陸軍小火器史(31) ─番外編 陸上自衛隊駐屯地資料館の展示物(3) ー軍刀、指揮刀ー

はじめに

 いよいよ入梅、梅雨になりました。先日までの猛暑日や、真夏日とはうってかわって、肌寒い空気にいささか戸惑います。体温調節が難しいです。皆様も体調を崩されませんように。わたしは、5月の各地の陸上自衛隊駐屯地や部隊の創立記念式典にお邪魔させていただき、大忙しでした。
 陸軍将校といえば、残された写真のその手には必ず刀が握られています。しかも、支那事変(昭和12=1937年)以来の記録が多く残されていることから、「陣太刀」タイプの軍刀が有名です。日本刀伝統の柄巻(つかまき・サメの皮を張り紐で巻き締める)や刀緒(とうちょ)や全体のデザインは中世以来の陣太刀のようです。
 しかしながら、よく考えれば、もともと帝国陸軍は西洋式軍装(軍衣袴や装具一式)であったはず。実は、陸軍が用いた指揮刀・軍刀がああした古来からの姿を再現したのは、陸軍史の中ではごく短い時代のことでしかありません。
 1934(昭和9)年2月14日に勅令第26号によって「軍刀の改正」が行なわれたおかげでした。ついでにしばしば出てくるので、「勅令(ちょくれい)」という言葉も説明しておきましょう。天皇の「国務大権(たいけん)」による命令が「勅令」でした。いわゆる議会が制定した法律に対して独立に発する独立命令、法律を執行するための執行命令、それに法律の委任に基づく委任命令の3種がありました(『昭和戦前期の日本-制度と実態』百瀬孝、1990年、吉川弘文館)。
 独立命令である勅令は公式令、官制・官吏令・軍制令・栄典令・恩赦令の5種類がありました。陸海軍人の服制は軍制令の中に含まれます。よく知られているように、軍隊は天皇自らが統帥されるので、それに関する事項は国会の審議や協賛などが必ずしも必要ではありません。それこそ、現在のように自衛官が「箸の上げ下ろし(笑)」まで国会議員の監視を受ける時代ではなかったのです。
 勅令には上諭(じょうゆ・天皇が臣下にさとされるお言葉)がつき、天皇が親署され、御璽(ぎょじ・天皇の印鑑)を鈐(けん)し(捺印すること)、内閣総理大臣が年月日を記入して副署しました。あるいは内容によって他の国務大臣、もしくは主任の国務大臣が副署します。
「軍令」という言葉も、近代史のお好きな方は目にされるでしょう。これは統帥大権に基づいて「帷幄上奏(いあくじょうそう)」によって出された勅令です。帷幄というのは天皇の居場所をいい、陸軍参謀総長、海軍軍令部総長によって天皇に奏上されて勅裁を得たものでした。つまり閣議に出されることではありませんでした。1907(明治40)年に「軍令第一号」によって始められた法令の形式です。
 この年、「公式令」が出され、勅令はすべて内閣総理大臣の副署を必要とするように改められました。そのため従来のように、帷幄上奏によって決定され、陸・海軍大臣の副署のみによって発令されていた軍の統帥上の勅令も同じ扱いになってしまう。それは法令形式の不統一になる、ということから「軍令」と切り離すことになりました。
 このことを誤解して、「軍部の力が増大した」とか「日露戦争の勝利におごった軍部の横暴」などと解釈する人が過去にはいましたが、それは誤りです。これまでの勅令では、形式的には軍内部への強制力ばかりか、国民一般への拘束力もあったのです。それが切り離されることになりました。単に法令の形式上の整理だったことにすぎませんでした。

陸軍で刀は誰がもったか

 明治の初めの「廃刀令」は有名である。その内容は、文武官、定められた官吏など以外は、平常、帯刀してはならないということだった。興味深いのは、いまだに俗説として、江戸時代の庶民は刀を持ち歩いていなかったという間違いが通用していることだ。最近の研究では、庶民でも非公式な場面での帯刀は慣例になっていたとのこと。その代わり、儀式や行事、公的な場所への出頭時などに公然と帯刀する権利だけがあったらしい。もちろん、多くの人はそういう身分に憧れたという。
 明治になって、公然と帯刀ができなくなり、それまでどこに行くにも刀を帯びていた士族だけが戸惑ったことだろう。廃刀を訴えたのは、官員となって、洋式の環境の中で執務する士族たちだったというのも楽しい指摘である。鉄道の測量技師となった士族は刀がコンパスを狂わせたし、椅子に座った事務職たちも刀が邪魔だったからという。
 陸軍では曹長以上が帯刀本分、軍曹以下が帯剣本分とされた。この本分は、正規の法律用語であり、他に乗馬本分という言葉もあった。すなわちそうする権利と義務があるという意味である。帯刀者は「刀」を佩用し、帯剣者とは「銃剣」などの剣をさげることになっていた。
 そこで、曹長には兵器廠で製造された長剣が支給された。いまも陸自資料館で目にすることができるのが「三十二年式軍刀」といわれる「洋刀」である。1899(明治32)年に制式化された。これには騎兵用の「甲」と他兵科用の「乙」があった。
 甲は刀身が乙より6センチメートルほど長く、重量も金属製の鞘、つり革、ベルトも含めて1.423キログラム。片手握りで護拳(ハンドガード)つき、鞘に付いた環状のつり革にさげる佩環(はいかん)は1個である。全長は1.002メートルだった。騎兵はこれを馬上で振りかざし、主に刺突(しとつ)したが、斬撃も行なった。持ってみると、重心が前にあり、左手で手綱(たづな)を執りつつ右手でもって振り下ろしやすい。
 歩兵や砲兵、工兵の曹長など徒歩者用の乙は、全長0.92メートル、重量1.356キログラムだった。憲兵下士官、上等兵もこれを帯びた。輜重兵の下士官・兵は騎兵と同じ装備であるから長大な甲を支給された。
 1934(昭和9)年には後に述べるように、准士官・将校用の軍刀の外装が日本式に改正され、この官給軍刀も「九五式軍刀」といわれ、和風になった。両手で使えるように柄も長くされ、護拳も付かなくなっている。特徴的なのは、柄巻きは金属製の型押しであり、切れやすい紐が使われていない。

見習士官は曹長の階級だった

 下士官は身分上、堂々たる判任武官であり、下から伍長、軍曹、曹長となった。階級章も緋色の長方形の中に金筋が1本。そこに星が1つ、2つ、3つとならぶ。曹長の地位の重さがいまではなかなか分からないが、下士官の最高位であり、中隊ならふだんは事務室で給与掛(きゅうよがかり)などの重要な事務をとっていた。内務班長(軍曹・伍長)の先輩であり、准士官である「特務曹長(とくむそうちょう・のち准尉と改称された)」の仕事を助けた。
 平時の大正時代から昭和前期では、志願して伍長になり、5年で軍曹、10年で曹長に進み営外居住を許され、たいていがそこで結婚できた。15年目くらいに優秀で、運がよければ特務曹長(准尉)になった。
 もちろん、こうしたたたきあげの人にも道が開かれていた。曹長のときに少尉候補者を受験し、1年間の士官学校への入校がおわり、見習士官(みならいしかん)の期間をすぎれば高等官である少尉になることができた。
 また、士官学校本科卒業生が部隊に着任したときには曹長の階級に進められた。同じように、支那事変以後の大量動員時代、各地の予備士官学校を出て部隊に戻った甲種幹部候補生たちも曹長の階級だった。
 この「見習士官」というのは当時としては、なかなかイキな格好だったそうだ。現役士官候補生出身の方の話だが、「卒業時には指揮刀をつくった」という。「偕行社」に注文して、外装が洋式の銀色金属、片手もち、護拳つきのサーベルのことである。もちろん刃などはつけない。曹長の軍衣袴(ぐんいこ、ふつうにいう軍服上下)に、襟には士官候補生徽章(五稜の銀色星)を曹長の階級章の外側に付け、正装や礼装に使う「正剣帯(バックル式)」を上衣の上から締めて、それに指揮刀を吊った。
 普通の曹長は官給の曹長刀、それに対して見習士官は私物の指揮刀である。もう一つの外見上の特徴は軍帽である。曹長は官給の革製切りつば、黒革あご紐の帽子だが、見習士官は将校用のエナメル塗り黒つば、あご紐付きの私物軍帽をかぶった。1932(昭和7)年に試験製作され、実用も試された戦闘帽(略帽)にも将校用、下士兵用の区別があった。
 昭和9年に全軍に配布されるようになったが、帽章の星が将校用は金モール、それ以外は「黄絨」でできていた。立体感のあるなしである。この略帽も見習士官は曹長でありながら将校用のものをかぶった。

正剣、指揮刀、軍刀

 前にも書いたが、陸軍将校と各部同相当官には正装があった。鶏の羽でできた前立てをつけ、両肩に肩章をのせ、サッシュ(飾帯)を腰に巻いたのが正装。前立てを付けず、サッシュを締めないのが礼装と考えればよい。この正装のときに佩用したのが正剣である。フランス風のエペという直刃の刺突用であることが、斬撃もできるサーベル(指揮刀)とは異なっていた。いまも、フェンシング競技には、エペ(相手の全身のどこでも刺せばよい)、フルーレ(胴体のみ刺す)、サーブル(上半身を斬る、突く)という区別がある。そのエペである。
 兵科将校や准士官はサーベル型の指揮刀を吊り、戦時に出征するときには洋式外装、つまり護拳(ハンドガード)がついて、金属性の鞘に納まった同じくサーベル型の軍刀を用意した。柄はもちろん双手(もろて)で握れるように大型化したものである。
 1905(明治38)年に急いで作られたカーキ色軍衣袴は、翌年には制式になった。このあと明治41年には小改正がいくつか行なわれた。軍帽のクラウンの下部両側に2個ずつ小さい穴が空けられた。蒸れないようにしようというわけだ。そして、刀についても初めて細かい規定ができた。刀身の長さは2尺(約61センチ)から3尺(約91センチメートル)以下、反りは5分(約1.5センチメートル)だから穏やかな形といえる。柄の長さも好みに合わせて1握もしくは2握だから、片手でも双手でも自由になった。
 そうして、このとき初めて軍医や主計、獣医官たちは兵科と同じサーベル型の軍刀を佩くようになった。これ以前は、ずっと正装と同じ直刀のエペを使っていた。日露戦争の兵站監部や後方部隊の集合写真をみると、各部士官が軍帽の鉢巻が黄色の兵科ではなく各科の定色であり、直刀のエペを持っていることが分かる。

陣太刀型の新軍刀

 1934(昭和9)年2月14日に勅令第26号で、刀、すなわち軍刀の改正があった。満州事変(昭和6=1931年)以来、大陸で中国軍との戦いが続くと、白兵戦闘の機会が増えた。こういってはなんだが、陸軍は白兵主義だったとかいうけれど、実際は重機関銃、軽機関銃と擲弾筒といった火力を重視したのが日本陸軍歩兵である。分隊レベルの戦闘をみても、軽機関銃を撃ちまくり、小銃は「40メートルから50メートルでも使わない」というのが常識でもあった。
 歩兵の小銃は突撃にしか使えない、というのが当時のあたりまえであった。それが中国軍はしばしば白兵戦闘を挑んできた。中国軍の主兵器はふんだんにあった手榴弾である。この爆発をさけて突入すると、中国兵はしばしば刀や槍、銃剣による格闘戦を挑んでくることが多かった。あたかものちの米軍の火力に圧倒された日本兵のようである。
 そうしたときに将校たちは双手(もろて)で斬撃にも使える日本刀が頼りになったにちがいない。もともと、私物だった軍刀である。家に伝わるものや、刀剣商から買った日本刀を洋式外装に仕込んでいった人も多かったのだ。
 新制式の軍刀は、昭和初めの国粋主義の影響を受けたこともあるだろう。外装は、まさに古来からの陣太刀形だった。批判もあった。柄の糸巻きである。日本刀の美しい真田紐(さなだひも)などに代表される柄巻きは、手にしっくりくるし、美しい。しかし、あれこそが戦場では弱点になった。江戸時代の武士もふだんは「柄袋(つかぶくろ)」といって、柄を保護するようにしていた。
 幕末の「櫻田門外の変」でも、降雪にそなえて井伊家の武士たちは油紙製のカッパを着て、柄には袋をつけていた。おかげで浪士たちの襲撃にすぐに対抗できなかった。
 柄巻きの糸や紐は水火に弱い。革を巻いたほうが良かった、その上に漆(うるし)をかければなお良いという批判が当時もあった。刀緒(とうちょ)にも文句がついた。柄頭(つかがしら)から、「手抜きの緒」がさがっていた。戦闘時にはこれを手首にかけて、落とさないようにするのが刀緒である。これが長いので、戦闘中に目に当たったり、腕に絡んだりして不便だというのである。
 各駐屯地資料館には、実際に多く遺品が残っている。金属製の鞘は、多くの場合、革によって覆われている。大東亜戦の末期のものは簡易外装といって、装飾性がなくなっている物も多い。ここでは制式にしたがって書いておこう。
 柄は刀身の中茎(なかご)にかぶせる。朴(ほお)の木に白い鮫皮(さめがわ)をかぶせた。柄頭と縁金(ふちがね)は銅メッキした桜花と桜の葉。鳩目(はとめ)は二重裏菊(ふたえうらぎく)、目貫(めぬき)は三双桜花ですべて金色金属である。目釘(めくぎ、刀身と柄を連結する)は1本のものもあれば、2本もある。これを表面から隠すのが目貫である。
 問題になった柄巻きは茶褐色の革、あるいは絹糸、綿糸製の平打紐(ひらうちひも)で巻いた。鍔(つば)は黄銅製で表裏の四隅(よすみ)には銅メッキした桜花を1個ずつつけた。鞘は、朴の木で作り、その外側を錆止めした鋼で包んで、新しいカーキ色(帯状茶褐色)で塗装する。鐺(こじり、鞘の先端)も黄銅製だった。他にも細かい規定があるが、桜花と葉のデザインはなかなかに凝っている。
 刀帯(とうたい、刀を吊る帯)は黒革製だった。この裏は将官と佐官は紅革あるいは緋色絨で、尉官と准士官は藍色革、あるいは藍色絨である。騎兵科だけはニッケルメッキの鉤鎖(こうさ、フランス式にグルメットといった)を使った。実際には軍装の場合は他兵科の士官もこれを使ってよいとしたので、格好いいということから若い将校はこのグルメットを選んだ人も多かった。資料館にはよく実物が残っている。
 問題になった刀緒だったが、これも階級識別ができた。表はみな茶色だが、裏は将官が金糸三条山形の交織、佐官は赤、尉官・准士官は紺青の平打絹紐となっていた。
 次回は資料館によく残る着装品の解説をしよう。従軍記章などもそこでまとめたい。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(令和元年(2019年)6月12日配信)