陸軍小火器史(8) ―幕末・維新戦争の銃撃戦(その1)

お便りへのお礼とお答え

 ONさま、お問い合わせありがとうございました。停車場司令部はおおよそ予備役・後備役の将校(大尉級)が司令官となり、主に軍用列車の発着の調整や、通過、到着、出発部隊への厚生支援などを行なっていました。軍用列車には通常のダイヤに組み込まれる予定軍用列車、それだけでは不足する場合に運行する臨時軍用列車、そして軍事目的専用に運行する場合の軍用運行表に従い運行される特別軍用列車の3種に分けられます。停車場司令部ではそれぞれの指示に合わせたマニュアルで対応しました。現場の鉄道職員との連絡や調整も必要です。
 もちろん、通常業務として貨物、軍用郵便物の受け取りなども行ないます。その受け渡しも業務に入ります。駅の規模の大小により、組織や人員も異なりますが、おおよそそうした業務別に仕事内容を分担していたと思われます。興味深いのは鉄道専門の輜重兵科幹部(将校・下士官)がいたかというと、ほとんどそうしたことはありません。たいていがお祖父様のような、世慣れた、歴戦の下士官や優秀な兵隊さんが召集されて勤務しています。それも当然で、細かい運輸業務は兵站監隷下の司令部が所管しました。停車場司令部などの最前線の現場では、細かい仕事をきちんとこなせる方々のほうが有能だったのでしょう。

鳥羽の戦い、幕府軍の装備と陣容

 1868(慶応4)年1月3日の夕刻5時ころ、京都南方、鳥羽と伏見で新政府軍と旧幕府軍の間で戦端が開かれた。この日を含めておよそ4日間の激闘が続き、兵力に劣った薩摩・長州軍が旧幕府軍を打ち破った。このことを歴史に関する著書が多い半藤一利氏は、旧幕府軍の敗戦をまとめて、「旧幕府軍は旧式装備で戦い、それに対して新式の優秀装備をもった薩長軍が勝った」と主張された。
 しかし、それは従来の進歩史観の歴史学者が主張してきたような、実態を調べてこなかった結論である。旧幕府軍の作戦計画が残っているが、それによれば、入京を意図した部隊の配置は次の通りである。
(1)鳥羽街道を進み東寺(教王護国寺)へ向かう部隊。
 竹中丹後守(陸軍奉行)が総指揮官で、歩兵2個大隊(このうち1個が伝習歩兵大隊)、砲2門、騎兵3騎、築造兵40人と、これに桑名藩兵4個中隊、砲6門、濱田藩兵30人。
(2)伏見へ向かう部隊。
 歩兵2個大隊、砲6門、騎兵3騎、築造兵40人。新撰組150人。
(3)二条城へ。(1)の部隊と同時進撃する部隊。
 歩兵2個大隊、砲4門、騎兵3騎、築造兵40人。京都見廻組400人、本圀寺勢力200人(水戸藩中の徳川慶喜派)。
(4)方広寺大仏へ向かう部隊。
 歩兵2個大隊、騎兵3騎、築造兵40人。会津藩兵400人と砲兵1座(6門)、志摩国鳥羽藩兵2個小隊。大仏には兵糧の集積所があった。
(5)黒谷(金戒光明寺・こんかいこうみょうじ)へ向かう部隊。
 歩兵2個大隊、砲4門、騎兵3騎、築造兵40人。会津藩兵400人と砲兵1座(6門)、讃岐高松藩兵8個小隊。金戒光明寺は元京都守護職本陣であり、武器・弾薬が集積されていた。
 ミニエー・ライフル装備の9個歩兵大隊と、後装シャスポー・ライフルをもった伝習歩兵1個大隊。合計10個の洋式歩兵大隊が投入されていた。ほかにライフル装備である。この旧幕府歩兵隊の編制は、定数40人の小隊が10個、合計400人が大隊となった。2個小隊で中隊となる。この2個大隊(4個中隊)で聯隊ができ、その定数は士官、下士官をあわせて840人だった。
 ただし、『陸軍歴史』の慶応4年1月の編制表によると、第1聯隊と同4聯隊が各1000、同5、7、8聯隊が各800名、同6聯隊が600名、同11聯隊は900名が兵卒の現員となっている。また、伝習第1大隊800名、同2大隊は600名、そして幕府領からの志願兵である御料兵が400人の合計7700名となっている。このほかに大坂で徴募した第12聯隊があった。
 注目したいのは、各部隊に必ず騎兵と築造兵が付属していることである。幕府騎兵はなかなか整備が進まず、大きな部隊としての活躍が見られない。ただ、伝令や捜索などに使われたことが明らかである。
 築造兵は土工兵ともいわれた。エンジニア(工兵)部隊のことをいう。野戦築城や、台場といわれた胸檣(きょうしょう)などの構築に働いた。胸檣は前面に溝を掘り、その土を積みあげている。立った執銃兵の肩までの高さのバリケードである。身を隠して銃を立てて再装?できる。
 また、砲は新政府軍と同じく、フランス式の4斤山砲(しきんさんぽう・口径86.5ミリ)だった。1斤は160匁(もんめ)だからおよそ600グラム。したがって4斤は約2.4キログラムの砲弾を発射した。砲弾は3種類で、内部に炸薬を詰めた榴弾、一定の時間が過ぎてパチンコ玉のような弾子(だんし)をばらまく榴霰弾(りゅうさんだん)、砲口近くで爆発して弾子をばらまく霰弾があった。
 榴弾は固い目標に撃ちこみ破壊する。榴霰弾は陣地に隠れない敵の人馬、暴露目標(ばくろもくひょう)に被害を与える。空中で破裂して、斜め下方に弾子を放射する。霰弾は近距離で突進してくる目標を撃つ。散弾銃(ショットガン)と考えればよい。どの弾丸にもライフリングに食いこむ「いぼ」がついていた。
 幕府は1864(元治元)年頃からこの砲を鋳造していた。国産のものもあったのだ。66(慶応2)年の初めには、ブリュネー砲兵大尉以下の顧問団が来日し、フランス式砲兵隊が編成された。そのとき、フランス政府から四斤野砲と山砲をそれぞれ1個大隊分(各12門)寄贈されていた。前装ながら滑腔砲ではなく、施条された初期のライフル砲だった。山砲は分解して運ぶことができた。

新政府軍の装備と陣容

 対して薩摩藩兵は小銃20隊と3個砲隊だった(『戊辰戦役史』大山柏)。小銃隊の装備は主に英国エンフィールド兵器工廠製の前装ミニエー銃であり、1隊は80人で1個小隊、それが2個の半隊に分けられる。これに指揮役、喇叭手、鼓手などが加わった。20個小隊は出身で分けられ、城下士(じょうかし)10隊、外城士(とじょうし)4隊、遊撃3隊、番兵・私領・兵具の各1個隊である。
 よく知られているように薩摩藩は、城下士と外城士といわれた郷士は対立していた。同じ部隊にはまとめにくかったのだ。番兵といい、私領兵というのも、番兵とは士分でない者をいう。諸藩でいう鉄炮足軽のことである。私領兵とは大身の藩貴族の家臣、つまり陪臣のことだった。ただし、指揮官級には城下士がつくことが多く、外城1番隊長はのちの村田銃開発者、村田勇右衛門経芳(ゆうえもんつねよし)である。
 砲隊のうち2個隊が4斤山砲をそれぞれが8門、1個隊が6斤山砲、携臼砲(けいきゅうほう)を装備していた。携臼砲は砲車がなく、抱えて運べる。ハンド・モルチールといわれた大口径の射程が短い砲である。いまでいう迫撃砲のように使われた。1個砲隊は砲兵が80人、護衛の小銃兵64名、さらに斥候兵や食糧などを運ぶ小荷駄(こにだ)方などがいる。総員でおよそ3000名という。
 長州藩兵は、奇兵、遊撃、整武、振武などの6個中隊だけである。1個中隊は各90人の2個小隊編制であり、各180人。このほかに斥候兵や小荷駄が114名の合計約1000人で、装備は1861年式のエンフィールド・ライフル。これも前装銃だった。
 土佐藩兵は歩兵4個小隊、約1000名と砲隊200名。装備は年式不明だが、前装ミニエー・ライフルだったことが分かっている。

鳥羽街道の戦闘始まる

 ケンカは先に手を出した方が負けという。ところが戦争では、たいていが先手必勝である。しかも、相手が準備もしていないところを不意打ちにする。これこそ必勝の態勢にちがいない。旧幕府歩兵隊は強行突破の待機隊形のまま、つまり2列側面縦隊で狭い街道上に停止中のところを榴弾で撃たれ、ライフル弾を浴びてしまったのである。そのうえ、銃に弾丸もこめていなかったといわれる。強行突破を意図しているのに、装弾をしていない。この後も、こうしたちぐはぐな状況が旧幕府軍にはよく起きた。指揮、統制の不徹底である。最高指揮官の意図が末端まで貫徹していない。
 夕方の5時ころ、旧暦の1月3日。太陽暦の2月初めである。天気は晴れ、そろそろ夕暮れになろうかという時だった。薩摩軍は突然、銃砲撃を始めた。鳥羽街道上に据えられた3門の山砲の榴弾は旧幕府軍の砲車を直撃した。緒戦では5発ずつの砲撃がされた。それが街道上に行軍態勢のまま棒立ちの歩兵隊にも炸裂砲弾が浴びせられた。続いて、城南宮の中に置かれていた3門も撃ちだした。小銃5番隊、6番隊も左右に散開して歩兵隊への側射を開始した。
 入京の名目である「討薩上表文」をもった旧幕府大目付滝川播磨守(たきがわ・はりまのかみ)の乗馬は狂奔して淀方面に走った。隊列の後方と前方が撃たれた。つづいて中軍の砲車が破壊された。歩兵たちは左右の田に転がり落ちたり、少ない民家の陰に隠れたり、負傷者を担いだりしながら大混乱におちいった。のちに即死した者が20名近くあったということが目撃談にある。
 逃げる旧幕府歩兵たちをまとめて反撃をさせようと声をからす指図役(さしずやく・将校)や見廻組の隊士たち。街道上から左右の枯れ田に転がり落ちる歩兵もいた。それを狙撃する薩摩小銃隊。距離はわずかに100メートルほど。指揮官は次々と撃たれた。
 大規模な敗走にならぬように奮戦したのは、刀槍装備の京都見廻組(きょうとみまわりぐみ)だった。彼らは幕臣の2・3男で構成され、西洋銃隊の訓練は受けていない。新撰組と同じく、治安警察隊、せいぜい警察軍といっていい。それが果敢にも白兵戦を挑んで、薩摩軍の西洋銃隊に突撃をした。
 ところが、英式訓練が行き届いた薩摩小銃隊は4列密集射撃で対応する。村田経芳の体験談では部下80名を横列にした。横20名、縦4列である。
 互いの間隔はほぼ1メートルで、正面から見れば約20メートルである。第1列は膝撃ちの構えで銃剣を着けたまま発砲する。そのまま銃尾を地面につけて「折敷(おりしき)」の姿勢をとる。左膝を立て、右膝は曲げて尻をその上に載せる。第2列が続いて発砲。右手で第3列から装?済みの銃を受け取り、発砲後の銃を左手で第3列に渡す。第3列は第4列の兵に渡し、第4列は銃口から弾丸をこめる。撃つのはいつでも第2列の兵だけである。射撃の成績の良い者が撃つ。装?が巧みな者は最後尾になる。
 およそ50メートルで撃たれた。バタバタと見廻組は倒れる。せっかく接近しても第1列の銃剣の槍衾(やりぶすま)に刺されるか、立ち止まるところを至近距離で撃たれた。熟練した銃兵は1分間に3発の発射速度を守る。武装して接近戦用に鎧・兜や鎖帷子(くさりかたびら)を着ていれば、50メートルの距離を走るには20秒以上がかかったことだろう。

奮戦するシャスポー銃

 そうこうしているうちに当初の混乱から旧幕府軍は立ち直りつつあった。洋式装備の桑名藩砲兵の奮戦だった。彼らは果敢にも数百メートルの距離で薩摩兵に砲弾を浴びせたのである。また、伝習兵らしい奮戦の様子が薩摩側の記録にもあると野口氏は書く。そのまま引用しよう(『鳥羽伏見の戦い』中公新書)。
「殊(こと)に不意を打たれ大崩れ相成り、先手(さきて)は蛛(くも)の子を散らすが如く遁(に)げ去る。しかれども、かねて名を惜しみ候者(そうろうもの)にやありけん1小隊ばかり味方の崩れ立つも顧(かえり)みず、殿(しんがり・最後尾)して道のかたわらなる藪の中より小銃込め替え込め替え打ち立つれども・・・」
 小銃を「込め替え込め替え」というのは射撃速度が高いことをいう。味方の敗北する状況の中で撤退せず、薩摩兵の追撃を阻止しようと竹藪のなかから小銃を撃ちつづけた。実際、夜もふけてゆき、薩摩兵はこの小銃小隊の遅滞戦闘に悩まされた。
 この夜、7回もの夜襲があった。深追いをせず、小枝橋周辺を防衛ラインにした薩摩隊はそのすべてを撃退したのである。背景に燃える民家の炎、それに浮き上がる旧幕府軍、薩摩兵の姿は見えなかった。せっかくの後装銃をもっていても、その高性能を活かすことができなかったのだ。

伏見奉行所の銃砲戦

 まったく同じころ、鳥羽の戦場から南東、伏見の町で両軍は睨み合っていた。現在でも地勢はほとんど変わらないので、現地を歩くと戦いの様子をすぐに再現できる。伏見の町は古くからの河川交通の重要ポイントだった。そこを監視する伏見奉行は旧幕府では京都・大坂の両町奉行に次ぐ要職である。
 現在の地図から当時の様子をうかがってみよう。JR奈良線の桃山駅前の桃山御陵参道(ももやまごりょうさんどう・桓武天皇陵)を西に向かうとすぐに奈良へ向かう大和街道とほぼ直角に交差する。そのままさらに西に向かうと右に桃山天満宮と御香宮(ごこうぐう)神社がある。神社の西端は近鉄奈良線の桃山御稜前駅があり、50メートルもいかないうちに京阪電車本線の伏見桃山駅になる。そこからは道は賑やかな商店街になり、そこを大手町筋という。
 新政府軍は高台にある御香宮に、旧幕府軍はその目の下100メートルあまりにある伏見奉行所に主力を置いていた。奉行所はその河川の管理上、南端が堀川の水路から宇治川に接する。奉行所の正門は西である。石垣が築かれ、長屋門をもち、両端には隅櫓(すみやぐら)まであげた城郭風のこしらえだった。この正面には、今につながる町屋がつまった碁盤の目のような市街地が広がる。そのまま西に進めば新町通りと交差して、すぐに今は黄桜酒造(きざくらしゅぞう)や寺田屋がある。坂本竜馬が襲われた宿であり、薩摩藩の急進派が粛清された悲劇の場でも知られる。近くに京橋があり周辺を京町という。現在、観光客でにぎわう繁華な場所だが、わずか150年前にはライフル弾が飛びかう激戦場だった。
 奉行所の北、大手町筋に面してやはり門があった。そこから見ると御香宮の森は200メートルもないような近さである。東側は人家もまばらで、そのまま桃山御陵まで傾斜地に畑が広がっていた。旧幕府陸軍総司令官の竹中丹後守はこの奉行所の中に司令部をおいている。
 問題は、すでにやる気満々の薩摩兵はすでに1月3日の朝には、奉行所を包囲する配備をとり終っていたことだ。まず、桃山の台地には英国式6ポンド砲2門をおいて、大手町筋を射界におさめていた。台地南端の西雲寺(さいうんじ)に携臼砲2門を配置、奉行所南端を撃てるようにしている。西雲寺は現存し宇治川のそば、名所観月橋(かんげつきょう)からも近い。攻勢の正面は奉行所の北である。御香宮には四斤山砲3門と6ポンド砲2門を据えた。門前町の民家をこえて奉行所に砲弾を撃ち込もうというわけだ。
 東から攻撃する小銃隊は3個。4番隊、1番隊それに外城4番の半隊である。北側、大手町筋方面には東から3番隊、2番隊と加えて外城4番の半隊が並び、まなじりを決していた。そのさらに東に長州兵2個中隊、これが奉行所外にいた東御堂の会津兵と向き合い、竹田街道を警戒する土佐藩兵がいる。
 伏見奉行所内には司令部のほかに、歩兵第7聯隊の1大隊、第12聯隊の1大隊と伝習第1大隊がいたと思われる。洋式歩兵は3個大隊。これに土方歳三(ひじかた・としぞう)が指揮する新撰組が150名、旧京都町奉行所の与力・同心で編成された遊撃隊50名である。これらは銃の操作も教えられ、一通りのことはできただろうが、銃隊の集団戦法などはできなかっただろう。
 さらに会津藩兵がいた。この藩は京都守護職として政争に直面し、莫大な支出を強いられ、おかげで洋式装備が進まなかった。剣や槍で武装した旧式装備部隊が4隊おり、砲兵隊が8門を備えた。また勇戦して高名な佐川官兵衛(さがわ・かんべい)が率いる別選組1隊がいた。これに高松藩、鳥羽藩、濱田藩などの諸藩兵が加わっている。
 ここでも戦端は新政府側が開いた。伏見街道上の関門を通せ、通さないの押し問答をしているうちに、西から鳥羽の戦場の砲声が届いたのである。薩摩軍の9門の大砲はすぐに射撃を開始した。新撰組と遊撃隊はすぐに白兵戦を挑もうと北門をあけて突撃する。
 年内はこれが最後のメルマガです。1年間のお付き合いありがとうございました。
 来年は第2週から配信、「硝煙(しょうえん)地を覆(おお)うて咫尺(しせき)を弁ぜず」という黒色火薬の銃砲戦と市街戦の様子を紹介します。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(2018年(平成30年)12月26日配信)