陸軍小火器史(42) 番外編(14)─だんだん軍隊らしくなる武装組織ー

ご挨拶

 この季節、陸上自衛隊は年に一度の「富士総合火力演習」が行なわれます。今年は18日の日曜日に教導団家族招待、22日(木)には予行演習、24日(土)は学校予行、そして25日(日)に防衛大臣の観閲も受ける本番です。
 今年はわたしも私用で25日にはうかがえず、24日の予行にお邪魔しました。休息用テントには佐藤正久外務副大臣が見えていて、久しぶりにゆっくり話せて、写真も撮ることができたのです。行事などではよくお目にかかるのですが、人気者の副大臣、なかなか話す機会もありません。
 そのうち金髪に迷彩服を着た偉丈夫がテントに入ってきました。もちろん迷彩服の下は原色のTシャツ。どこかで見た人だな~とよく考えたら芸能人のカズレーザーさんでした。自他共に認める自衛隊ファンとのことで、カメラとマイクを持つ人を従えた登場です。でも、熱心に広報とは話をしますが、他の同席者には目もくれないという態度でした。
 こちらも彼には肖像権もあり、仕事かとも思うので声もかけませんでしたが、何の番組になるのでしょうか。楽しみです。演習中は報道席の前列に行かれていました。

関係者の声

 後藤田正晴(ごとうだ・まさはる)という高名な政治家がいた。1914(大正3)年に徳島県に生まれる。東京帝国大学法学部政治学科卒業。内務省に入る。兵役は台湾歩兵第1聯隊、経理部甲種幹部候補生に合格し、同第2聯隊に移る。陸軍主計中尉で敗戦。ポツダム進級で主計大尉へ・・・とウィキペディアなどに書かれているが、ほんとうかどうか。復員後は内務省に戻り、省が廃止されると警察庁に入った。
 ポツダム進級ということも解説しておこう。これは陸海軍の解体を予想して、特別に昇任させたことを言うらしい。実際、海軍上等下士官だった人が准士官である兵曹長などに進んだとか陸軍軍曹だった人が曹長になれた、あるいは上等兵が兵長になどという話はよく見聞きした。それは、准士官以下の任免や進級は、高等官衙や団体の長があつかうからである。たとえば師団長は隷下部隊の准士官・下士官・兵の進級は許可できる。もともと「判任官」というくらいだったからだ。
 ところが主計中尉となると高等官である。人事は陸軍大臣が上申し(奏問する)、天皇陛下の裁可を受けて効力を発する。つまり、軍司令官の大将だろうと中将だろうと、師団長だろうと、そんな権限はもっていなかったのだ。しかも、敗戦当時、「将校はみな戦争犯罪人として収監され、罰せられる」という噂があり、そんなときにわざわざ階級を上げる(つまり軍隊では階級の上の者ほど責任も権限も大きい)という危険な目にあおうとするだろうか。まあ、1940(昭和15)年に入営、2年後に主計少尉、おそらく戦時だから満2年で中尉になったというのがほんとうのところだろう。
 予備隊の発足時には警察庁から出向して警備局警備課長兼調査課長を務めた。警備課長というのは、米軍流に言えば、G3つまり運用や作戦担当の幕僚である。部隊編成から作戦、業務計画などが仕事の正面、調査課はG2、つまり調査や情報収集、謀略などを行なう。後藤田氏の回顧では(陸上自衛隊の50年)、現在のような情報はなく、もっぱら予備隊への左右両勢力からの潜り込みを警戒していたという。
 回顧談の中に、あまりにナマな証言がある。一部を抜粋したい。
「部隊の編成にしろ何にしろ、すべてGHQの指示を仰ぎながらやるわけですが、私が米軍からもらった編成表を見たところ、これが文字通りアメリカの歩兵師団の編成なんだな。違っていたのは戦車連隊ぐらい。アメリカだと完璧な戦車連隊が歩兵師団の中にあるんですが、これはさすがに1個大隊に縮小してあった。それ以外はオーバーシーの軍隊なんですな、州兵師団なんかじゃない。アメリカは一体、何を考えているんだという気持ちになりましたね。この編成表を見た時に」
 オーバーシー、つまり海外遠征用の軍隊ということだ。さらに証言は続く。
「今でもはっきり覚えているのは、フローズン・カンパニーというのが書いてある。フローズン、凍るというやつ。直訳すると冷蔵中隊だ。要するに戦死者を収容して内臓を取り出し、遺体を氷詰めにして本国に送るわけですよ。彼らは火葬にしませんからね」
 ここで後藤田氏は吉田茂の英断と、彼があくまでも硬骨漢であったことを賛美する。ほおっておいたら、朝鮮戦争に連れて行かれたというのである。吉田は米軍やGHQとの折衝にあたって、決して譲らなかった。戦後復興を優先する、そういった信念が大変よかったというのである。
 しかし、話の中ではさらにこう続けている。
「純粋に軍事・防衛の観点からいえば、警察予備隊のこういうあいまいな、軍隊か警察か性格のはっきりしない生まれ方はよくなかったと思う」
 予備隊や、その後身の保安隊、そして陸上自衛隊は、のちに国会の場で『戦力なき軍隊』と表現され、いまのふつうの「国家の軍隊」の形をなしていない。ふつうに憲法を読めば、交戦権も否認し、陸海空軍ではないという読み取りは正しいだろう。ただ、米国人に言わせれば、「現実に合わせて、日本人は自分で改正するだろうと思っていた」という。

管区隊とのちの師団番号

 大森寛(おおもり・ひろし)という草創期の将官の証言がある。公職追放になり、予備隊の発足時に入隊した内務省の文官から転身した人である。1907(明治40)年に生まれ、東京帝国大学法学部卒、内務省に入省、警察畑を歩き敗戦時は千葉県警察部長だった。昭和20(1945)年10月に警察部長と特高関係警察官はみな公職追放になった。弁護士などをしていたが予備隊発足の話で、内務省の先輩のつてで入隊した。
 当時、予備隊の上層部はみな内務省の出身者だった。陸軍関係者、元武官は絶対に入れるなという時代である。まず、総隊総監(制服のトップ)は林敬三氏、第1管区総監は内務省の1期先輩の吉田忠一氏、第2管区総監は同期の中野敏夫氏、第4管区総監は大学で2年先輩の筒井武雄氏である。
 第1管区とは米陸軍師団が真っ先に出征したために空白となった東京を中心にした部隊である(これを第1管区隊という)。第2管区隊は続いて朝鮮に出た米軍師団のあと、北海道旭川に司令部を置いた。第4管区隊も米軍師団が最後に出た駐屯地である。福岡に司令部があった。残っていたのは第3管区であり、そこの総監を大森氏は拝命した。
 階級は役人としての空白が5年あるので、警察監補だった。いまでいう陸将補である。つまり米軍をはじめ国際的にはMajor General 陸軍少将にあたる。赴任先はと聞くと、増原長官は、「とにかく西の方に行ってくれ」とのこと。「西の方」とはとにかく大阪か兵庫なので、まず大阪に行き、続いて兵庫に行った。
 各管区隊の担当する地域は、1管が静岡から東北地方一帯、2管は北海道、3管は愛知県以西の山口県を除いた本州全部と四国、4管は山口県と九州全域だった。こうしてみると、1から4の番号は「意図的に旧陸軍の師団番号と変えた」というのが誤った見方ということが分かる。
 管区隊の司令部はどこへ置くか、1管は練馬(現在の東京都練馬駐屯地)、2管が札幌市内の警察施設(中央区札幌駐屯地)、4管は福岡の米軍施設(福岡県春日市、福岡駐屯地)と決まり、3管は兵庫県伊丹市の管区警察学校の移転跡地(伊丹駐屯地)になった。これらはいずれも、現在は第1師団司令部、北部方面総監部、第4師団司令部、そして中部方面総監部になっている。
 1951(昭和26)年の秋には伊丹に総監部が出来あがった。その頃には、M1カービン、戦車であるM24なども支給されるようになった。機関銃や大砲はその後だったという。このM1カービンは「騎兵銃」のことである。30-06(口径30、7.62ミリ)を撃つM1ガーランド・ライフル(小銃)とは異なり、軽量で短い、ただし口径30の弾を撃つ指揮官や車輛部隊用の装備だった。
 テレビ映画『コンバット』を観た記憶のある方はいるだろう。カービーやフランス系の歩兵はM1ガーランドをもち、大男のリトル・ジョンはブローニング・自動小銃(BAR)をかつぎ、小隊長のヘンリー少尉はこのM1カービンをもっていた。BARは分隊の支援火器といわれた軽機関銃である。そうして分隊長のサンダース軍曹は、口径45のトンプソン・サブ・マシンガンをもっていた。

現地戦術での素人の大失敗

 「訓練はすべて米軍のアドバイザーの指示、米軍のマニュアルに従ってやりました。伊丹にも米軍の陸軍大佐がいまして、私の部屋に毎日やって来ては、ああやれ、こうやれという。訓練のやり方だけでなく、武器の保管の仕方に至るまで細かく指示する。私としては必ずしも、なるほどと思うことばかりではないので、意見が対立すると林総監(東京の越中島の予備隊総本部にいる)に電話をして、アドバイザーはこんな無茶を言っているが、承服できない、というわけです。すると、中央がGHQと相談してくれて、こういうふうにやったらどうか、と。そんなことが何度かありました」
 中央としても米軍の新しいところは取り入れなければならないが、旧軍のいいところも必要だという考えから、参考資料として日本軍の使っていた統帥綱領とか歩兵操典なんかもくれた。両者を合わせて伝統を築いていこうという気持ちが当時はあったように思うと大森氏はふり返る。
 大きな失敗もしたらしい。林総監から「君たちは軍事を知らないから」と集められ、関東平野で4人の管区総監(つまり師団長)が現地戦術を行なった。司令部の部屋の中で、地図を見ながら作戦を立ててゆくのを図上戦術という。これに対して、現地戦術とは指揮官たちが実際に仮想戦場である現場に立って、「指揮官の決心はいかに」とやり合うわけである。
 利根川をはさんで両軍が対峙している。大森総監は「私は単純に、さっそく渡河する」という大失敗を犯した。旧陸軍の統帥参考書にも「大河は敵に遠くまたぐべし」とあった。天然の大要害である大河を正面から押し渡れば、その行動が不自由なうちに大損害を出してしまう。「軍人じゃないとはいえ、そういうことも知らなかったんですよ」と大森氏は失敗を正直に告白している。
 次回はもう少し若い方の体験談をみてみよう。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(令和元年(2019年)8月28日配信)