陸軍小火器史(39) 番外編(11 )─政策の転換と予備隊

占領政策の転換とドッジ・プラン

 ドッジ・プラン(ラインとも称される)といわれる経済政策があった。1948(昭和23)年10月のことである。再選されたばかりのルーズベルト大統領から派遣されたデトロイト銀行の頭取、ジョセフ・ドッジが来日した。GHQの経済顧問(正式には公使)になった彼は、財政金融引き締め政策を勧告する。
 敗戦国の例にもれず、戦後のインフレーションは激しかった。海外からの復員によって、あるいは平和到来によるベビーブームがあり、人口は増えるが生産は元に戻らない。物資不足が慢性的に続けば、政府発行の紙・貨幣の価値は下がる一方である。東京の小売物価は、戦前の150倍にもなった。それに加えて、復興金融金庫というインフレの元凶があった。ここからどんどん「復興のため」という美名のもと、カネが民間に流れだしていた。
 1949(昭和24)年の東京都の調査では、1カ月1人当たりの生活費は公務員が2559円、銀行・会社員は2640円だった。これに対して閣議で決まった消費者米価が10キロあたり266円となった(前年に比べて約1.8倍)。外食でカレーライスが50円、昭和15年の20~30銭と比べれば、確かに250倍から170倍ほど。もり・かけそばが15円で昭和15年には15銭だったから100倍。一般食料品では、鶏卵が100匁(もんめ・375グラム)あたり121円70銭。これも戦前の昭和13年の31銭から比べれば400倍もの上昇だった。
 ドッジの勧告を受け入れさせられた日本政府は、アメリカの援助を得て食料を放出した。またいわゆる傾斜生産方式によって、鉄や石炭などの基幹産業に資金・資材を重点的に投入する。
 GHQは1948年10月、予算均衡・徴税強化・融資対策の限定・賃金安定・物価統制強化・貿易為替管理の改善・輸出振興のための物資割当の改善・重要国産材料と工業品の生産増強・食糧供出の能率向上などの経済安定9原則を指示した。
 翌年、政府はこれまでのインフレ赤字財政からデフレ超均衡黒字予算とした。黒字分は国債償還にあてられるために通貨量の大幅な減少が予想された。復興金融金庫融資はもちろん停止され、ようやくインフレは収束に向かうようになった。
 もともとインフレは生産が減ったための物資の不足と、戦前・戦中の臨時軍事費特別会計による濫費(らんぴ)の後始末、それに加えて復興金融金庫の融資による通貨の大量発行が原因だった。しかし、同時にインフレによって、政府にとって国債償還はきわめて容易になった。国債はインフレによって紙クズ同然となったのである。
 被害を受けたのは国債を買った国民だったが、インフレがなければ国民が額面に近い償還の財源を造りだすことになったのである。何のことはない。償還の財源は国民が租税で負担するしかなかった。国民が償還を受けた国債は、まるで紙クズのようなものだったが、おかげで納める税の負担は軽くなったのである。このように「未曾有の敗戦」は思いもよらなかった結末を多くの人にもたらしたのである。

マッカーサーと本国政府の対立

 マッカーサーは日本に再武装させることは考えていなかった。国際連合とアメリカの保護のもとで、永遠に非武装、中立の立場におくこと。それが彼の考え方だった。ソ連さえ、それに合意すれば、ソ連が日本に侵攻するなどあり得ないと考えていたようだ。日本がソ連以外の国から重大な脅威を受けることもない・・・そう思っていたらしいことが、ジョージ・ケナンの論文にある。日本国憲法の前文にあるように、「平和を愛する諸国民の公正と正義に信頼して・・・」である。ケナンは第2次世界大戦後のアメリカの安全保障政策に強い影響力をもった人だ。
 芦田均の政権が崩壊し、続いて吉田茂が組閣することになった。吉田は外務大臣も兼ねる。同じ10月、ワシントンでは国家安全保障会議が「NSC13/2」文書を承認した。その内容は、日本の経済的な自立化を進めることである。同時に再軍備方針については、反対するマッカーサーに配慮して警察力強化論に基づく限定的な方針を立てた。
 ところが、マッカーサーはこれに猛反対する。その内容は、前掲書『自衛隊の誕生』(増田弘、2004年、中公新書)に詳しい。マッカーサーの反論は次の通りである。
(1)日本の再軍備は占領の性格と目的を歪め、日本に対して「交戦権」を否認している日本国憲法の根本的改正を強制するものである。
(2)日本の再軍備がアメリカ軍の負担を軽減するというのは、ポツダム協定を米国が一方的に破棄するもので、非現実的である。
(3)再軍備に必要な軍隊経験者が100万人以上いるとの安全保障会議の認識は、実際に戦争状態になるまでは彼らは中立的立場に置かれるべきで、それに反することは米国の道義的立場をそこなうものである。
(4)警察力を当面防衛力に育ててゆくという会議の方針は間違っている。警察隊(Police Force)と防衛隊(Defense Force)は明確に区別されなくてはならない。訓練や選抜の方法からしても、警察官を治安や秩序維持以上の行動がとれるような陸上兵力の中核とすることは適当ではなく、「市民警察を1つの軍隊に拡充できる」という見解は、非現実的であり、米軍が日本に駐留するかぎり、日本の陸上兵力の創設は、警察力とはまったく別個の計画に基づく方が容易だろう。
(5)日本人はソ連の侵略を恐れており、また国家的威信を回復することを願っているから日本の再軍備を歓迎するだろうとの会議の見解に対しては、日本人が限定的再軍備に大いに満足するかは疑問である。もしも、日本人から戦中・戦後の根強い偏見を除去しようとすれば、現行の完全な「非武装政策」でのみ可能であり、また、国家の威信は、心ある日本人ならば、平和的努力の積み重ねを通じてのみ達成できると認識している。
 まず、マッカーサーは頑固に占領の初期目標を言い立てる。日本が2度とアメリカに逆らえないように完全に非武装化することである。さすがに軍人らしく、警察という武装部隊をいくら育てても、軍隊とは異なるという認識を明らかにしている。このマッカーサーの主張を確かめてみよう。
 現在の警視庁機動隊や各県警察機動隊は勇猛であり、よく訓練もされている。組織も、中隊、小隊、分隊と分けられている。重量のある盾をもち、肘あてや膝あてを装着し、指揮官のもとに整然たる行動もとれる。
 しかし、読者諸氏も、警察の警備専門部隊と、もっとも軽装備の自衛隊の普通科(歩兵)隊員とは全く異なっていることに気づかれるだろう。まず、警察官は個人で戦うことが原則である。柔剣道で鍛えられ、拳銃も撃てるし、容疑者が抵抗すれば制圧する訓練も受けている。まさに個人戦で警察機動隊員に勝つのは難しい。
 対して自衛官はチームで戦うところが違う。個人的にも鍛えるところは同じだが、戦う目標が違うのだ。さらに自衛隊(軍隊)にはあらゆる職種(兵科)がある。何よりも自己完結組織であることだ。食べる、寝る、着る、風呂に入る、怪我をしたら手当てを受ける、移動する・・・などなど、すべて自衛隊で行なうことができる。
 自己完結能力とは兵站能力があることにかかっている。災害派遣された消防官や警察官はどこからか弁当を買わねばならない。宿舎だって、民間施設を利用するしかない。これに対して、自衛隊は自分で衣・食・住を用意することができる。それは後方支援をする人材と組織と装備があるからである。警察と軍隊の違いはそんなところに現われてくる。警察の武装を高度化し、訓練をいくら増やしても、野戦で敵国の軍隊と対等に戦えるわけではないのだ。
 (5)を見ると、さすがマッカーサーは、当時の日本人をよくみていると思える。当時の日本人はアメリカ本国政府の会議が想像するほど、共産主義のソ連のことを侵略者と見ていたか。いや、むしろ共産党は今よりはるかに人々の心をつかんでいた。社会主義になった方が幸せになれる、共産主義ソ連こそ「わが心の祖国」と公言する人はけっこう多かったのである。
 そうして、最後の「国家の威信は非武装で、平和的努力の積み重ねで達成できると心ある日本人なら信じている」というところがさらに興味深い。いまも憲法を改訂することに反対する「護憲勢力」は「心ある」人々であり、マッカーサーの言う通りの価値観をいまも持ち続けている。そして、「憲法改正」を思うわたしたちは、まさに「心ない」日本人なのだ。

パージ(公職追放)について

 公職追放という制度があった。ひとことで言えば、「軍国主義」に関与した人物はとにかく公職に就かせないというものである。アメリカ人が見た「軍国主義」だから、国家の命令に真剣に従った現役軍人(少尉以上)はみな追放された。同じように国家の官僚や、警察官、政治団体の指導者などは次々と職を奪われた。国策遂行に協力したとみなされた経済人も追放された。
 わが国にはもともとそういった文化はなかった。敗者が部下を救うために腹を切る、あるいは反乱を起こした罪で殺されることはあっても、職を奪うような伝統はなかったといっていい。戦国時代の城の守備隊司令官、あるいは関ヶ原の敗者が死んだことは有名だろう。
 どうやら敗者の財産を没収したり、職業を奪ったりしたのはアメリカの南北戦争のときの施策のようだ。とにかく、昭和21(1946)年1月には約6000名、そうして翌年1月から昭和23(1948)年8月までに約19万名が追放されてしまった。その約19万7000名のうち、陸海軍正規将校はそのほぼ8割の16万7000名にも及んでいた。
 ここで詳しく述べると、軍人には現役と予備役といった役種(えきしゅ)があった。前述した正規将校というのは、戦後の言葉でいう「職業軍人のうちの陸海軍少尉と同相当官以上」のことである。現役というのは、その階級ごとに定められた定限年齢まで勤め続けられる者をいう。たとえば兵科大佐なら55歳、同大尉48歳、同少尉45歳である(各部はそれぞれ1~2歳増えた)。
 現役将校になるには3つのコースがあった。まず士官候補生になること。代表的なのは陸軍士官学校を出ること、このほか各部現役将校になる道はそれぞれである。2番目には少尉候補者から少尉になること。軍曹・曹長から受験してこのコースに乗る。もちろん、末期になると書類選考で准尉から少尉になった人もいた。そして最後は幹部候補生から予備役将校になり、特別志願をして現役将校になるための教育を受ける。
 ある方から、わたしの父は大学出の幹部候補生出身(つまり予備役)だが、大尉だったので公職追放を受けたと話をきいた。しかし、階級でパージを受けられたのではない、おそらく人事上で現役扱を受けられた特別志願をされたのだろうと申し上げた。GHQの調査は厳しく、きちんと追放対象として「特別志願をした予備役将校」という指示があった。
 准士官以下は現役だろうと、召集の予備役だろうと追放をまぬがれた。だから、あいつは元現役少尉なのに、准尉だったとウソをついて働いているなどと嫌がらせを受けた人もいたようだ。この追放に関しては、当時の日本人が示した醜い姿がさまざまな記録に残っている。占領軍に迎合し、同胞を追い落とそうとした人、関係者に媚びて自分がリストに載らないように働きかけた人など、多くの話がある。

本国政府はついに指示を出す

 米国政府の国家安全保障会議は1950(昭和25)年4月、報告書を出した(『戦後史の正体』孫崎享、創元社、2012年)。

  • ソ連との戦争が起こる可能性がある。
  • ソ連によるユーラシア大陸の支配は許されない。
  • 非ソ連圏の国々が米国寄りになり、経済的・政治的安定と軍事能力を強化し、米国の安全保障に貢献するようにする。
  • 米国と他の自由主義国が協調して経済力・軍事力の強化を行うことが必要である。

というものだった。
 こうしたアメリカ本国政府の対ソ連への対策が決定されたころ、吉田を中心にした政府はとにかく再軍備を拒もうとした。1950年1月、来日した国務省政策顧問のジョン・フォスター・ダレスに対しても「再軍備は日本の経済的自立を不能にする」と答えていた。マッカーサーもまた、軍事力ではなく生産力で自由世界に貢献すべきだと吉田の発言を擁護した。
 状況を大きく変えたのは北朝鮮による韓国への奇襲的侵攻だった。孫崎氏は、北朝鮮の判断のミスだっただろうと推測されている。韓国へ侵攻して、武力統一を図っても、おそらくアメリカは手を出すまいと判断したに違いない。それが大きな誤算だったことは、アメリカの実力介入であり、国際連合の議決で知らされたことだろう。
 マッカーサーは直ちに日本政府に、「国家警察予備隊7万5000人と海上警備隊8000人の増員」を命令した。6月28日の侵攻が始まってわずか10日後、7月8日のことだった。
 次回はいよいよ警察予備隊の発足と、その具体的な様子を書こう。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(令和元年(2019年)8月7日配信)