊』中公新書)。幕府士官候補生、兵卒の素養や、幕府が所蔵する銃器への言及がある。それによると、兵士、とりわけ歩兵は歩くことに慣れ、筋骨が発達している者がよい。「山野草莽(さんやそうもう)中に生長した者」がふさわしく、都会に育った幕府旗本や御家人は向いていない。すぐに疲れたと不平をもらす。命令に対して従順ではなく、苦痛に対して弱いという。当時のプライドばかり高い武士たちはフランス人には大不評である。
 また、幕府保有の小銃4万2775挺(しかも、生産年代も形式もバラバラ)のうち大多数は手入れもされていないから、実戦に使えるようなものではないともいう。そして、きちんと実地に検証していないから、それらがどれほどの射程があるのかも分からない。歩兵が火力戦を行なう時に、銃の性能がバラバラでは役に立たない。
 さらに大切な兵士の「練体法(れんたいほう)」についても提言している。身体を労役することを嫌い、屈伸が自由にできず、動作が不活発な人を軍人にするには「体育訓練」が重要だという。どうやら訓練所では次のようなことを、大の大人にやらせていたのである。
(1)号令をかけて頭を左右に振らせ、上下に振らせる。
(2)手をふり回しながら走らせる。
(3)後ろ向きに走らせる。
(4)片足で走らせる。
(5)手をつながせて走らせ、膝で進ませ、互いに手を引っ張り合う。
(6)高いところから飛び降りさせる。
 現在でいえば、小学校低学年が体育の授業で行なうことばかりである。今の子供は、たいていが幼稚園や保育園で運動時間にこれらに慣らされている。それらを陸軍士官になろうと志した青少年にやらせたのがフランス式伝習でもあった。

伝習隊とシャスポー銃

 この伝習隊の指揮を執ったのは、のちに脱走函館政権でも要職を務めた大鳥圭介(おおとり・けいすけ)である。1833年に兵庫県の医師の家に生まれ、1852年には大坂の緒方洪庵の塾で蘭学を学び、語学の才を生かして西洋兵学書を読破し、伊豆韮山(にらやま)代官の推挙を得て幕臣となった。1864年に歩兵指図役(中尉)、翌年に頭取(大尉)すぐに歩兵頭(大佐)と昇任をつづけ、フランス伝習隊の指揮官になった。
 このときの兵員の募集法が興味深い。大鳥は函館で降伏後、服役し、のちに官僚になったくらいである。自伝を書き遺している。そこで、伝習隊の兵卒は大男をそろえたという。意訳すると、以下の通りである。
「1大隊は兵数800人あまりで、歩兵頭並(少佐)になって2大隊の長になった。わたしはいつも屯所(とんしょ=兵営)に出勤し、毎日訓練を行ない、付属の士官はいまのように大尉が幾人、少尉が幾人というようにそれらを指揮したが、その中隊なり小隊なりの教官は旗本の子弟であって、兵卒は府下無頼(ぶらい)の徒を募集した」
 士官を教官という言い方をする。つまり軍隊の日常は教育訓練であり、戦闘技術を教え、訓練し、有事には指揮官となって士官は戦うのである。この伝習隊の士官は、志願した旗本御家人の2・3男が多かったようだ。家を継ぐ長男以外は、他家の養子(婿入り)になるか、親が「株を買って、さむらいの身分」を得るしかない。新しい陸軍の士官になれば、それなりに体面が保てるというものだ。ただ、だからといって、彼らが無能だったか。決してそうではなかったことが、次回以降の「戦場の小銃戦闘」の記録をみればよく分かる。
 兵卒が「府下無頼の徒」というのはどういう意味だったか。実は熊さんや八さん、大家に横町のご隠居さんという、のどかな落語の世界だけが江戸庶民の暮らしだったわけではない。江戸の平民人口は約50万人、その半分がその日暮らしの貧民だった。そのうちのけっこうな数を占めたのが武家奉公人や火消(ひけし)や鳶(とび)である。
 幕府政治も中期以降、武家の家計は火の車になった。物価の上昇があっても、先祖以来の俸禄が増えるわけではない。それでいて、有事の「軍役(ぐんやく)」が廃止になったわけでもなければ、格式相当の登城や外出の供揃えが縮小されたこともなかった。大名が江戸城にあがり、将軍家に挨拶する。そのとき、駕籠をかつぎ、はさみ箱をもつのは大多数がその日だけの雇いだった。
 地方から食えずに江戸に来る、まともな職業に就けず、身体が健康なら、まず「人宿(ひとやど)」、「口入屋(くちいれや)」に籍を置いた。人材派遣業者というのが今風の言い方になるだろう。
 幕末の混乱で、大名の参勤交代も廃止され、「その日暮らしの大男」たちは一斉に失業してしまったのだ。
「強敵にあたるには、募集の方法を変えねばならない。そのころ市中にいる馬丁(ばてい)、陸尺(りくしゃく・かごかき)などは参勤交代廃止後には無職で、市中でぶらぶらして悪いことばかりして仕方がない。見世物小屋を壊しにいったり、芝居小屋には暴れにいったりして、町人たちはひどく迷惑をしている。あれも集めればいいだろうと、消防夫(しょうぼうふ・火消人足)または博徒(ばくと・ばくち打ち)なども集めた」
 体格の検査をして、身長5尺2寸以上を採用とした。つまりおよそ158センチ以上を合格としたから、現在の陸自男子隊員の合格基準(155センチ以上)より厳しい。正確な記録は残っていないが、当時の男性の平均はほぼ5尺そこそこ。見上げるような大男ばかりがそろった。その数は2000人ばかりにもなったという。「動物じゃないんだから話せば分かる」と統率を気にする人には答えた。
 そうして猛訓練が始まった。散兵戦術、銃を抱えて走る、伏せる、射撃準備をする。一糸乱れず、号令のもとに行動する団体行動。小銃は後装式のシャスポー銃である。装?も立って行なう必要はない。伏せた姿勢で槓杆を操作し、次々と発射することができる。ドジを踏めば体罰である。いまと違って、乱暴された、パワハラだと苦情を言う者もいない。飯が食えて、寝るところもある。野外でごろ寝をしようと、同じ苦しみを乗り越えた仲間がいる。兵士たちの士気はあがっていた。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(2018年(平成30年)12月19日配信)