陸軍小火器史(44) 番外編(16)─旧将校たちの入隊と編成思想ー

陸軍省への要求

「警察予備隊への装備品の交付は緊急である」といい、本国の陸軍省へマッカーサーは、1951(昭和26)年1月3日、次のような要求をした。
(1)火砲…M2A1 105ミリ榴弾砲228門、M1 155ミリ榴弾砲76門
(2)対戦車火器…3・5インチ(89ミリ)ロケットランチャー2198門
(3)戦車…M24(75ミリ砲)36輌、M26(90ミリ砲)307輌、M4A3(76ミリ砲)25輌、M45(105ミリ榴弾砲)31輌
(4)支援戦車…M32戦車回収車41輌、MTngドーザー31輌
(5)対空自走砲…M16(12・7ミリHMG×4)135輌、M19(40ミリ×2)135輌
 以上で火砲は304門、戦車は399輌、支援戦車91輌、対空自走砲270輌でクローラーをつけた装軌車輌は合計で760輌。まさにアメリカ軍の4個歩兵師団の装備とほぼ同じものだった。

配備を要求されたM26パーシング戦車

 読者の皆さんの中には、陸上自衛隊が過去装備したアメリカ製の戦車が、M24軽戦車とM41同、そうしてM4中戦車だったことをご存じの方も多いだろう。また詳しい方なら、戦車部隊には戦車を改造した回収車が必須なことも常識だろう。損害を受けた戦車は回収し、後方で修理する。そのためにクレーンなどをつけたリカバリーと通称される回収車が必要なのだ。
 また、ドーザーも必要である。土工作業用のブルドーザーは装甲されていない。そこで戦車の車体にスペードを付けたドーザーがあった。これで火を吐く敵の機関銃陣地などをつぶしてしまう。これがMTng ドーザーである。
では、もう1つのM26とはどんな戦車だったのか。その装備する90ミリ砲とは、わが国では1961(昭和36)年に制式化された61式戦車が初めて装備した大口径のものである。
もし、この要請が認められたら300輌以上も供与されることになったM26とは次のような背景を背負った強力な戦車だった。
1943(昭和18)年2月、アフリカ、チュニジア戦線のシデイ・ポ・ジットでの米独戦車による戦闘はアメリカ軍に自信を失わせた。アメリカ第1機甲師団第1機甲連隊第2大隊のM4A1型中戦車シャーマンは、ドイツ第5戦車軍第10戦車師団ライマン戦闘群に配属されていた独立第501重戦車大隊第1中隊の6号E型重戦車ティーガー1と遭遇したのである。
 M4シャーマン戦車は戦闘重量30.5トン、37.5口径の75ミリ砲を装備していた。最大装甲厚は91.4ミリである。対して6号ティーガー1型は戦闘重量57トン、56口径の88ミリ砲を装備し、最大装甲厚は100ミリを誇った。
戦車砲は高初速で敵戦車の装甲を貫く。ここでいう口径は砲身長÷弾丸直径である。長い砲身ほど高初速で弾道は低伸する。だから56口径とは88×56=4928ミリの長砲身である。5メートルもの長い砲身の中を十分に装薬によって押し出された砲弾はたいへんな速度を発揮する。対するシャーマンは75×37.5=2812.5ミリ、およそ3メートル。
ティーガーはシャーマンの砲弾をやすやすと弾き返した。対して、シャーマンの装甲はドイツ製88ミリの砲弾によってたやすく貫かれた。ちなみに対戦車戦闘をほとんど考えていなかった日本陸軍の97式中戦車の主砲は18口径の57ミリ砲である。57×18=1026ミリ、およそ1メートルでしかなかった。
当然、アメリカ軍機甲部隊の指揮官からはドイツ重戦車に対抗できる戦車の開発を望んだ。この要求は、1944年11月にT26E3という試作名称で造られた大型戦車によってかなえられた。翌45年3月にはM26型重戦車としてデビューした。愛称はジェネラル・パーシングだった(46年5月には等級変更で中戦車)。
戦闘重量は41.9トン、500馬力を発揮する液冷ガソリンエンジンで最大速度は48.3キロ/時を出した。強力な主砲は高射砲をベースに開発された2重作動砲口制退機付きの50口径90ミリ戦車砲である。初速1021メートル/秒、最大射程は4785メートル、装甲貫徹力は射程457~1829メートルで221ミリ~156ミリという優れた性能を示した。この戦車は朝鮮戦争でもソ連製のT34/85を十分に撃破した。

北朝鮮軍のT34/85戦車

 第2次大戦に参加したソ連軍の主力戦車だった。主砲は42.5口径の76.2ミリ砲を搭載した。これの改良型が1943年から配備された54.6口径の85ミリ砲を載せたT34/85だった。戦闘重量は32トン、液冷ジーゼル500馬力を発揮し、最高速度は55キロ/時、最大装甲厚は120ミリにも達していた。
 朝鮮戦争で韓国に侵攻した北鮮軍は、このソ連から供与されたT34/85戦車を先頭に立てていたのである。大戦末期にドイツの重戦車群と戦って勝利を収めた強力戦車だった。軽装備で、ろくな対戦車火器も持っていなかった韓国軍は敗走するしかなかった。第2次大戦で使われた60ミリの対戦車ロケットランチャー(バズーカ砲)はほとんど効果がなかったのである。
 1月7日にはマッカーサーの要求に対しての返答が国防省からやってきた。「戦車や榴弾砲を装備する重師団ではなく、軽装備の師団ではどうか」というものだった。翌日にはマッカーサーはさらに要請した。韓国の軽量化師団は、戦車に支援された北朝鮮軍の進撃にまったく無力だった。中戦車と少なくとも榴弾砲をもたない警察予備隊では、共産ドクトリンによって装備され訓練された外国軍隊の侵攻にはまるで不十分というのだ。
 この指摘は2月9日、アメリカ統合参謀本部の基本的承認を受けた。しかし、肝心な重装備化は国務省によって反対を受けた。連合国の極東委員会、つまりソ連や中国も含めた対日占領政策を合議する機関から再軍備化への反対が出ていたのだ。ソ連や中国は、当然、日本が軽武装の方がいい。自分たちが後押しする北朝鮮軍に有利である方を選ぶのは当たり前だった。

旧軍将校達の復帰

 1951(昭和26)年3月、少尉任官が敗戦直前の陸軍士官学校第58期生の募集が始まった。旧軍の悪習に染まっていないだろうという見積もりからだった。6月1日には選ばれた245名が第1期幹部候補生として神奈川県久里浜の総隊学校に入校した。ここで幹部幕僚教育を受け、1等(後の1尉)、もしくは2等警察士(2尉)に彼らは任官したのだ。
 『陸上自衛隊の50年』には陸士60期に在校中に敗戦を迎えた佐々木宗興将補の回想が載っている。埼玉県朝霞(現在は東京都練馬区と朝霞市にまたがる)にあった陸軍予科士官学校。敗戦時には疎開の意味もあり、埼玉県寄居(よりい)町に演習隊として移動していた。中学校の同期生で海軍兵学校に在学中の人は卒業資格を得て郷里に帰ったが、陸士ではそうはしなかった。その方が占領軍の追及が及ばないだろうと考えたのかもしれない。
 佐々木将補は1950(昭和25)年10月に入隊、階級が整備されたのは翌年1月、幹部はすでに前年末に任用され、下士官以下はこの1月に選考された。佐々木氏は2等警察士補(のちの2等陸曹)になった。当時は元中尉や少尉がいて、そのうえ、下士官出身者も多かった。「お前みたいに若いのを1ポ(1等警察士補)にしたら、古い連中にすっ飛ばされるから」と人事係から耳打ちされたという。その後1953(昭和28)年3月、3等保安士(保安隊時代の階級、後の3等陸尉)になった。
 こうした間にも、追放を解除された旧軍将校たちの入隊が始まった。1951(昭和26)年3月には陸士58期生(元少尉)たちが入隊、続いて陸士53期相当以上の元少佐、元中佐級の募集が行なわれた。53期生というのは1940(昭和15)年2月27日に陸士本科を卒業した。航空士官学校へ進んだ同期生は同年6月21日に卒業、大東亜戦争中は主に大尉級である。それより以上の佐官たちだから、50期くらいが主流だったらしい。敗戦時には20代後半から30代である。また、相当だから、陸軍経理学校や海軍兵学校、同機関学校卒業などの正規将校たちだった。
 この人たちの多くは野戦で活躍し、おびただしい同期生を失っている。前にも登場した大本営の参謀部などにいた服部卓四郎大佐たち、再軍備の中心になろうとしたエリートたちへの不信感はみなが持っていた。無駄に兵を殺した、できもしない作戦を立てた、恥を知れなどと反感を隠さない人たちも多かったという。
 10月1日、405名もの元佐官たちが入隊した。階級は警察士長(のちの3等陸佐、少佐)、2等警察正(同2等陸佐、中佐)である。さらに12月7日、407名の尉官が採用された。こうして1951年末(対日講和条約調印後)には、旧陸海軍将校の入隊者は約1000名を数え、幹部約5000人のうち5人に1人の割合にもなった。

「警察軍」から「日本防衛部隊」へ

 アメリカ統合参謀本部は、在日米軍と将来設置する「日本防衛部隊」との役割分担に次の項目を加えた。米国と共同して外敵からの日本の防衛を維持する、そうして部隊をさす文言を「Constabulary(警察軍)」から「Japanese Defense Force(日本防衛部隊)」に変更した。
 あわせて重装備の訓練が始まったわけだが、それについては吉田茂首相とリッジウェイ大将との間で何回か話し合いがもたれた。リッジウェイは本国との対立で離任したマッカーサーの後任になる。吉田は米軍の施設内であれば、重装備の訓練もできるといった。そこで総隊総監部は3月12日から「相馬原特別教育隊」の設置を行なった。群馬県榛東村の相馬原は元陸軍前橋予備士官学校の跡地である。後に陸上自衛隊第12師団の司令部が置かれ、現在は空中機動旅団たる第12旅団の司令部と飛行場がある。
 この年(1952年)4月28日が対日平和条約の発効の日だったが、すでに4月7日には戦車や重迫撃砲の教育・訓練が始まった。このときGHQ訓練部の見通しでは、およそ9~11か月で妥当な戦闘力のレベルに達するだろうとなっていた。

作戦思想と装備

 装備というのは火砲や戦車といった大きなものから、軍靴、靴下といった細かなものまで、その国の作戦思想から生み出される。たとえば、30年式歩兵銃は広大な満洲で戦うためにその銃身長が決まり、携行弾数を増やすために6.5ミリといった小口径にもなった。ところが葛原元1佐は次のように指摘されている。
「部隊を創設するにあたって作戦思想が部隊の編成装備を先導していくのが通常であるが、警察予備隊の場合、米軍の編成装備が作戦思想に先行していたといえる」
 管区隊(のちの師団にあたる)の編成は次の通りである。
 普通科(歩兵)連隊は3個普通科大隊(合計12個中隊)、需品科部隊、衛生科部隊、施設科(工兵)部隊を合わせ持っていた。
 特科(砲兵)連隊は3個105ミリ榴弾砲大隊(54門)、1個155ミリ榴弾砲大隊(18門)、高射特科大隊(自走高射機関砲48門)で成る。
 戦車大隊はM24戦車3個中隊(60輌)。
 偵察隊と施設大隊、輸送大隊、通信大隊、衛生大隊も隷下にもっていた。
 これはまさに米軍流の「連隊戦闘団」を構成して戦う編制だった。つまり1個歩兵連隊には戦車1個中隊、1個特科大隊、施設中隊、高射中隊を配属し、コンバット・チームで戦うための組立てになっているのだ。
 ただし、アメリカ軍の師団が定員1万7150名に比べて、1万2700名になっていた。これは、155ミリ榴弾砲大隊がなく、普通科連隊に固有の1個重戦車中隊が3個欠になっているためである。また、日本内地で戦うという前提から、後方支援部隊が大きく削られていたことによる。
 とはいえ、葛原元1佐の指摘の通り、対機甲火力が無反動砲556門、対空火力が3個中隊48輌を持ち、それだけでも旧陸軍の火力を圧倒的にしのいでいる。旧陸軍の対戦車火力は3単位制師団の場合、3個歩兵聯隊に各1個ずつの速射砲中隊4門があったきりである。また、対空火力はといえば専門の対空機関砲などはほぼなかった。
 旧陸軍師団と比べれば、火砲の数量は2倍、1分間の最大発射速度での発射弾量比では3倍、機動力では車輌数の比で5倍にもなっていた。この単位時間内での発射弾量比というのはよく部隊同士の比較に使われる。たとえば、155ミリ榴弾砲の場合、発射速度は10分で16発となっている。すると、1分間では1.6発となり、弾重が40キログラムなら40×1.6×18門=1.152トンとなる。
また機関銃や小銃もそれぞれ切れ目なく1分間撃ち続けたとして弾重を合計する。予備隊管区隊は13.4トンとなり、これが約4トン少しだった旧陸軍師団と比べれば、人員数ではほぼ8割なのに発射弾量は約3倍にもなっていた。
 しかも歩兵連隊に砲兵大隊、高射小隊、戦車中隊、工兵小隊などを配属して、「戦闘団」(コンバット・チーム)を作らせて、「戦闘団長=歩兵連隊長」が指揮するというアメリカナイズされた運用を考えていたのだ。
 次回は、朝鮮戦争の推移とソ連軍侵攻への備えをみてみよう。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(令和元年(2019年)9月11日配信)