陸軍小火器史(26) ─最後の制式小銃「九九式小銃」ー

お祝い

今上陛下がご即位になりました。謹んでお祝いを申し上げます。
 史上初の10連休、皆様どのようにお過ごしになりましたか。雨が降ったり、激しい雷雨があったりした地域もあったかと聞いています。被害にあわれた方はいらっしゃいませんか。
 わたしは、ほとんど出かけずに終わりました。その代わり、小火器についてさらに資料を集めたり、十分に休養をとれました。

強い反撞(はんどう、動)に悩む

 1938(昭和13)年4月21日、陸軍軍需審議会は、技術本部の研究方針について次のように改めるよう答申した。

「小銃、近距離戦闘兵器としての性能を向上す。主要諸元左の如し。口径七・七粍、重量約四キロ(努めて軽量とす)、穴照門とし一〇〇米より一五〇〇米の照尺を附す。摘要。反撞(はんどう)若干の増加は忍ぶものとす。対空射撃の方途を講ず」

 1940(昭和15)年7月になって、九九式小銃、同短小銃、九九式軽機関銃が制式化された。
 三八式歩兵銃は、その発射反動のまろやかさでも有名だった。小口径であるのに十分な長さの銃身をもち、装薬から生まれた発射ガスが十分に仕事をする時間を与えたからだ。新しい九九式小銃は増口径と軽量化を追及したために、銃身が十分な長さをもたなかった。だから強烈な反動が生まれた、銃口から出た閃光が大きく視界を奪われたという思い出話が多い。また、いやだなあ、反動が痛いなあと思えば当然、平常心ではいられない。どうしても引鉄をガク引きしてしまったという証言もある。
 そのせいかどうか。フィリピンで戦ったアメリカ軍の記録では、日本軍の6.5ミリ弾の狙撃兵には悩ませられたが、一般に出てくるのは機関銃の話題ばかりである。一方、兵站関係者の思い出には、敗走中に森の中の道路の道端に木箱に入れられたまま山積みにされた新品の九九式小銃を見たという人もいる。やっとの思いで海を越えた兵器も、揚陸してからの運搬手段もなく放置されていた。本来、健全な補給能力とは、物資、資材を最前線まで届かせられることをいう。
 九九式小銃には長さが2種あった。長い方は三八式とほぼ同じ長さ(1272ミリ)で、短い方は115ミリ短くなった(1117ミリ)。これを長小銃と短小銃というが、前者は約3万8000挺生産され、後者は同232万挺で総生産数は合計は同236万挺となり、三八式と比べるとその生産数は6割ほどにもなる。三八式は35年間も製造が続き、対して九九式はわずか5年間である。戦時にいかに対応して全力をあげたかよく分かる。もっとも、大東亜戦中の混乱の中で、初期型と中・後期型ではその製品としてのレベルがずいぶん異なる。わが国の国力の貧しさと戦いの激しさがしのばれる(数字は『日本の軍用銃』須川薫雄によった)。
 短小銃のカタログ・データは次の通り。(  )の中は比較のために三八式歩兵銃である。全長1117ミリ(1275)、銃身長657ミリ(792)、重量3700グラム(4000)、最大幅51ミリ(50)、標尺はスライド式で400~1500メートル(300、スタンド時400、スライド500~2400)、装弾数5発(5発)である。すぐに分かるのは、軽くなったことだ。この300グラムも軽くなったことは、担いで歩く人間にとっては、ひどく嬉しいことだった。長い行軍では、「紙1枚でも捨てたかった」「進撃路の途中に5発ずつの実包がたくさん捨てられていた」などという証言がある。
 対戦した相手の小銃と比べてみよう。アメリカのM1ガーランドは口径7.62ミリ、全長1100ミリ、銃身長600ミリ、重量は4370グラムである。
 実銃を三八式と並べてみると、九九式の頑丈さが目立つ。もちろん増口径のおかげである。前脚(折り畳み式、単脚)がつき、航空機を撃てるように高射用の表尺がある。用心鉄(トリガーガード)が大きく、やや角ばっている印象がある。弾倉底鈑が外したときに無くならないように、前端は軸でとめられている。

互換性のない同口径弾

 新しく制定された実包を九九式七・七粍実包という。口径は同じなのに、先に開発された九二式重機関銃に使う九二式実包とはまったく異なるものだ。まず、弾頭の重さが違う。小銃用は11.8グラム、これに対して重機用は13.0グラムもあった。元は航空機搭載用八九式旋回機銃弾薬である。装薬も小銃の2.8グラムに対して2.93グラムだった(ただし、普通弾の場合)。
 何より一番大きな違いは、小銃用は無起縁(リムレス)で、機関銃用は半起縁(セミ・リムド)になっていた。セミ・リムドは薬莢の縁の内側に溝があり、縁は薬莢の径よりやや大きかった。この縁が装?を、溝が排莢をスムースにさせた。機銃は何より薬室から撃ち殻薬莢を抜けないのが怖い。そこで、縁を確実に抽筒子で引っかけるためにセミ・リムドということにしたのである。
 小銃実包がリムレスなのは当然のことだった。九九式小銃は尾筒内部に固定された弾倉に5発の弾をこめた。そのとき、5発をひとまとめにしたクリップ(挿弾子)を使うのだが、もしリムがあると厄介なことになった。下の弾のリムは、必ず上の弾のリムより後ろになくてはならない。これがイギリス軍のエンフィールド小銃なら、もともと着脱弾倉だから、戦闘の前にリムを順に後になるようにこめておけばいい。ところが九九式は、いっきょに5発を押しこむことになるから、リムなど無い方がよかったのだ。
 1940(昭和15)年3月、兵器生産実績数字がある。1月から3月までに99式小銃は3万8000挺、1カ月にようやく1万3000挺くらいだった。14年度は53万挺造った。軽機関銃も14年の1年間で旧式の11年式を1万1500挺、九二式重機が1万3200挺、15年度の1月から3月までで1000挺である。
 1937(昭和12)年からわが国は軍需動員を始めて、41(昭和16)年3月までの42カ月間の実績が数字で残っている。38式歩兵銃が63万5875挺、38式騎銃が16万4738挺、44式騎銃は1万3814挺、14年式拳銃4万1465挺、軽機関銃(96式、11年式)2万7001挺、89式重擲弾筒3万2940筒、92式重機関銃1万444銃、92式車載重機3391銃、92式歩兵砲1136門、94式37粍速射砲1293門、41式山砲(歩兵聯隊用)727門というものである。
 一方で中国と戦いながら、新しい装備も造る。戦闘で損耗もするからそれの補充も必要である。陸軍は軍需予算の40%を支那に送り、60%を軍備充実に回すとした。それにしても「国防の台所」は貧しい限りだったと加登川幸太郎元中佐は書いている(『陸軍の反省(上)』文京出版、1996年)。

戦時生産品

 開戦2年目の1942(昭和17)年には陸軍の兵器材料は不足してきた。翌18年秋頃から造られた粗製の九九式小銃は「戦時小銃」といわれるようなものになった。まず、単脚(モノポッド)と高射表尺が省かれ、?杖も短くなる。銃床の木部の材料も低下する。金属部も切断面がざらついてきて、塗装も黒錆染めではなく塗料でされるようにもなった。19年夏ころになると、いよいよ末期的になってしまう。照尺は固定で環穴型、照星座もなくなる。槓桿の先も丸みがなく、角ばっている。こうして九九式はまったく元の姿を失ったといっていい。
 なお、陸軍は一応、旧来の6.5ミリ系の装備をする部隊(38式歩兵銃、96式軽機関銃、92式重機関銃)は主に中国戦線で戦い、対ソ連戦用の優良装備師団、南方の英米蘭軍相手には、7.7ミリ系の(99式小銃、99式系機関銃、92式重機関銃)部隊をあてるように計画していた。したがって、満洲の孫呉(そんご)に長く駐屯した第1師団は、九九式小銃、九九式軽機、九二式重機を装備したはずである。
 だからフィリピン戦を描いた大岡昇平は『レイテ戦記』の中で、「三八式の銃声と七五ミリ野砲のひびきを再現したい」と書いたが、本当は九九式の7.7ミリの銃声もこだましたに違いない。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(2019年(令和元年)5月8日配信)