陸軍小火器史(28) ─九四式拳銃─大量生産できる国産拳銃の開発ー

醜いといわれた拳銃

 戦後、米軍の調査によるわが兵器への評価はひどく低い。なかでもこの最後の制式拳銃については、「グリップが小さく、フレームが大きい、不格好だ」ということが定説になっている。それだけではない。フレームの外に逆鉤(ぎゃくこう)が露出している。ハンマー(撃鉄)がコックされている状態で、そこに触れると暴発する。「スーサイドナンブ、自殺銃」だというものまである。
 このシアバー(逆鉤)というのは、引鉄の動きを撃茎に伝えるものである。ここに不用意に触ると、引鉄を引かなくても撃発してしまうということだ。戦後の専門家の中にも、これに追随して、あれも悪い、これも悪いという人が多くいた。しかし、それほど私たちの先人は愚かだったのだろうか?
 1924(大正13)年12月、南部麒次郎中将は予備役に編入された。士官候補生第2期生として1889(明治22)年11月に陸軍士官学校入校以来、35年間にわたる陸軍軍人の履歴を終えた。同期生には鈴木孝雄、菅野尚一、森岡守成の各大将がいる。この世代は、日清戦争に中尉、日露戦争には大隊長として出征するなど歴戦者が多い。
 ほぼ2年の後、1927(昭和2)年2月に南部銃製造所を立ち上げる。大倉財閥の大倉喜七郎の経営する会社の中野工場に間借りしてのスタートだった。その後、東京府下国分寺に移転して、年少者用教練小銃や、訓練用軽機関銃などを造った。
 これらの製品は、1926(大正15)年から、文部省管下の中等学校以上には、陸軍現役将校が配属され教育にあたる軍事教練が課せられることになったことから需要に応じて開発された。年少者用小銃というのも、各地域の青年訓練所(夜学の実業補習学校に併設)の教練にも使われたからである。もちろん、空砲や狭搾弾(きょうさくだん)などを使用できるようになっていた。のちにこの会社は昭和製作所、大成工業といっしょに中央工業となり、現在のミネベアにつながってくる。
 1933(昭和8)年、将校用拳銃の開発指示を受け、試作を始める。35(昭和10)年に九四式拳銃として準制式制定を受けた。この後、敗戦までに7万挺が造られた。

開発の裏側

 製造の背景には興味深い話がある。それは陸軍省からの要求事項に載っている。やはり杉浦氏の研究にあるが、「価格は昭和8年4月を基礎とし大量生産において、嚢(ホルスター)を含み50円を超過せざること」という要望がある。これは1931(昭和6)年に金本位制廃止のせいで円が大きく価値を下げてしまったことに関係がある。円とドルの交換レートが、100円=49.8ドル、つまり1ドル2円くらいの見当だったのが、100円=20ドルを割り込む大暴落になった。1ドルが5円になってしまったのである。杉浦氏はこれによって、外国製中小拳銃の価格が暴騰して、将校たちが入手困難になるから値段の安い国産拳銃を開発せよという指示につながったと鋭い指摘をしている。
 1934(昭和9)年度の「動員計画令」によれば、常設師団による出征が17個師団、つまり68個歩兵聯隊である。これに特設乙師団が13個、合計30個師団、120個歩兵聯隊で、これは360個歩兵大隊になる。小銃中隊だけで360×4=1440個になり、中隊は3個小隊だから小銃小隊長の4320人の少尉、中尉がいる。これにフル編成なら1個大隊に3個の機関銃中隊があり、歩兵砲小隊もあった。それらにも指揮官の下級将校がおり、准士官の数も増えてくる。歩兵だけでこれである。動員される人員は143万6116人。将校と准士官がおよそ6%とみても、約8万6000人が拳銃武装して出征することになる。
 予備役将校が動員、応召となると、武装部隊の指揮を執るには刀と拳銃は必須だった。あわてて買いに行った、知人から譲ってもらったという話が残っている。

優れたメカニズム

 94式拳銃の要目を出してみよう。(  )の中は比較のために、14年式拳銃のデータを出しておく。全長は180ミリ(230)、銃身長95ミリ(120)、高さ115ミリ(150)、厚さ23ミリ(27.5)、口径8ミリ(8)、重量720グラム(920)、装弾数6+1(8+1)である。14年式のおよそ8割の大きさになる。実際に構えてみると、グリップはたしかに小さく握りにくいように見えたが、握ってみると手にしっくりする。ふつうの手の大きさの日本人にとっては、ちょうどいいのだろう。
 機構は基本的には14年式と変わらず、反動利用式である。復座バネは銃身の周囲にあり、その上は被筒(前部スライド)で覆われている。薬室への弾の装?は、円筒後部のつまみ(コッキング・ノブ)を引くことで行なわれた。14年式と異なるところは、ストライカー式(撃針が直進する)からハンマー式(撃鉄式)に変更されたことだ。ストライカー式では国産バネの耐久力に問題があったからである。小型化には当然不利だったが、不発も少なく、耐久性にも優れたハンマー式を採用した。
 安全装置はフレームの右側後部にあって、「安全栓及び安全子により逆鉤と引鉄の両方に作用す」と『保存取扱説明書』から須永氏は引用され説明されている。右手親指で操作ができ、手前が「安」で90度前下方に押すと「火」となる。安は安全、火は発火である。弾倉を抜くと引鉄は動かなくなる。よくある事故だが、弾倉を抜いても薬室に弾が残っていることがある。それを忘れて、引鉄を引いてしまう事故を防げた。

悪評価について

 フレームの外に逆鉤(シアバー)が外部に露出していて、その前端を押すと撃発してしまう。これは確かにやってみると、その通りである。しかも、案外軽く触れた程度でガチャッと作動した。これは危ないと確かに思わされた。しかし、安全装置をかけてさえいれば、それは防げる。どうして露出させたかといえば、少しでも厚みを薄くして軽量化し、取り扱いも楽にするためだったのではないか。あの小さなコッキング・ピースを親指と人差し指でつまむ、意外と強力な復座バネの力に逆らって薬室に実包を送りこむ。その後に、安全装置もかけずに小さなシアバーに、わざわざ触るだろうか。
 須永氏も指摘するように、「装?したら必ず安全装置をかけて、ここは触るな」と、うるさく教育しておけば、日本人なら大丈夫だと考えて割り切ったのではないだろうか。アメリカ人から非難が出たのは日米双方の安全教育に対する違いからである。アメリカ人は多様で、能力もさまざまであり、兵器のマニュアルも漫画を使っていたりする。違いがあって当たり前の国民と、言って聞かせればわかるという国民性の相違からきているに違いない。
 当たらないといわれた。少しでも高さを減らすために、照門は高さ1ミリ、照星は座が1ミリで高さが1.5ミリという小さなものである。狙えないなあというのが実感。おそらく実戦場での実態から、5~10メートルくらいで人間に当たればいいという銃なのだろう。そうであるなら、軽くて発射反動も大きいだろうが、なんとか役に立つというものだ。戦場は競技射撃をするところではない。
 兵器の形については全く好みの領域の話である。白兵戦用の兵器として、日本刀は決して良い武器ではなかった。中国軍が持っていたような、柄と刀身が一体化した青龍刀のほうが、強度といい、耐久性といいはるかに上である。日本刀はその構造上、どうしても曲がりやすく、鐔元に無理な力がかかりやすい。柄も割れてしまう事が多い。青龍刀は美しさという点では日本刀に劣るだろうが、実用の武器としてははるかに上である。それでも、陸軍が日本刀を捨てられなかったのはなぜか。武器ではなかったからである。米軍将校がわざわざM1カービンをもち、英軍将校が指揮杖を離さなかったように、日本将校も自分の意思を部下に伝えるために必要だったのである。
 同じように。九四式拳銃も武器であるから、美しい、醜いという評価を下すのはいささかずれているし、偏見に満ちた評価だと思える。

保有の実態

 個人で購入した将校もいただろう。ただ、国産拳銃は高価だった。94式拳銃も、50円から60円、そして70円と値上がりしていった。それに対して外国製拳銃、スペイン製や南米製の拳銃は安かった。FNブローニングM1910は42円、その他でも20円から30円で手に入ったのである。多くの将校や同相当官や准士官が私物の外国製拳銃を持っていたことは武装解除のときの資料などで明らかになっている。
 一般的に航空兵科部隊や機甲科に配付されたとされているが、これまた杉浦氏の精査でそれが案外あてにならないことが分かった。『日本軍の拳銃』(90頁)にある「第二十三軍敗戦時保有拳銃」の表である。第二十三軍は支那派遣軍に属し、敗戦を広東で迎えている。その主力は第104、129、130の3個師団、独立混成第23旅団、独立歩兵第8旅団、同13旅団をその基幹部隊としている。うち、独混23、独歩8、独歩13の各旅団、それに軍直轄部隊、野戦兵器廠にあった拳銃を種類ごとにまとめたものだ。
 実数は総合計が1909挺、実数を書き、(  )内は構成比率の%である。十四年式675(35.4)、二十六年式237(12.4)、九四式166(8.7)、その他831(43.5)という比率になっている。こうしてみると、制式外の外国製、あるいは国産拳銃などが半分近くもあり、九四式はわずかに8.7%でしかない。たしかにすべてを想定することは無理かもしれないが、およその見当がついてくる。
 もともと1937(昭和12)年からの大動員は、予備役幹部の大量生産になった。敗戦時には、現役兵科将校と各部将校だけでも合計数は約4万7000名だった。これに3倍もの約20万3000名の予備役からの召集将校がいた。生産数がとても追いつかなかったのは当然だろう。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(令和元年(2019年)5月22日配信)