陸軍小火器史(12) 国産小銃の誕生─村田式歩兵銃・騎兵銃
御親兵と鎮台
1871(明治4)年2月、太政官は「御親兵(ごしんぺい)」を創設する。鹿児島(薩摩)、山口(長州)、高知(土佐)の3つの藩からの兵力を集めた。これがおよそ9個大隊、6000名になる(8000名とする資料もある)。この御親兵は、翌年、「近衛(このえ)」と律令体制由来の名称に改められた。続いて4月には東山道(本営は現宮城県石巻)、西海道(本営現福岡県小倉)に「鎮台(ちんだい)」を置くことにした。この武力を背景に廃藩置県が行なわれる(7月)。
8月には鎮台は東京、大阪、鎮西(ちんぜい)、東北の4つに増えた。それぞれ本営は東京、大阪、熊本、仙台に置かれる。このとき各藩軍は解散させられ、志願者を選び、各鎮台に配当することにした。これを「徴兵(ちょうへい)」と区別して「壮兵(そうへい)」という。合計歩兵20個大隊と砲兵隊その他である。
興味深いのはその配属の工夫だった。幕末以来、各藩独自の制度は異なっていた。藩軍ごとに兵制も、教育も、その装備は異なっている。たとえば、御三家の1つ紀州和歌山藩はドイツ式である。肥前国佐賀藩はイギリス式、長門山口藩はフランス式、何より旧幕府(静岡藩)はフランス式だった。このため、鎮台ごとに各藩そのままの編制で、大隊にして繰り入れることになった。なお、このときの鎮台とは管理上の区分けである。
たとえば東京鎮台を見てみよう。東京の本営には1番大隊、これは旧幕府陸軍将兵である。食禄から離れた旧幕府旗本御家人の中には新陸軍に身を投じた人もいた。また、徳川宗家が静岡70万石に移封されて独自にもっていた軍隊もある。沼津兵学寮などをもち、そこではフランス式の士官教育もしていた。2番大隊も同じく旧幕府陸軍で、これは仙台分営に派遣された。
8番大隊は新潟県新発田(しばた)の東京鎮台分営に置かれ、ここには地元の新発田藩(溝口家)、庄内藩(酒田家)、富山藩(前田家)の混成である。9番大隊も本営の東京配置だが、これは旧佐賀藩兵で(一部は長野県上田分営へ派遣)、14番大隊は鳥取藩兵(池田家)が東京にやってきた。同じく東京に配された15番大隊は紀州和歌山藩兵であり、17番大隊は弘前、米沢、広島の3藩の混成だった。大阪鎮台名古屋分営は6番大隊で、地元徳川尾張家と近辺の藩兵、美濃大垣藩、伊勢津藩である。
1872(明治5)年11月には『徴兵の詔勅』が下り、翌1月から徴兵令が発布され、歩・騎・砲・工・輜重兵ごとの常備軍部隊に新しい兵隊が入営するようになった。軍制も改正され、全国を、東京・仙台・名古屋・大阪・広島・熊本の6軍管に分けて、各軍管に鎮台をおいた。これが日清戦争を戦う近衛も含めた7個師団の始まりとなった。
「銃豪」ムラタ少佐
村田経芳(むらた・つねよし、1838~1921年)は薩摩の城下士として生まれた。幼いころは病弱であった。少年になってから射撃に開眼し研究を続け、藩では後装式の小銃開発に打ちこんだ。幕末、鳥羽の戦い(1868年)には小銃小隊長として参加、その後各地を転戦し、有能な指揮官でもあることも示した。帰郷、凱旋してからは鹿児島藩軍の教育・訓練に多くの貢献をした。剣の達人を剣豪というが、彼の評伝を書かれた東郷隆氏にならって「銃豪」の尊称をささげたい。
村田も大尉として任用される。ちなみに西郷隆盛にかわいがられた中村半次郎(桐野利秋)は少将、大山巌は大佐だった。このときの階級付与には、幕末の志士活動(つまり謀略・諜報活動)などが評価されていたとみえる。つまり、実戦上での村田の活躍はさほど評価されなかったのだろう。
村田はフランス製のシャスポー銃を高く評価し、1874(明治6)年には『斜式6年型歩兵銃』を開発する。シャスポー銃を改良し、やや軽量化したものである。機関部のシステムは十分に使用に耐え、その国産化にも不安はなかったが、発条(バネ)と銃身用の鋼材には自信がもてなかった。
村田は軍の制式銃を一定(統一)することに大変熱心だった。西欧軍隊の強さの秘密の一つにはその小銃の教育訓練、射撃統制、使用弾薬の統一、そのおかげの補給の容易さがあると見てとっていたのである。戊辰戦争での村田の実戦体験もそれを裏付けた。相手にした旧幕府軍、奥羽越列藩同盟、箱館政府軍、いずれも使う小銃は統一がとれていなかった。射程も違えば、弾丸の互換性もなく、敵の不手際はよく目立った。
ひるがえって、新しい軍隊はどうか。1872(明治5)年、兵部省が海・陸軍省に分かれた。『銃砲取締規則』を太政官は出した。銃と弾丸の民間による製造を禁じた。ただし、前時代の流れから猟銃の所持は自由となっていた。江戸時代から、農山村では害獣駆除のために火縄銃の保有はなんの問題もなかったからである。提出された小銃の機関部には県名とシリアルナンバーが刻まれた。この処分を干支でいう壬申の年であったことから『壬申刻印(じんしんこくいん)』という。
1873(明治6)年には村田は東京の兵学寮付きになる。兵学寮はのちの士官学校である。続いて射的学校(小銃の射撃・訓練・研究をする、のちの戸山学校)付になり、国産小銃の開発に打ちこんだ。徴兵令が発布された。74年2月に佐賀で反乱が起こった。
佐賀の乱は、征韓論(せいかんろん)が容れられずに参議を辞職した江藤新平(えとう・しんぺい、1834~1874年)が旧佐賀藩の不平士族にかつがれて武力蜂起をした事件である。このとき、不平士族軍は3000人といわれ、その多くが洋式銃をもっていた。ただ、幕末にあれほど新鋭装備をもっていた佐賀藩だったが、この時期ではほとんどが政府に献納された後だったこともあって、装備は中古の前装エンフィールド銃がほとんどだったらしい。それでも政府軍のスナイドル銃とよく撃ち合い、政府は何度も損耗を補うために銃を輸入した。
村田は少佐に進み、東京鎮台付(ちんだいづき)から戸山学校付になり、幕府や土佐藩がもっていたシャスポー銃の改造に取り組んだ(造兵司兼務)。このころ、小石川の造兵司にはフランス軍のルボン大尉がきて、18万挺以上の外国銃を使えるもの、使えないものへの分類作業をしていた。
1875(明治8)年1月、村田は欧州へ旅立った。そこで各国の射撃大会に参加し、いずれでも優秀な成績をあげた。欧州小銃事情についての情報収集と、参考品の買い付けが任務だった。同時に多くの独・仏・英・スイスなどの各国の小銃射撃訓練も視察できた。
『村田銃発明談』などから、彼が実際に射撃をしてきた欧州陸軍の小銃をあげてみよう。
オランダ軍ボーモン銃(1871年式口径11ミリ回転鎖閂式)、フランス軍グラア銃(1874年式11ミリ回転鎖閂式)、英国ではウィットオース小銃(1867年式口径11.5ミリ前装施条式)、ヘンリーマルチニー小銃(1874年式口径12.5ミリ底碪式)、メッドフォード式小銃(試作銃)、スイスではマンソー小銃(口径10.5ミリ銃尾開閉式)、ヴェッテルリー小銃(口径15ミリ銃身偏出式)。これらスイス製の小銃はいずれも外装雷管式である。ヴェッイェルリーは銃身を回転し、薬室を開ける型式で「偏出」と名付けられた。
ドイツではドライゼ小銃(1870年式口径15.43ミリ回転鎖閂式)と同1871年式口径11ミリの金属薬莢仕様のものである。
村田銃(十三年式)の開発
このころ各国では小銃の改良が盛んだった。普仏戦争(プロシャ・フランスとの戦争)は1870年から71年に行なわれ、プロシャが圧勝した。両軍ともに後装式のシャスポー(フランス)とドライゼ(プロシャ)を使っての戦闘があった。1866年型シャスポーの11ミリの弾丸は、ドライゼの15.43ミリ弾よりも小口径なのに射程が長く、密集体型をとっていたプロシャ軍歩兵に大きな損害を与えた。
わが国は小口径でありながら初速が高く、射程の長い11ミリ口径の小銃を採用することを決めた。このとき、戦争に勝った方のプロシャを崇拝するあまり、なんでもドイツ式に替えたという誤解がある。ただ、こと小銃に関していえばそれは違った。ドイツ軍の強さはクルップ製の野砲の性能と運用が勝っていたことによる。
小口径であることは、金属薬莢の重さを含めても、大口径よりずっと軽くできる。兵卒が携帯する時にもより多くの弾丸がもてる。鉛の弾丸に混ぜる錫(すず)の量も減るので省資源にもなった。弾丸の全長は30.5ミリ、重量は27グラムだった。薬莢の全長は59.8ミリ、重さは12グラムであり、これに装薬が5.3グラム入った。実包の全体は78ミリ、重量は約46グラムである(以下、数字は須川薫雄『日本の軍用銃』による)。初速は419メートル/秒というものだった。
黒色火薬を銃口からそそぎ、球形の鉛弾をつきこんで火縄で点火する時代は300年続いた。わが国では銃器の進歩はとまっていた。その間にヨーロッパでは多くの革新が行なわれた。それがわずか20年そこそこで、金属薬莢を使い、椎の実形の弾丸を後ろからこめる小銃を使えるようになった。銃豪村田をはじめ、多くの先人たちの努力には脱帽するしかない。
閉鎖機構はフランスのグラア1874年型小銃の鎖閂(させん)の型式を取り入れ、撃発のバネは多くの外国製小銃のようなコイル・バネではなく、オランダのボーモン(ビューモン)1871年型小銃のV字形の松葉バネを使った。毛抜きの形を想像すればよい。これは列国のように高品質なコイル・スプリングを安価に造れなかったのである。素材開発も、鍛造の技術も遅れていたため、今ではボールペンのノック式などでおなじみの小さな、しかし重要な部品が造れなかった。その結果の工夫である。
装てんの操作はグラア銃と同じく、回転鎖閂式で右に倒れている槓杆(こうかん)を上に立てる。槓杆の中にはV字形の撃針を動かすバネが仕込まれている。後ろに引いて遊底を開ける。そこに実包を入れて、槓杆を前に押し、右に下げれば、すでに槓杆が立った時に撃発ができるようになっているので、あとは狙いをつけて引鉄を引けばいい。
銃身は後世の6.5ミリの弾丸を使う38年式などと比べると、やはり11ミリの弾丸のおかげでがっしりと太い印象がある。照準については、銃口近くの照星と、後部の照門・表尺をつかう。写真を見れば分かるが、表尺の位置はかなり前にある。銃身後部から15センチも前になる。100メートルの射程なら後部のV型照門をそのまま使う。
全長は1290ミリで重量は3900グラムである。フランス製のシャスポー銃の全長は1300ミリ、重量は4010グラム、グラア銃の全長はやはり1300ミリ、重量は4200グラムだから、村田銃はずいぶんと軽量化されている。当時の兵士たちの体格を考慮したものだろう。
十三年式小銃の銃剣は、シャスポー小銃のそれとよく似ている。シャスポー銃剣は『兵器廠保管参考兵器沿革書』によれば、剣身が先の方で湾曲した「ヤタガン式(トルコ刀型)」の全長710ミリである。ただし、その湾曲はエンフィールド銃剣より少なく見える。前装のときの装てんに便利なように湾曲させたという説が正しいなら、シャスポー銃も後装式になった以上、改良されるべきだっただろう。ただ、装備の改変は小国の陸軍ならいざ知らず、英・仏・独・露のような100万も兵士を動員する大陸軍国にはたいへん難しいことだった。
十三年式銃剣は全長708ミリ、直刀である。装着は銃身と銃右側の前環の台座を使う。つまり銃身からみて90度、横に着けることになる。なお、この頃にも戸山学校ではフランス式銃剣格闘術の研究や伝習が行なわれていた。重量は革製の鞘を除くと790グラムだった。
十八年式への小改良
徴兵検査で身長合格基準は、当初、5尺1寸つまり154.5センチとしていた。この数字は全国で壮丁(そうてい、20歳の徴兵検査受験者)にあたる者をひそかに調査した結果であるとか、壮兵(旧藩軍兵からの志願者)の平均からみたものなどの説がある。しかし、すぐに5尺に改められた。151.5センチである。また、4尺9寸(約148.5センチ)でも歩兵として採用されたともいう。
そういう兵士たちが、欧州の兵卒がもつ小銃と同じものを使ったのである。村田は再度の欧州視察(1882年)後に、十三年式の軽量化を考えた。だが、完成された小銃の諸元を変更、しかも重量を軽減するのはたいへんなことである。一番有効なのは銃身を短くすることだが、銃身長は火薬が十分に燃焼する時間を考えての結果だから、短くすればそれだけ弾丸の速度は落ちるし、反動も大きくなってしまう。
とはいえ、村田は全長をわずかに15ミリ短くした。重量は100グラム軽くなり、銃剣装着用の台座と銃口の距離が変わった。銃剣はずいぶん短くした。全長は580ミリとなり、重量は240グラムが減らされ、着剣したときの重さは確実に減ることになった。また、安全上の配慮から薬室上部にガス抜きの穴が2か所空けられている。分解も簡単にできるようにし、槓杆の前方についていたストッパーも省略した。使用弾薬も改良し、銃口初速が速くもなった。
十三年式は生産総数が約6万挺、これを短くした十六年式騎兵銃が約1万挺といわれる。十八年式は歩兵銃8万挺が生産された。騎兵銃は造られなかった。1886(明治19)年には近衛とすべての鎮台の歩兵と工兵に村田銃がいきわたった。騎兵は何をもたされていたかといえば、幕末以来のスペンサー騎兵銃である。砲兵の自衛用や輜重兵にはスタール単発騎兵銃(アメリカ製、レバーアクション、口径14ミリ、全長960ミリ)やマルチニー騎兵銃(アメリカ製、銃尾開閉型、口径12.5ミリ、全長980ミリ)などの輸入兵器が支給されていた。
この村田銃を手にして、わが先人たちは日清戦争(1894~95年)を戦った。相手にした清軍は雑多な小銃を用意していた。各国の輸入小銃があり、中には最新式のドイツ製マウザー連発小銃などもあった。すでに無煙火薬を使った小銃、しかも弾倉に工夫がされて、ボルトアクションの連発銃も珍しくはなかった。
しかし、どこの戦場でも、わが村田銃は兵士たちの最良の友となった。故障が少なく、大陸の厳寒期の中でも確実に作動した機関部、山毛欅(ぶな)や胡桃(くるみ)の銃床も狂うことが少なかった。ただし、日清戦争の勝利は、射撃戦やましてや銃剣を振り回しての白兵戦などではなかったことは明らかである。清国軍の士気を失わせ、次々と敗走させたのは、わが砲兵の活躍だった。
近代国民国家と村田銃
軍用小銃を国産技術で統一し、その生産、補給、整備を行なったことには、当時大きな意義があった。村田は自らこの小銃の取り扱い説明書や射撃法の教範を書いた。その用語は銃身や銃床、撃茎(げきけい)、発条(はつじょう)などの難しい漢語が満載である。後世の軍隊体験者の知識人(インテリ)がバカにして語った。「小銃の台尻(だいじり)の端の鉄板といえばいいのに、わざわざ『ショウビハン(床尾鈑)』といわせ、暗記できないと殴った」。その通りだろう。軍隊用語は、そのほとんどが翻訳語だった。庶民の日常語からはひどくかけ離れた特別の言葉だったのだ。
しかし、当時の先人たちは何とかして西欧に追いつかねばならなかった。ふだんの暮らしの文化の遺産である日常語では、言い表せない言葉が多かったのだ。村田銃の分解には最後には、螺子(らし、ネジのこと)を外すために転螺器(てんらき、ドライバーのこと)を必要とした。暮らしの中にない道具には、新しい言葉で新しい名称を付けなければならない。螺子も弦巻発条(つるまきはつじょう、コイルスプリングのこと)も、庶民の日常生活にはないものだったのだ。
当時の識字率も低い、一般から集めた兵卒に、操作、分解、結合、拭浄(しょくじょう、ふき清めること)を教え、その複雑なシステムから始まり、行為の意味も教え、意義を知らせるようにした。それを通じて、近代的な社会人を創ろうともしたのである。「兵隊屋敷」は大きな学校だった。また、初めて小銃の遊底の上に、菊花の皇室御紋章を刻印したのも村田銃からである。これは欧州各国、それぞれの王家の紋章を入れたのと同じだった。
おそらく村田が意図したのは兵器への尊重心だっただろう。幕末・戊辰の役、佐賀の乱でも西南戦争でも、目立ったのは遺棄兵器である。壮兵だろうと徴兵だろうと、いざ、潰走するときにはすぐに兵器や装備を捨ててしまった。それはいわば「あてがいの道具」であって、国家の財産という意識が育っていないことを表した。これが後になって行き過ぎると、「陛下からお預かりした兵器を死んでも手放すな」という本末転倒な意識の形成に役だってしまったことは否定できない。しかし、村田の願いはそんなものではなかったと思う。
次回はいよいよ無煙火薬の発明、採用と22年式連発銃の解説をしよう。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(2019年(平成31年)1月30日配信)