陸軍小火器史(38) 番外編(10)─予備隊の誕生さまざま物語(3)ー

ご挨拶

 いよいよ梅雨明けでしょうか。先週の22日(月)は埼玉県大宮市にある大宮駐屯地盆踊り大会に出かけました。さいわい大雨にもならず、多くの一般の方々が駐屯地の公開に合わせて来場されていました。小さなお子さんが浴衣を着てお母さんに手をひかれて歩かれていました。
 25日(木)は東京都小平市にある小平駐屯地の夏祭りでした。ここでも近郊の皆さんがたくさんおいでになり、屋台に並んだり、櫓の周りで踊ったりという賑やかさです。隊員の皆さんも接遇に努められ、ほほえましいものでした。どちらも地域、近隣の住民の方々とふだんから十分な交流があり、信頼されているのだと安心しました。
 みなさま、各地で猛暑になります。ご自愛ください。

はじめに

 多くの人が「マッカーサー書簡によって警察予備隊は発足した」と思っています。陸上自衛隊の協力で編纂された『波乱の半世紀 陸上自衛隊の50年』(朝雲新聞社、2000年)にも、「占領下の昭和25年、朝鮮動乱を契機として、連合国最高司令官の指示により警察予備隊は発足した」と書かれています。朝鮮戦争に出動した米軍の穴埋めのための4個師団相当の兵力だったという通説もあります。
 中学校の歴史教科書にも「アメリカ軍が朝鮮に出動した後の日本国内の治安維持するためという理由で、1950(昭和25)年、日本政府に警察予備隊をつくらせました」(日本文教出版・平成23年検定)とされています。たしかに、そのことはすべてが間違いではありません。
 しかし、米国の公開された公文書を検討すると、また違った像が見えてきます。以下は、増田弘氏による『自衛隊の誕生』(中公新書、2004年)から多くを学ばせていただきました。そして、元防衛大学校教授、孫崎享(まごさき・うける)氏の『戦後史の正体』(創元社、2012年)も参考にしました。

本国とマッカーサーの対立

 1948(昭和23)年春から秋にかけて、アメリカ本国と占領軍の総司令官マッカーサー元帥の間で大きな対立が起きた。昭和23年といえば、天才少女歌手美空ひばりがデビューし、東京豊島区椎名町の帝国銀行支店で行員12名を青酸カリで毒殺する事件もあった。まだまだ国民生活も貧しく、アメリカからのララ物資で衣料や食品が届いて、大喜びといった頃でもある。
 ララ物資とはアメリカの宗教・教育・労働などの13団体がアジアの生活困窮者救済のために衣料・食料品などを送った。Licensed Agency for Relief on Asiaの頭文字をとった(LARA)のである。
 アメリカ本国では、このころ国務省ケナン政策企画室長や陸軍省のドレイバー次官らは、日本に再軍備を許し、ソビエト連邦への防波堤にしようと考えた。ところが、ここに問題が浮かびあがった。
 施行されたばかりの、日本国憲法はアメリカ軍人がつくった憲法である。よく知られているように、この憲法草案はGHQの民生局次長だったケーディス大佐が作成現場の指揮をとった。書いたのは民生局の若手佐官や尉官だった。30代・40代のアメリカの青年たちが心血を注いで、理想に燃え、日本の永久的無害化を図ったものだったのだ。
 とりわけ、第9条の「陸海空軍を持たず、交戦権も認めない」という記述は、何かあっても『日本人は座して死ね』というものである。この考え方は、このあと半世紀以上たっても「殺すよりは殺されたほうがいい」とか、「犯罪者にも人権があり、警察官は丸腰になれ」「攻めてくる敵があったら降伏して言うことをきく」という一部の識者や政治家の発言によって、まだ生き残っていることが確かめられる。
 マッカーサーの幕僚が作成し、日本政府に押しつけた「平和憲法」がまさに再軍備の足かせになったのだ。そして、国務省の日本再軍備論に反対したのは当時の日本の最高権力者マッカーサーだった。
 その反対理由は、(1)極東の国々は、まだ日本を恐れている。(2)再軍備は当初の対日方針に反する。(3)再軍備させても日本は五流の軍事大国にしかなれない。(4)日本の経済復興にとってマイナスになる。(5)日本人はもはや軍隊を持ちたがらない。というものだった。
 しかも、日本人が選び、国会が議決した憲法には戦力をもたないこと、どの国にも固有の交戦権すら認めないとある(もっとも、占領中のGHQ司令部が出した草案を日本の国会がまともな審議すらできなかったことは、読者にはすでにご存じだろう)。

マッカーサーの主張はまだ続く。

 平和条約を結び、その効力が発生したときには占領軍は完全に撤退すべきであり、平和条約の中の軍備関連の規定では以下をいれるものとする。
(1)市民警察 
(2)国内の騒乱に対処するための小規模な警備隊
(3)密輸業者等を取り締まるための小規模な沿岸警備隊しか持たせないようにする。また、どのような形態であろうと空軍はもたせない。民間の航空産業も保持させない。マッカーサーはあくまでもこうした「対日厳罰論者」でもあった。
 1948(昭和23)年3月、社会党政権の片山哲(かたやま・てつ)内閣が総辞職した。民生局(GS)の意向に逆らう平野農林大臣を閣内にいれていたからである。もっともGHQの中で、左派系のGSは当初は社会党政権を歓迎はしていたのだった。それがあっさり掌を返すように命令一つで政権をつぶすことをしたのである。後継の内閣を組織したのは外務大臣だった芦田均(あしだ・ひとし)だった。
 芦田は、重光葵(しげみつ・まもる)と同期で外務省に入った。ロシアに赴任した1914(大正3)年に第一次世界大戦が起こり、3年後にはロマノフ王朝の崩壊を目の当たりにした。1931(昭和6)年に満洲事変をきっかけに退官して政界に進んだ。外交官では社会を変えられないと考えた末だったという。
 3月10日に成立し芦田内閣は、わずか3カ月後に「昭和電工事件」に巻き込まれた。復興金融公庫からの農業再建のための融資をねらった昭和電工社長が、政界・官界・財界にわいろを贈ったという事件である。昭和電工は大手の化学肥料会社だった。当時、大蔵省主計局長だった福田赳夫(ふくだ・たけお、のち首相)も逮捕され、10月6日には前副総理西尾末広(にしお・すえひろ、社会党書記長)も捕まった。翌7日には芦田内閣は総辞職した。そうして芦田均も逮捕された。裁判は長くかかった。芦田も福田も西尾も無罪となった。
 どうもこの事件は、謀略が得意だったG2(諜報・情報担当2部)が動いたらしい。「疑獄事件(ぎごく・じけん)」とされたゆえんである。G2の狙いはGS(民生局)に対するけん制だったという説も存在する。疑獄とは政治問題化した大規模な贈収賄事件をいう。また犯罪事実がはっきりせず、有罪か無罪かはっきりしにくい裁判事件でもある。G2の調査はGS内部にも向かい、GS内のアメリカ人も収賄をしていたことが明らかにされた。
 GSの次長だったケーディス大佐という人もいまでいう「脇の甘さ」があり、日本人の愛人がいた。相手は有名な鳥尾子爵夫人(元・華族制度は廃止になっていた)だったから大騒ぎになった。G2はそのことをケーディス夫人に伝え、帰国した大佐は2度と日本に帰ってこなかった。

冷戦下での日本の役割

 わたしたちは、簡単にアメリカとか総司令部(GHQ)といいがちである。米国政府の中には国務省対国防省、国務省対CIA(中央情報局)などの対立があった。また、一枚岩のように見える総司令部(GHQ)の中にも主張の違いがあった。
 のちに駐日大使となったライシャワーはその日記の中で、情報担当部局(G2)と民生部門(GS)の対立があり、G2は軍事志向で早くから冷戦的態度をとったこと、GSは日本の戦後改革のみが関心事だったことと語っている。
 そうして1948年1月6日には、米国のロイヤル陸軍長官は次のような演説を行なった。
「多くのアメリカ市民には、ドイツと日本への勝利について失望していることがある。それは我々が支払う占領経費が高額になっているということだ。占領の第1の目的は、日本が再び我々にとって脅威にならないことだった。だから我々は日本の経済発展に対してさまざまな制限を加えてきた。日本経済は1930~34年のレベルに比べて、46年には18%、47年になっても40%でしかない。日本で大量生産が始まらない限り、物資の不足はつづくことだろう。日本の占領では、将来、極東(ファー・イースト)で起こるかもしれない全体主義との戦争に対して、日本が抑止力として貢献することができるように、自給自足の民主主義をつくることが目的である(意訳)」
 ここからアメリカ本国政府は、明らかに「全体主義」ソビエト連邦(現ロシア)が極東で侵略行動を起こすだろうという予想をもっていたこと、それを防ぐために日本を使おうとすることが方針になっていったことが分かる。
 では「冷戦(Cold War)」がいつ頃から始まったかを整理しておこう。実際に兵器を用いて戦うことをHot Warということから対照後の「冷」が使われたのだろう。
 第2次大戦の終末後に、ソ連は占領したポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、アルバニアで、次々と共産党政権を立ててゆく。当然、共産党の強権政治に反発する人もいたわけだが、これが伝わってこない。このことについて、英国の前首相だったウィンストン・チャーチルが1946(昭和21)年3月に演説をしている。
「バルト海のシュテッテンからアドリア海のトリエステまで大陸を横切る『鉄のカーテン』が降ろされた」。つまり、情報がカーテンの向こう側が何も見えない。しかも、そのカーテンは頑丈な鉄でできているというたとえだった。
 一般には次のトルーマン・ドクトリンが冷戦の始まりとされることが多い。1947(昭和22)年3月、国内の共産勢力と戦うギリシャとトルコの両政府を支援すると宣言した。トルーマンの回顧録によると、どこに侵略があっても、間接と直接を問わず平和が脅威を受けたとき、アメリカの国防に関わるものだとみなすということだった。
 つづいて6月、アメリカのマーシャル国務長官は、欧州諸国に対して大規模な復興資金を援助するという申し出をする。西欧諸国はすぐにこれに応じたが、ポーランドやチェコスロバキアのような東欧諸国は参加しなかった。どころかソ連を中心に49年に「コメコン(COMECON)」といわれる経済相互援助会議(Council for Mutual Economic Assistance)をつくって、アメリカと西欧諸国に対抗した(他にモンゴル、キューバ、ベトナムも加盟)。
 こうしたことから、ヨーロッパでは西ドイツ、アジアでは日本がアメリカで注目されてくるようになった。経済を立ち直らせ、技術を与え、大量生産ができるようにし、防衛力も保障しよう、こうなるのが当然だった。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(令和元年(2019年)7月31日配信)