陸軍小火器史(13) ─時代の制約の中で完成した「村田連発銃」―

爆薬と火薬

 爆薬と火薬とはまったく原理が異なる。TNT(トリニトロトルエン)などの爆薬はその働きを爆轟(ばくごう、detonation)という。木炭・硝石・硫黄を混ぜてつくられた黒色火薬はその燃え方は爆燃(ばくねん、deflagration)といわれる。
 2つの違いはそれぞれの爆速(ばくそく、velocity of explosion)による。爆燃とは木炭や薪のように、火薬がだんだんと燃え伝わってゆくことをいう。その速度は毎秒およそ200メートルから300メートルである。現在でも、ふつうに使われている導火線は毎秒1センチメートルくらいで燃え進む。
 これに対して、爆轟は、爆薬の塊の中を秒速数千メートルの衝撃波が走る。このおかげで爆薬の分子構造がゆさぶられて反応を起こす。だからTNTやダイナマイトは火をつけるだけでは爆発しない。ただ燃えるだけである。これらの爆薬には雷管をつけて、雷管が爆発する衝撃で爆轟させる必要がある。
 弾丸の発射薬に使われた黒色火薬は、丈夫な密閉容器にあたる銃身の中で点火された。密閉が必要なのは圧力を高めるためである。後装式になって銃尾の閉鎖機構の開発・強化に工夫が凝らされたのはここに理由がある。金属薬莢の実用化は、火薬ガスを閉塞(へいそく)することと銃腔内の圧力を高めることに大きく貢献した。紙製薬莢の場合、どうしても後部へのガス漏れをなくせなかった。薄い金属(真鍮)の薬莢は自身も膨張することで、ぴったりと薬室に貼りつき、ガス漏れを防いだ。
 発射薬の燃焼速度は粒が大きいほどゆっくり燃えて(緩燃・かんねんという)、小さいほど速く燃えるようになる(速燃・そくねんという)。後装式になり、銃身に施条されるようになると、銃腔(じゅうこう)を弾丸が通り抜けるときの抵抗が大きくなった。弾丸は重く、ライフルにこすりつけられながら進む。その摩擦が大きくなるからだ。だから、燃焼速度はゆっくりであることが望ましい。
 また銃身が長いほど、火薬の燃焼ガスが銃弾を押すことが時間でも距離でも長くなる。結果、弾丸速度は上がる。この弾速(だんそく)は速いほど遠くに飛ぶが、同じ速度で発射すると重い弾丸の方が空気の抵抗を押し分けて遠くに届く。弾丸は太くて、短い方が細長い銃弾よりも飛翔距離が長くなる。
 
 しかし、同時に長い銃身は内部の圧力を下げてしまう。弾丸が銃腔内を通る時には大きな摩擦抵抗がかかる。その摩擦に打ち勝って弾丸を加速させるには十分な圧力がなくてはならない。圧力がなくなれば弾丸はそれ以上加速しない。この理屈から小銃銃身の長さは決定される。これを「学理腔長(がくりこうちょう)」という。現在でも700~800ミリが多い。
 これらのことからも、小銃の設計、製造がいかに面倒なものか理解できるだろう。十分な弾速が必要なのは、弾丸をなるべく真っすぐ飛ばさねばならないからだ。地球に重力がある以上、重さをもつ弾丸は当然、下に向かって落ちてゆく。遠くを狙うには銃を上向きにして撃つが、弾丸は山なりにカーブするから途中ではかなり高いところを飛ぶ。この高さをなるべく低くするようにする。左右の照準が正しくても、上下に外れては何もならないからだ。このためにも強力な火薬は必要だった。

無煙火薬の採用

 1845年頃(46年という資料もある)、ドイツの人シェーンバインが木綿を硝酸と硫酸とを混ぜた混酸で処理した「綿薬(めんやく)」を合成した。実験すると、黒色火薬の3倍の貫通力を見せた。なんといっても燃焼圧力が強かった。当時の技術では、砲を壊すことさえあった。爆発事故も続き、英仏両国では採用をしなかった。
 さまざまな試行錯誤があり、事故も多かったが、この危険な綿薬を膠(にかわ)や脂肪、ワックスなどの爆発しない物質で固めることに成功した。ドイツでは1865年、オーストリアでは1871年のことである。
 フランスのポール・ヴィエイユは1884(明治17)年に溶剤にエーテルとアルコールで綿薬を膠化(こうか)することに成功した。この綿薬は窒素量13.2~13.4%の強綿薬と、同じく11.3~12.6%の弱綿薬を混ぜたものである。この強綿薬はエーテル・アルコールに溶けず、弱綿薬はよく溶けた。強弱をそれぞれ7:3で混ぜると一部が溶けないので膠化成型性が高まった。これを圧縮ロールの中を通して高密度で均質な薄板状に伸ばす。四角に切断して乾燥させ溶剤を蒸発させると餅のようになった。綿薬だけを主剤としているので、これをシングル・ベース火薬ともいう(86年にフランス陸軍はこれを採用した)。
 わが国では同年に欧州視察に出かけた大山巌は、フランスからこの火薬を提供された。初めて見て、白い粉末であることに驚いたという。帰国すると、これをすぐに分析に回した。「弱性の綿火薬を適量配合して、エーテルとアルコールの混合溶剤で膠化したもの」であることを確認した。そうして88(明治21)年には少量の試作に成功した。わが国で本格的に無煙火薬の製造が始まるのは93(明治26)年、ドイツから火薬用綿薬と無煙火薬製造装置一式が到着してからになる。翌年4月から陸軍板橋火薬製造所(現東京都北区十条駐屯地)は稼働することになった。

連発銃の流行

 無煙火薬を発射薬(装薬)に使うことで小銃開発者たちには明るい未来が生まれた。弾道をできるだけ低伸(ていしん)させるには弾丸速度を速くするしかない。それには口径を減らすか、装薬量を増やすしかなかった。しかし、口径を減らせば打撃力は減少する。貫通力は小さくなるし、遠距離では横風の影響が大きくなる。
 では火薬を増やせばどうかというと、機関部や銃全体を頑丈に造ることが必要になり、そうなると歩兵が携行する小火器としての重量制限が問題になる。また発射反動の大きさも問題になってくる。
 それらを解決してくれたのが強力な無煙火薬だった。少量でも大きな弾速が得られる。口径を小さくすれば銃は軽量化できる。肩への反動を少なくして弾丸の低伸性が向上する。フランスはただちに1886(明治19)年に8ミリ口径のレベル小銃を採用した。前の制式銃であるシャスポーからすると3ミリも弾丸口径を減らすことができた。世界でも初めての軍用小口径連発小銃だった。この銃の登場で世界中の軍用小銃はすべて時代遅れになってしまったといっていい。
 この小銃はさらに8連発という特徴をもっていた。銃身の下に管弾倉(チューブ・マガジン)といわれる仕組みがあった。93年に一部が改良されるが、銃身長は800ミリ、重量が4.28キログラム、弾丸はしかも鉛の弾頭を薄い金属で覆った被甲弾だった。ただし、連発といっても自動装てん、引鉄を引けば次々と次弾が撃てるという意味ではない。昔の陸軍式にいえば連装である。槓杆を引くことで、弾丸をいちいち込めなくても空薬莢は排出され、次弾が薬室に送り込まれるという意味の連発である。
 これにすぐ反応したのが隣国のドイツである。88(明治21)年には口径7.92ミリ、5連発のマウザー(わが国では明治以来モーゼルと読まれている)Gew88を制式化した。この小銃は5連発で、尾筒(びとう、遊底直下)内の固定弾倉に5発を装てんすることができた。薬莢は射撃後に薬室から引き出しやすいようにリム(縁)がついている。このリムをまとめるように挿弾子(そうだんし)といわれる薄い金属製のクリップがあり、5発を縦に並べていた。
 このとき、日本陸軍はやはり無煙火薬を使った小口径連発銃の採用を決めた。全軍の装備を18年式村田銃に更新することが終わってもいない頃である。88(明治21)年1月には審査委員会が選ばれ、年内には3次試験までが実施されていた。前例もない急ぎ方である。それは清帝国の軍備拡張を警戒してのことだった。清帝国はドイツ商社から、次々と新装備を買いこんでいた。北洋海軍の増強、当時最大最強だった鎮遠・定遠を始めとして、クルップ社製の火砲、小火器も手に入れていたのである。

村田連発銃─精緻な仕組みと戦場

 村田経芳が設計した前床管弾倉の8ミリ連発小銃を「村田連発銃」という。制式化名には22年式という言葉はつかない。年式がつくのは有坂成章(ありさか・なりあきら)が設計した「三十年式小銃・騎兵銃」からである。
 急いで造ったためだっただろう。オーストリアのステアー社製のクロパチェック1886年型小銃(口径11ミリ)とポルトガル軍が採用したその口径8ミリのバージョンが参考とされた。モデルとなった小銃の全長は1320ミリであり、22年式連発銃の要目は次の通りである。
 全長1215ミリ、銃身長746ミリ、重量4.10キログラム。槓杆で操作するが、撃発には13年式や18年式の松葉型バネではなく、コイル・スプリングを採用している。特徴的な管弾倉(チューブマガジン)は武器学校展示銃でもよく保存されている。管の素材は真鍮である。銃口まで続いているので、まるで銃身が2本あるように見える。レバーアクションのウィンチェスターM73と同じである。
 槓杆を引いて遊底を開けて、尾筒の右下にある小さな「搬筒匙軸転把(はんとうしじくてんぱ)」を90度上げると、搬筒匙(後部に支点がある鉄板の板)が押し下げられる。すると銃身下部の穴が出てくる。そこへ実包を1発ずつこめることになる。実包は前進するがスプリングが内蔵されているので、実包数が増えるほど力が必要である。
 万一、前方の実包の底部にある雷管を刺激しないよう、弾丸はずいぶんラウンド・ノーズ(蛋形、たんけい)である。つまり尖っていない。錫が混ぜられた鉛の上に銅で被甲されている。鉛を露出していると弾丸回転が乱れ、弾道が安定しないからである。この実包は全長が74.5ミリ、重量30.7グラム、薬莢長は52.5ミリ、弾丸の長さは30ミリ、重量は15.6グラム、装薬量は2.2グラムだった。13年式や18年式の口径11ミリ弾と比べると、46グラムから30.7グラムに軽量化した。弾丸重量も27グラムから15.6グラムと半分近い減量である。装薬量も5.3グラムから2.2グラムだからやはり半分以下になった。このことは狙い通り、歩兵の携行する弾数を増やせることにつながった。
 銃剣も小型化された。また銃身の右横ではなく、銃身の下に装着することになった。全長は前期型で354ミリ、剣身長278ミリ、柄長67ミリ、重量430グラムだった。これはのちの太平洋戦争も通じて使われた30年式銃剣と比べると、全長525ミリに対して約67%、剣身長でも約70%、重量でも約62%と全体では3分の2ということになる。装着法は鐔(つば)の環状の穴を銃身に通し、銃の下部にある「銃剣止(じゅうけんどめ)」という凸型の部品に剣柄の上部にある溝をはめこむ。この方法は世界標準であり、現用の軍用小銃も変わらない。

実際には単発だったか

 部品の精度と素材の質の悪さが泣き所だった。村田連発銃の採用した、精緻ともいえるような連発システムは多くの事故を起こした。軍用銃の大量生産は19世紀の初めころに、ドイツのような伝統的なマイスター(親方職人)のないアメリカ合衆国で始まった。それは一言でいえば、削り出し加工(ミーリング)による「互換性のある部品(インターチェンジャブル・パーツ)」の製造である。同じ設計図や仕様書で造られた部品なら、どれを選ぼうと同じ性能、機能を発揮するということだ。そこではフライス盤やタレット旋盤といった工作機械の性能が問題になる。
 明治日本、いや昭和戦前期、あるいは昭和30年代までのわが国は、そうした工業技術基盤がたいへん劣っていたのだ。そのことは先人たちも十分に理解していた。1932(昭和7)年の陸軍省が一般向けに発行していたパンフレットにも、「ある町で買った時計が、隣町で修理ができない。メーカーから取り寄せた部品が合わないという国が、先進国と対等に戦えるわけがない」と書いてある。
 村田連発銃の複雑精緻な装てんシステムは、戦場でたちまち欠陥をみせた。現場では当然のことだが、手入れが悪く、乱暴に槓杆を操作すると、たちまち弾丸の供給システムが故障した。次の弾丸がひっかかり、薬室で動かなくなってしまった。また弾倉内の8発を撃ちつくすと、再装てんには大変な時間がかかったという。また弾倉内のコイルスプリングが弱く、長い間8発を詰めておくと反発力が弱ったという記録もある。
 しかし、8発の弾丸をすべて射ちつくすような事態は起きたのだろうか。兵頭二十八氏も指摘しているように、この連発銃はツマミの切り替えで、単発にもできたのだ。搬筒匙軸転把を水平にすれば、管弾倉による給弾を止めることができる。槓杆をひいて、1発ずつ装てんすることによって、18年式と同じ発射速度は実現できた。また、3発撃ったら、その数だけ再装てんすることはできたのだ。
 実戦で使われたのは日清戦争(1894~95年)の終わった後の、台湾領収戦争のことだった。大陸の戦闘に参加しなかった近衛師団と第4師団が、この連発銃で戦った。しかし、ここでの記録にはほとんど小銃に関するトラブルは報告されていない。また、19世紀最後の大きな武力紛争だった1900(明治33)年の北清事変でも派遣軍が携帯していったが、故障がそれほど話題になっていなかった。
 時代の限界、制限の中で懸命の努力がされた証人がこの連発銃だった。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(2019年(平成31年)2月6日配信)