陸軍小火器史(27) ─輸出をねらった国産拳銃「南部式自動拳銃」ー

将校の拳銃は自弁だった

 官給品を定数そろえて貸与される自衛官も驚くのだが、昔の陸海軍将校には被服も装具もめったに官給品はなかった。任官する時には驚くほどの費用がかかった。そのために特別な手当て、といっても必要額にはとても達しないが、支給される規定まであった。
 このことは予備幹部の募集・養成にも問題があるとされ、大正時代には国会で議論されたこともある。少尉に任官すれば、高価な正衣、正袴をはじめとしてその装具、儀礼刀や指揮刀、長靴その他、夏冬それぞれの軍衣袴(ぐんいこ)もろもろが必要になってくる。少尉の俸給が月額45円くらいの時代、総額で400円近くかかった(諸説あり)と聞けば、あえて終末試験に不合格になって予備役下士官でいいとする一年志願兵がいたのも不思議ではない。議員質問の主旨は予備役将校の数が少ないのではないか、任官すると金がかかるからというなら陸軍が補助をしてやったらどうかというものだった。
 それに対して陸相の答弁は、
「そのくらいの負担に耐えられない人に士官になって欲しくはない」というものである。欧米と違って陸軍将校は決して貴族の出ではなかった。多くは庶民の出で、学歴があったくらいの人たちだから、陸軍も志願兵全部に期待していたわけではなかったことが分かる。
「武士は食わねど高楊枝」などという言葉も死語になったが、武士の伝統をひく高等武官たちは自分たちの経済生活などろくに記録に残さなかった。だが、その実態は、戦時はともかく明治末から大正時代、昭和戦前期という平和な時代には、世間の好不況にかかわらず、経済的には恵まれなかったのが現役軍人だった。当時の主婦向けの家庭雑誌にはしばしば将校夫人たちの苦労話も載っている。
 将校たちの服装規定に初めて拳銃が載るのは、なんと明治の日露戦後に過ぎない。しかもそれは武装部隊の指揮官として隊列にある場合の規定だから、ふだんの将校たちは指揮刀だけを提げていた。いざ、動員(戦時体制になり、それぞれの戦時補職に就く)となって、あわてて拳銃を用意したという話も多い。また、将校たちの親睦・研修団体である「偕行社」には、もちろん購買部があった。そこに出張してきた銃砲店から購入したという手記もあるが、そこが誤って伝えられ、「偕行社」で買っていたという誤解もある。しかし、わが国は明治の初めから銃砲類の規制は厳しく、陸海軍軍人もまた例外ではなかった。
 それでも、日露戦争の写真を見ると、高級将校たちは多くが自動拳銃(オートピストル)らしい小型の拳銃嚢をさげている。幕末維新以来、銃輸入販売業者にとって、陸軍軍人ほどいい客はいなかっただろう。

自動拳銃の仕組み

 あらためてリボルバーと異なる自動拳銃について説明しよう。
 連続して弾を撃ち続ける、撃ち殻薬莢を蹴りだし、次弾を勝手に薬室(チェンバー)に送り込んでくれる。引鉄を引き続ければ、弾倉が空になるまで撃ち続けられる銃をフル・オートマチック(全自動)といい、1発撃つたびに引鉄を引く銃をセミ・オートマチック(半自動)という。その仕組みは3つに分かれる。
 まず、ブローバック(吹き戻し)、装薬のガスが弾を前に押すのと同時に、薬莢は後ろへ押し戻される。この撃ち殻薬莢が薬室から抜きだされ蹴りだされる。空になった薬室には弾倉(マガジン)から上がってきた弾が入る。
 次は弾を撃ちだした後にくる反動(リコイル)を使う方法である。装薬量が多い実包の場合、吹き戻し圧力が強すぎて命中が難しくなったり、場合によっては射手が危険になったりする。そのため、一瞬のことではあるが圧力が下がるまで薬室に蓋をしておき、その後反動を利用して薬室開放、排莢という順になる。これをショート・リコイルという。
 なぜショート(短い)というかといえば、ブローバックの圧力が高いとき、少しだけその力を逃がすため、銃身とスライド(遊底)がいっしょに短く(ショート)後ろにさがるように設計してあるからだ。
 最後の方法は発射ガスを使う方法である。機関銃や近頃のアサルト・ライフルはたいていがこの方法をとる。銃身前方にある穴から細い円筒(ガス・シリンダー)に一部を導いて薬室を閉じている蓋(栓)を開放する。
 軍用拳銃の場合はショート・リコイル方式がよく採られた。9ミリ・パラベラム(ルガー弾とよくいわれる)、45ACP(米軍仕様の45口径弾)までの威力の高い弾を使う拳銃はショート・リコイル、それ以下の弱い弾ならブローバック方式と考えていい。

南部が造った軍用自動拳銃

 南部式拳銃には、甲型、乙型、小型と3種類があった。日露戦争の直前1903(明治36)年に南部麒次郎の設計による最初の自動拳銃が完成したのだろう。しかし、戦争直前であったから主力小銃である30年式歩兵銃、同騎兵銃の生産に全力をあげる時期だった。本格的に生産がスタートするのは、戦後になってからである。
「偕行社記事」を検証された杉浦久也氏によれば、明治36(1903)年8月発行、第320号の「新拳銃」という記事があった。その中に木製のショルダー・ストック(肩づけ銃床)について言及がある。また弾倉が2個あること、それぞれ10発の装弾数があるという。その後の甲型拳銃は8発であることなどから、ホルスターにもなったストック(木匣・もっこう)を装着ができるモデルから設計を始めたと杉浦氏は推論されている。
 すでに1900(明治33)年にはスイス軍がパラベラムピストルを採用していたし、ベルギーのFN社がブラウニング1900も発売していた。また、1911(明治44)年にはアメリカ軍が有名なコルトM1911自動拳銃を制式にした。同じ時期には有名なルガーP08拳銃がドイツ軍によって採用され、その独特なスタイルが評判をとった。
 南部大型拳銃はルガーの影響を大きく受けている。引鉄、弾倉、マガジンキャッチ(弾倉受け)、撃鉄がない(これを無鶏頭という)ストライカー式の撃発などだ。安全装置はグリップを握りしめると発火できるという、いわゆるグリップ・セーフティである。何より、特徴的なのは遊底を開いたままにしておくスライド・ストップのレバーがない。空になった弾倉を抜くと、そのまま遊底は閉じてしまうのだ。
 多くの自動拳銃は弾倉の弾を撃ち尽くすと、スライド(遊底)が開いたまま動かなくなる。射手はそれに気付いたら弾倉を引き抜き、次の弾倉を入れる。弾倉を入れるとスライドは自分で閉じた。それで次弾を撃つことができた。南部式はスライドが開かないので、弾倉交換の後には、もう一度、小銃でいえば槓桿にあたるコッキング・ピースを引かなくてはならなかった。
 おそらくは、南部は戦闘中に弾倉を交換しなければならない、そんな切迫した場面が起きるとは考えてはいなかったのではないだろうか。実際、拳銃が銃撃戦で役に立ったという記録はめったにお目にかかれない。ジョン・ウィークス氏の『歩兵小火器』によれば、ある有名なイギリス軍の将軍の証言が紹介されている。「第2次世界大戦中に、ピストルの射撃によって死傷した兵士の数は三〇名だった。しかも、そのうちの二九名までもが、不幸なことに、安全な操作をおこたった味方のピストルの暴発事故の犠牲者だった」

構造の特徴と要目

 珍しいのは次弾の装?のための復座バネ(リコイル・スプリング)の位置である。フレーム(本体)の左横にもう1つの円筒を造りつけ、その中に小型で強力なバネを入れた。ほとんどの自動拳銃は、このバネを銃身を包む円筒(ボルト)といっしょにした。南部拳銃の円筒後部(結合子・けつごうし)は撃茎と復座バネの両方を押さえるので、ひょうたんの形をしている。
 実銃を握ると、その木製グリップ(銃把)の感触が快い。細かい手作業のチェッカー模様がついて鉄の感触が少なく、非常によく手になじむ。グリップの上部は幅が64ミリもあり、高さも115ミリと十分な大きさがある。銃全長は230ミリ、銃身長120ミリ、高さ145ミリ、本体の厚さは30ミリ、重量は880グラム、タンジェント式の照尺がつき100メートルごとに最高500メートル。装弾数は弾倉に8発、薬室に1発が入るので8+1と表記される。
 弾倉は全長が137ミリ、幅31.5ミリ、厚さ16.8ミリ、重量は100グラムだった。左側のボタンを押すことで抜くことができた。生産総数は2400挺あまり。

南部の願い

 南部麒次郎は見通しのきく人であり、当時の軍人らしくもなく、兵器輸出をして外貨を稼ごうという人だった。しかし、それは同時に、官立工廠という組織の宿命と無関係ではなかった。平時になると閑古鳥が鳴く、そういう工廠というシステムをなんとか次の大仕事まで維持しようという願いを真剣にもった人だったことを表している。
 日露戦争をどうやら勝ち抜くと、兵器産業には不況が押し寄せた。装備品の損耗はなくなるし、兵器が改編されることもない。仕事は一気に減ってしまう。運営費や人件費も削られ、財務担当者は冷たい。職工たちはより条件のいい職場に移ってしまう。それを防ぐためにもいつも仕事がなくてはならない。野戦軍100万、留守部隊も入れて動員された総人員は124万人、小銃製造所が造った30年式歩兵銃は60万挺にも達した。
 世間は戦時中の過剰な設備投資のおかげで、深刻な戦後不況の中にあった。何とか工廠の職工の足止めをしなくてはならない。そのためには輸出用の拳銃を造るという努力をしたにちがいない。
 しかし、輸出はうまくいかなかった。杉浦氏の精査によれば、1903(明治36)年から06(明治39)年までで、南部式自動拳銃甲型1260挺、同乙型911挺、同実包36万発の売却の記録がある。また、南部はこの頃、清国の南部に出張している。売り込みの事情を見に行っていたのだろう。輸出が不調だった理由の1つは、要するに長い間の実績がある欧米諸国の拳銃に比べて国際競争力がなかったのである。

8ミリ南部拳銃弾

 この実包は南部が独自に設計した拳銃弾である。この実包の評価は高くない。あくまでも推測であるが、南部は現場での学びだけで、きちんとした造兵工学を体系的に学ばせてもらったことがなかった。のちの造兵将校たちは砲兵か工兵で、帝国大学の造兵学科などにいまでいう内地留学をしたり、外国留学などをしたりしていたが、南部中将はひたすら砲兵工廠勤務だけで学んでいたのだ。
 弾頭重量は6.6グラム、雷管は真鍮製で発射薬は0.5グラム、初速は300メートル毎秒だった。これは9ミリ・パラベラム(1902年ドイツ)の弾重8グラム、初速350メートルや、7.63ミリ・マウザーの弾重5.6グラム、初速426.7メートルと比べると、威力ではどちらの7割にも達しないということになった。

7ミリ実包の南部小型拳銃

 アメリカ人はベビー・ナンブという。生産総数は6500挺といわれる。8ミリの大型を、7ミリ弾が使えるようにスケールダウンし、将校用拳銃としようとした。ただし、制式化はされなかった。全長は172ミリ、小型である。銃身長も83ミリしかなく、高さも114ミリ、厚さは26ミリ、重量も595グラムしかない。装弾数は弾倉に7発、薬室に1発の合計8発である。初速は310メートル/秒だった。
 陸上自衛隊武器学校小火器館に現存するこの拳銃には菊のご紋章と「恩賜」の文字が彫られている。仕上げも素晴らしい。この拳銃の小売価格について180円という記述を見ることがある。しかし、外国製の優秀拳銃が70円、90円というようなところだから、何かの間違いであろう。おそらく、90円くらいだったのではないだろうか。
 日露戦争では歩兵科将校の損耗率はものすごく、戦闘死者の率でいうなら上長官(佐官)の20.9%、士官(尉官)の15.0%だった。騎兵が同じく3.8%、4.5%であり、砲兵も4.4%、4.4%、工兵が6.0%、3.8%である。上長官が高いのは戦死したために進級した少佐(戦死時には大尉)がいるからかも知れない。そうであっても、歩兵将校は5~6人に1人が戦死した。その3倍は負傷者がいると思われるから、死傷しなかった歩兵将校は2~3割しかいなかったのである。工兵将校の率が高いのは、塹壕掘削や、坑道推進、鉄条網破壊などの作業や、歩兵戦闘も行なったおかげである。
 したがって、歩兵の中・下級将校なら接近戦や白兵戦などで拳銃を必要とすることがあったに違いない。彼らがどんな拳銃を持って行ったのか、きちんとした統計は見られない。ただ、自衛隊駐屯地や基地の資料館や広報館には多種多様な外国製拳銃が残されている。よく見られるのが、ブローニング1910型自動拳銃である。32ACPといわれる口径7.65ミリの欧米では護身用拳銃だろう。8ミリ南部拳銃弾より非力であるが、26年式の9ミリ実包よりは威力があった。全長が152ミリ、銃身長87ミリ、重量は570グラムで初速は300メートル/秒だった。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(令和元年(2019年)5月15日配信)