陸軍小火器史(43) 番外編(15)─治安維持から防衛部隊へー

訓練と装備の充実

 葛原元1佐の論文を参照(『警察予備隊の創設と日米軍事思想の葛藤』陸戦研究・2010年8月・陸戦学会)すると、隊員の教育訓練内容と装備の充実は6期に分けられた。
○第1期 1950(昭和25)年10月~51年1月14日(13週間)
 各個訓練、小火器取り扱い、教育法、治安維持行動
 装備はM1カービン銃 車輌480輌
 各個訓練とは徒手によるもの、小火器をもった行動などである。
○第2期 1951年1月15日~5月19日(18週間)
 中隊訓練、小部隊訓練、法規教育、教育法、射撃訓練
 装備は2月~3月にかけて、重機関銃、軽機関銃、60ミリ迫撃砲、75ミリ無反動砲、4月から対空自走機関砲M15、同M16A1
 中隊での行動をとれるようにする。装備がいよいよ本格化しているのが分かる。
○第3期 1951年6月4日~10月6日(18週間)
 大隊訓練、新部隊編制による訓練、治安行動演習
 7月には車輌が2130輌 9月からは拳銃、小銃、自動銃、81ミリ迫撃砲
 自動銃とは分隊支援火器であるブローニング・オートマチック・ライフル(BAR)のことである。箱弾倉で列国の軽機関銃の代わりだった。
○第4期 1951年10月8日~52年1月19日(13週間)
 職種別訓練 技術部隊・管理部隊などを含む職種訓練
 アメリカ軍施設内において衛生・施設・補給・通信・武器・化学特技教育
○第5期 1952年2月4日~6月13日(19週間)
 大隊訓練、特技訓練 小部隊統合訓練、重装備訓練(群馬県相馬が原)
 装備は3月から89ミリ無反動砲が加わる。
 アメリカ軍施設内において火砲・戦車・重迫撃砲訓練(107ミリ)
○第6期 1952年6月23日~9月30日(13週間)
 連隊訓練、連隊の野外行動訓練 
 装備は8月からM24軽戦車、105ミリ榴弾砲、車輌1万5000輌、10月から155ミリ榴弾砲
 このことから第3期までは警察部隊としての治安対策訓練が主になっていることがわかる。「講和条約調印」(1951年9月8日)より後になる第4期以降は職種(兵科)別の特技訓練が入り、軍隊としての専門性が始まってきている。
 職種という言葉は旧陸軍では兵科・兵種といったが、アメリカ軍はブランチ(branches of service)という。予備隊は軍隊ではないということから、兵科のことを職種と言い換えた。それが現在も続く、普通科(歩兵)、野戦・高射特科(野戦・高射砲兵)、警務科(憲兵)、施設科(工兵)といった不思議な用語である。兵器の「兵」も使えなかったから武器とだけいい、戦車は戦うからいけないので特車といった。

米式装備の伝承

 M1カービンは口径30-30というのは1インチ=約2.54センチの30%という意味である。したがって7.62ミリということになる。全長は903ミリ、銃身長は457ミリでしかない。重量も15発、30発の箱弾倉を除くと2.5キロと、4.3キロのM1ガーランド小銃と比べても、およそ6割である。弾も専用で、装薬も少ない。最大射程も2000メートルだが、命中を期待できて威力もある有効射程は300メートルといわれた。のちに指揮官用の自衛火器、車輌部隊の装備となった。
 機関銃はM1919A4といわれた。1919(大正8)年にブローニングにより設計された。空冷で反動利用、ベルト式給弾の故障が少ないと評価された。全長964ミリ、銃身長609ミリ、重量は14キログラム。M1小銃と同じ30-06といわれた弾薬を使った。この改良型のA6もあった。こちらは全長1364ミリ、銃身長は610ミリで重量は14.7キログラムだった。最大射程はどちらも3200メートルである。
 重機関銃はキャリバー50、口径50すなわち12.7ミリだった。M2ともいわれた。全長1654ミリ、銃身長1143ミリ、重量は銃架を除いて38.1キログラム。現在も改良型が世界中で使われている。最大射程は6800メートル、有効射程が1200メートルといわれる。対空、対車両用の頑丈な重機である。
 75ミリ無反動砲の口径は野戦砲なみだが、当時の戦車にはなかなか有効ではなかった。しかし、軽量だったので携行するにはバズーカ(ロケット発射筒)並の容易さだった。全長は2085ミリ、砲身長1654ミリ、重量は76キログラム。給弾は手動で単発、有効射程は移動目標には500メートル、地域目標は1000メートルとある。対戦車榴弾の重さは2.6キログラム、普通榴弾は3.1キログラム。初速は350メートル/秒だった。
 迫撃砲は3種類が供与された。60ミリのM1は重さが23キログラムしかなく、1人でも運搬して射撃できるといったものである。砲身長は830ミリ、発射速度最大40発/分、最大射程は1800メートル、最小は200メートル。初速は160メートル/秒。現在は使われていない。
 81ミリ迫撃砲は砲身長1276ミリ、重量は61.5キログラム、発射速度30~35発/分。最大射程3000メートル、初速174~214メートル/秒。4人で操作することができた。陸上自衛隊ではいまも改良、国産化されたものが普通科(歩兵)連隊普通科中隊の中に迫撃砲小隊(4門)がある。
 107ミリ迫撃砲M2は砲身長1285ミリ、重量160キログラム、発射速度最大20発/分、最大射程4000メートルである。陸上自衛隊でも、120ミリ迫撃砲が採用されるまでは、普通科(歩兵)連隊の重迫撃砲中隊が装備していた。朝鮮戦争では榴弾にVT信管をつけて地上5~10メートルで炸裂させて中国軍歩兵の人海戦術を撃退した。
 105ミリ榴弾砲は操作員が10人、トラックで牽引された。1個中隊は4門が配属された。全長5900ミリ、砲身長2360ミリ、重量2300キログラム。発射速度は30秒で4発とされ、最大射程は1万1600メートル(榴弾のとき)。着弾しての有効範囲は30メートル×20メートルである。「ジュウリュウ」と略称され、現在、陸上自衛隊では儀礼用の祝砲などに使われている(もちろん、改良、国産化されたもの)。
 155ミリ榴弾砲は、全長7200ミリ、砲身長3780ミリ、重量5700キログラム。着弾による有効範囲は45×30メートルで最大射程は1万4900メートルだった。このいわゆる「ジュウゴリュウ」は、10センチ榴弾砲の威力とは格段の違いを見せる。弾丸重量も43キログラムになり、12人が操作にあたった。牽引したのは13トン牽引車というクローラー機動のものである。
M24軽戦車は、チャーフィーの愛称をもつ75ミリ砲装備の軽戦車である。重量は18トンだった。日本人の体格や国土にぴったりだったという回想も見られる。当時の代表的な自動車メーカーのキャデラックのエンジンが2つ載り、トルクコンバーター式の変速機であり、操縦しやすかった。75ミリ戦車砲は前大戦末期に航空機搭載用(B25軽爆撃機)のコンパクトな、対戦車戦闘には非力なものだったが、偵察用戦車にはぴったりだった。
もう一つ、個人装備にふれておこう。拳銃である。上級指揮官や砲手、戦車搭乗員用の護身用補助火器の拳銃は、口径11.43ミリ(キャリバー45)のM1911A1だった。生産開始されたのが1911(明治44)年とはいうものの、その故障の少なさ(ブローバック式)、頑丈さ、安全性の高さで当時も米軍の主力拳銃だった。全長218ミリ、銃身長128ミリ、重量は弾倉付きで1.09キログラム。大きく、重かった。有効射程は50~80メートル。
このように、警察予備隊の装備は大戦末期のアメリカ軍のものだった。また、車輌もかなり供与され、予備隊の管区隊(後の師団)の火力は、その人員こそ約8割と少ないものの、旧陸軍師団より圧倒的に強化された。火力の基準となる1分間の発射弾量は旧軍の3倍、対戦車火器は10倍、車輌は5倍となっていた。
葛原氏の指摘によれば、この管区隊の装備の質・量は、ほぼソ連軍狙撃(歩兵)師団に匹敵していたという。

マッカーサーの焦り

 朝鮮戦争はやまなかった。北朝鮮軍を押し返しても、「義勇軍」という名の中国軍が増援されてきた。1950(昭和25)年11月25日のことである。ようやくカービン銃7万5000挺しかもっていない警察予備隊が各個訓練を始めた頃だった。中国軍が中朝国境の鴨緑江を越えて進撃を開始した。その兵力は30万人である。『マッカーサー回想記』によれば、中共全体の無限の力にソ連の補給面での援助が加わっていると書いている。
 ここにいたって、マッカーサーは昭和26年1月、「警察予備隊へ交付するべき兵器リスト」を作成した。そこにはなんと、ソ連が中国や北朝鮮に供与したT34/85に対抗できたM26パーシング戦車(90ミリ砲)を含み、アメリカ陸軍歩兵師団4個に相当する装備がそろっていた。
 次回は新しい幹部教育と重装備教育の進捗を詳しく見てみよう。
 
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(令和元年(2019年)9月4日配信)