陸軍小火器史(25) ─口径7.7ミリの九二式重機関銃ー
お祝い
いよいよ今上陛下が「ご譲位」されることになりました。この記事が「令和」で初めてのものになります。
上皇陛下、上皇后陛下、長い間のおつとめありがとうございました。
お礼
YHさま、ご丁寧なお便りありがとうございました。まさにご指摘の通り、正しい先人達の奮闘、勇戦の様子は敵方の記録にあります。ソ連から見た北方での戦闘の真の姿をお教えくださりありがとうございました。
比較的新しいアメリカの戦争映画(たとえば、アメリカ映画『ハクソーリッジ』)でも、まだまだ自殺的な突撃を行なう先人達と、それを自動火器で撃ちたおすアメリカ兵が描かれています。まだ、そうした「こうであったら良かったのに」というアメリカ人の嗜好が見えてきます(笑)。お互いに正しい歴史像をとらえる必要があるようです。
ついに悲願の増口径化なる
すでに日露戦争時から口径7.62ミリのロシア軍歩兵銃や機関砲に対して、口径6.5ミリのわが機関砲や歩兵銃は評判が悪かった。
軽い弾はどうしても長射程では風に流されるし、敵に与える被害も軽く見えた。事実、人体に対しては致命部に当たらなければ即死することはなく、重い傷を負わせても短い加療期間で戦線に復帰してしまう。
いまから見れば、小口径のほうが弾の重さも軽くなる、補給や輸送にも便利だし、省資源でもあり、射撃の反動も軽いと、いいことばかりだ。しかし、当事者たちにしてみれば、戦場の自分の生死に関わることである。とにかく、威力を増せという要求は高まるばかりだった。
また、重機の増口径化は、軽機の出現と、その発達も見逃せない理由だった。十一年式軽機の有効射程は1500メートルから2000メートルに達した。三年式重機の有効射程は2000メートルから2500メートルとあまり差がなくなってしまった。
第一次世界大戦後の列国の重機は3000メートル余りの射程をもっていた。それ以上の4000メートルあたりは野砲の担当だったから、重機は軽機と異なって、どうしても3000メートル付近に弾幕を張れなくてはならかった。
そうした距離になると、軽量の弾ではどうしても不満が出てしまう。それに普通弾(無垢の鉛に銅をかぶせたもの)だけではなく、相手の装甲を撃ち抜く徹甲弾や、焼夷弾、曳光弾などを造るのに、口径が大きい方が当然、有利になったからだ。
1932(昭和7)年、皇紀2592年に九二式重機関銃は制式化された。もともと大正3年に制式化された三年式重機関銃は頑丈な造りだったから、設計も試作も順調に進んだ。実包は7.7ミリの九二式実包が開発された。このこと、機関銃と専用実包が同時に開発されたことはわが国の機関銃では初めてのことだった。
九二式実包は形状が変わっていた。ドイツやアメリカの実包のように薬室への深入りを防ぐための機構として、薬室のボトルネックで止めるリムレス(無起縁)ではなく、リムで深く入るのを止めるセミ・リムド(半起縁)形式を採っている。これは英国規格のリムド(起縁)薬莢を使う0.303インチ弾(航空機搭載用八九式機関銃用八九式実包)に倣ったからだと兵頭氏は指摘している(『日本の陸軍歩兵兵器』銀河出版、1995年)。
軽機と重機に弾薬互換性がなかった
素人考えでも、同じ戦場にあって、重機、軽機、小銃、ついでに拳銃もまったく同じ実包が使えれば理想的である。ただし、それが実行できたのはソ連軍だけであったかもしれない。たとえば1960年代に大人気だったテレビ映画『コンバット』の米軍歩兵の装備を見てみよう。小隊長のヘンリー少尉はM1カービンをもっていた。この騎兵銃の口径は7.62ミリだけれど軽量で短かったから特別な実包だった。分隊長のサンダース軍曹は口径45の拳銃弾を撃つトンプソン短機関銃、分隊軽機のBARと小銃は7.62ミリの30-06という3種類の実包を支給されなくてはならなかった。7.62ミリが2種類に、拳銃弾。もちろん副武装のガバメント拳銃はトンプソンと同じ。
わが陸軍の場合は、重機、軽機と歩兵銃はほぼ統一され一種とすると、それに拳銃は8ミリとやはり3種類と考えていい。ただ、現地からの証言によると、九二式重機の弾と九九式軽機の弾を比べると口径は同じなのだが別種であり、完全な互換性がなかったという。軽機が使う九九式実包は歩兵銃用と同じリムレス(無起縁)である。薬莢(ケース)底部のリムと外径が同じだったが重機用九二式実包はセミリムド(半起縁)であり、リムはケース底部よりいくらか大きくなっていた。
九九式実包のデータは次の通りである。比較のために( )内に九二式実包の数字をあげる。ただし、九二式は普通実包である。口径7.7ミリ(7.7ミリ)、全長79.4ミリ(80ミリ)、重量27グラム(27.15グラム)、薬莢長57.8ミリ(58ミリ)、縁径12ミリ(13ミリ)、弾丸重量11.8グラム(13.1グラム)、装薬量2.8グラム(2.85グラム)。
九二式重機関銃は保弾板に九九式小銃や、同軽機関銃の実包を使えた。しかし、逆は出来なかったのである。この弾薬体系の乱れの実態については興味深い記録がある。岩堂憲人氏の『機関銃・機関砲』(1982年、サンケイ出版)に載っている。ビルマ方面で戦った人たちの談話である。
「うちの中隊は九二式重機でした。ところが小銃は内地を出て以来の三八式、重機の弾薬はアッという間に消耗し、景気よく鳴っていたのは最初のうちだけでした。頼りになるのは、ほそぼそと空中投下される手榴弾だけで、それも敵さんの手に入るのが多くて逆にこっちに投げ込まれる始末でした。ええ、重機はすぐ分解して埋めてしまいました」
「九二重機に小銃弾を使えるのですが、なんとしても焼きつきが多いんです。空薬莢が銃身に残ってしまう。そうなるといちいち分解して銃口から突きださなきゃならない。大騒ぎでした。わたしは軽機でしたけど、補給されてくるのは、全部といっていいほど九二式実包で、軽機では射てないんです。後方じゃ重機優先と考えていたらしいんですが、重機なんて数がそんなにない。だいたいがビルマの奥地に入っていくのに、重い重機をたくさん装備するわけがないんです。こっちは九九式の実包が喉から手が出るほどほしいのに・・・」
MG中隊
ふつう1個歩兵聯隊は聯隊本部と3個大隊、通信、速射砲各中隊の編制だった。各大隊は小銃中隊4個と機関銃中隊1個、大隊砲小隊1個である。昔の写真の中のMG中隊という兵士の腕章をみて、あれ?敵性語の英語を使っていると驚いた人もいたが、あれはドイツ語のマシーネ・ゲベール(英語ではマシン・ガン)の頭文字である。どちらもMGだから、英語かと思ってびっくりしたのだろう。
MG中隊は4個機関銃小隊と1個歩兵砲小隊、それに弾薬小隊と指揮班が編制である。1個機関銃小隊は2個分隊。分隊は1銃の92式重機を運用する戦銃隊と段列(銃馬と弾薬馬)からなっている。つまり重機関銃は8銃である。ちなみに、日本陸軍は機関銃を挺では数えなかった。銃という。大隊長の命令で4個の小銃中隊に2銃ずつ配属されることが多かった。もちろん、重機の集中運用といって、攻勢正面に4銃、助攻に2銃、予備として2銃を大隊長の手元に置くことも行われた。
大隊砲とは曲射・平射両用の九二式(70ミリ)歩兵砲のことで、小隊は2個分隊で2門である。輓馬1頭でひけたし、分解しても運べた。山なりに撃つ迫撃砲のようにも、直射する野砲のようにも使えた。
ついでに歩兵がもったその他の火砲について解説しておこう。
歩兵聯隊には1個歩兵砲中隊があった。歩兵砲といっても砲種は山砲である。山砲とは野砲と同じ口径の75ミリを撃つ。野砲は弾薬を積んだ車といっしょにトレーラーにして輓馬6頭でひいた。また後になると対戦車戦闘用に九四式速射砲(口径37ミリ)4門も速射砲中隊となって編制内に入った。
山砲は分解して駄馬の背に積んで運んだ。軽量化のために野砲と比べると各部が華奢(きゃしゃ)だから、弾頭は同じでも装薬が少ない。それでも歩兵聯隊長が直接握る火砲である。たいへんよく使われたという。
現在の陸自の普通科(歩兵)連隊にも重火器がある。部隊の編制によって異なるが、重迫撃砲中隊があり射程6000メートルの120ミリ迫撃砲がある。各中隊にも迫撃砲小隊があり、81ミリ迫撃砲をもつ。また装甲車化普通科中隊には40ミリ自動擲弾銃をもっている場合もある。
馬で運んだ重機関銃
弾薬箱は紙ケースに入った30発保弾板が18連、つまり540発が入り、弾薬馬の背中に振り分けにして4個積んだ。
保弾板は30発の重機弾薬が815グラム、それに保弾板自体の重さ120グラムに紙ケースが75グラムあるから合計1010グラムになった。口径6.5ミリの3年式重機弾薬なら830グラムですんだ。1箱が22キログラムほどになる。1頭で80キロを運ぶのだ。もし、馬が倒れたら、この重量を人間が運ぶことになる。
歩兵聯隊では、初年兵に20貫(75キログラム)もの土嚢を担いでみよと命令したらしい。軽々と持ち上げたら重機、ふつうに上げたら軽機、あがらない、苦しむ様子の者は小銃手と分けたらしい。農山漁村出身の甲種合格の若者は、当時、兵士としての訓練などたいしたものではなかったと言っている。
よく都会師団は弱かったとか、困苦欠乏に耐える力がなかったという戦後の評価を聞く。大阪師団(第4師団やその特設師団)、東京師団(第1師団同)などは弱かったという。だから都会の人間はという批判にもつながるが、精鋭といわれた東北や九州の師団はたしかに強かった。東北の仙台第2師団などは「国宝師団」とまでいわれた。しかし、軍隊の機動力のほとんどを馬に頼った軍隊(それはヨーロッパの軍隊も同じ)である。東北や九州には幼いころから馬を身近な存在として育った兵隊が多かった。
馬はもともと平原で水分の多い草を食べ、走り回っていた生き物である。それが山や泥濘(でいねい)の中を歩かされ、背中に重い荷物を載せ、重い輜重車、野砲砲車を牽かされたのだった。食料は運びやすさを追求した乾燥馬糧を食べさせられた。大量の水を必要としたし(野戦では1日50リットルほど)、弱い皮膚を守られなくてはならなかった。
馬が倒れれば、重機も、弾薬も、糧食も、山砲も、歩兵砲も、みな「臂力搬送(ひりきはんそう)」といって人間が運ぶしかない。馬を飼うこと、共に暮らすことが少なかった都会師団の兵士たちを弱兵というのは、あまりに不公平な評価である。
戦場の九二式重機関銃
アメリカ軍の記録を見ると、重機、軽機から撃たれて死んだ者が多い。ペリリュー島のわが兵士たちの勇戦敢闘は、『ペリリュー島戦記』(ジェームス・C・ハラス、2010年、光人社NF文庫)にも描かれている。手榴弾を投げ、重擲弾筒を撃ち、機関銃の猛射を浴びせる日本兵の様子がしっかり浮かび上がる。
絶望的な状況の中でも、水戸歩兵第2聯隊を中心にした守備隊は、掩蔽された機関銃座から正確な射撃を行なっている。また、容易に設置場所を変えられる軽機も大活躍である。その姿は、硫黄島の激戦をアメリカ人の目を通した『父親たちの星条旗』や海兵隊員のリアルな回想記をもとにしたテレビ映画『ザ・パシフィック』にも見ることができる。
「勝った、勝った」の気分いっぱいの戦後すぐの映画を観ると、日本軍はすぐに銃剣突撃をしてきて米軍のセミ・オート・ライフルや軽機関銃になぎ倒された。ところが実際は、無駄な攻勢に出ることなく地形や地物を利用し、しぶとく抵抗する日本兵、それが実態だった。正当に評価する映像作品は実は、戦ったアメリカ兵の立場も表している。間抜けで、ぶざまで、銃剣突撃しかしてこない日本兵に楽に勝ったのでは、あまり尊敬されない。実態に近く戦闘の様子を描写しないと、評価されないということなのだ。
「日本軍は防御に非常に熟達している。彼らは戦術上の利益がない限りめったに退却しない。日本軍部隊はどんなに圧迫されようとも、降伏するとはみなされない。部隊は全滅するまで陣地を守り続ける。日本軍司令官は時間と部隊を与えられ、防御陣地を縦深化(じゅうしんか)している。可能であれば必ず全周囲防禦(ぜんしゅういぼうぎょ)をとる。その外縁は相互に支援したトーチカまたは類似の陣地からなり、小銃兵や狙撃兵により支援されている。陣地は巧妙に偽装され、防御側は目標への非効率な射撃を繰り返したり、攻撃されるまで陣地を遮蔽したりするなどして、可能な限り奇襲の要素を保ち続けようとする」
アメリカ軍の情報部による「日本軍戦術」の解説である(『日本軍と日本兵』一ノ瀬哲也、2014年、講談社現代新書)。日本軍は線の防禦ではなく、機関銃や擲弾筒などを十分に何層にも配置した陣地を構成する。迂回されることを防ぐために全周囲に防禦手段をとる。トーチカに近づこうとすると、狙撃兵や小銃による精密な射撃にさらされることになった。また、「敵の意表をつく」という日本軍のドクトリンがあり、そのためにはあえて無駄な射撃をしたり、存在を隠したりすることもする。さらに、次のような記述が続く。
「機関銃は日本軍防御における基本的兵器である。この兵器は巧妙に設置、遮蔽され、射界の視野を良好にするために手の込んだ配慮がなされている。銃は固定銃座に据えられて単一の射線しか送れないようになっており、横からの射撃に対する準備はされていない」
ここでいう機関銃はいうまでもなく重機関銃である。重い重機は簡単には射線を変えられない。横方向から撃つべきだというアドバイスである。しかし、相互に支援したトーチカの存在も指摘しているから、いつも側面から近づこうとしても無理があったようだ。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(2019年(平成31年)5月1日配信)