陸軍小火器史(5) ―小銃弾薬の発達(その2)

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お礼

 MMさま。ご指摘の通り、銃の改革、進歩は恐ろしい速さで進みました。1857年型のスプリングフィールド銃には、ライフリングされたものに改装されたものもあったというご指摘、もっともです。そうして、南北戦争が終わると、あまった銃器・弾薬・装備品も次々とわが国に流入してまいりました。次回では、そのあたりも書く予定です。ひきつづきご愛読、よろしくお願いします。

「文久(ぶんきゅう)の軍制改革」

 陸海軍という名前の起こりは徳川家の軍隊からだった。幕府は急いで軍制を改革しようとした。歩兵・騎兵・砲兵の三兵の創設とゲベール銃の採用、オランダ式の伝習である。
 1862(文久2)年6月に、「軍制改革取調べ」が幕閣へ上申される。幕府は日本全土の防衛を視野に入れつつ、四面海に囲まれた海洋国家であるわが国の特徴から海軍重視を考えていたことは疑えない。
 ただし、当面は将軍直属の親衛軍をつくることから始めようという計画だった。『守備の邏兵(らへい)・幕下(ばくか)の護衛兵等』から編成しようというわけである。邏兵とは江戸の守備兵をいい、幕下の護衛兵とは将軍の親衛軍だった。
『陸軍歴史』の巻二十から解説を見よう。歩兵は重歩兵と軽歩兵に分ける。騎兵・砲兵も同様である。その人員数といえば重歩兵は6381人、軽歩兵は同1868人、重騎兵576人、軽騎兵192人、軽野砲隊は384人、重野砲隊は416人が総兵力である。総人員数は9817人になる。軽重の違いは装備、任務のちがいによる。
 ところが、兵員の徴集ソースをみると興味深い。重歩兵というのは、戦列を構成する小銃(ゲベール)と銃剣を主武器としたものである。総員のうち4781人を6個の「レジメント(聯隊)」にし、1個聯隊を2個大隊(バタリオン)、1個大隊は20伍(40人)の小隊(ペロトン)が10個で構成する計画である。中隊という名称はまだない。1個大隊は旗手1人を除いて399人、12個大隊で4788人になるという。これには指揮官などが加わっていない。
 この戦列歩兵には誰がなったか。兵賦(へいふ)といわれたように、幕臣が身分、禄高に応じて供出した庶民出身者だった。知行500石取は1人、1000石取は3人、3000石取は10人というように、自分が雇った人間を提供したのである。500石取以下は金納とされた。聯隊の所属以外の者は、郭門邏戍(かくもんらじゅ、江戸城各門の警備)や留守部隊になった。
 軽歩兵は御目見以下(おめみえいか)の小普請(こぶしん)、天守番、富士見宝蔵番(ふじみほうぞうばん)や小十人組(こじゅうにんぐみ)といった御家人(ごけにん)、下級旗本である。機動力を重視し、「撒兵(さっぺい)」ともいわれた。小銃をもつ以外に帯刀するのが、庶民出身の重歩兵との違いである。
 よく知られているように、もともと御家人は徒歩兵だった。騎馬の士はふつう御目見(おめみえ)といわれた将軍に対面できる資格のある「旗本」のことをいう。だから重騎兵はどの階層から選ばれたかというと、旗本の150俵以下50俵以上である。それに諸組の与力(よりき)が加えられた。先手組(さきてぐみ、戦時の先鋒)などにいた騎馬の与力はここに組みこまれた。カラベイン(英語ではカービン)といわれた騎兵銃をもつ。騎兵銃とは馬上での取り回し、使い勝手のよいように歩兵銃の銃身を短くしたものをいう。
 西洋の騎兵のように短槍をもつのは軽騎兵。これも下級旗本だが100俵以下から選ばれた。戦闘の基本単位は騎兵大隊(エスカドロン)で1個に96騎、これが6個で576騎が総数。
 重野戦砲兵も軽野戦砲兵も、出身は諸組同心である。同心というのは足軽のこと。指揮官はともかく、砲兵は足軽なみの扱いだった。軽野砲兵は6斤(ポンド)カノンと12拇(ドイム)ホイッスル(榴弾砲・りゅうだんぽう)をもった。カノンは明治になると加農と翻訳されて、直射弾道である。
 榴弾砲は曲射砲、あるいは擲射砲(てきしゃほう)ともいわれ、放り投げるような弾道を描く、現在でも各国陸軍の主力砲である。ドイムはオランダの旧制度の単位で、現在のセンチメートルと同じ。口径12センチの重砲である。6ポンド砲は弾丸重量が約2.7キログラムだった。
 まさに編制といい、装備といいオランダ軍そのままの翻訳だが、数的にもっとも多い重歩兵には「武士」はほとんどいなかった。要するに身分意識が邪魔をして、お侍さんは鉄炮をもちたがらなかったのだ。
 岩堂憲人氏も『世界銃砲史』で指摘されているが、「飛び道具は卑怯なり」という観念がいつから広まったものか。鉄炮は足軽のもつ下級な道具という意識が、江戸期の長い平和をもたらした。そのことは事実だが、戦闘者たる武士が最も有力な兵器の重要さを忘れるとは大変なことである。一方では、有名な薩摩軍制は一人一銃主義であり、馬乗の騎士も鉄炮を重視する伝統は幕末まで残していた。

兵賦令(へいふれい)と実態

 それでは庶民から集められた歩兵隊とはどのような軍隊だったか。「兵賦令」から具体的な姿をみておこう。
(1)銃隊に組織して、いつも陣営に置いておく。
(2)壮健な17歳から45歳までを選び、任期は5年間。
(3)主人(差しだした人)または当人が希望すれば継続任用し、成績の良い者は身分を上げることもある。
(4)名称は「歩兵組(ほへいぐみ)」といい、兵の身分は最下級の御家人である「小揚(こあげ、浅草の幕府米蔵に勤める人足で年給3両1人扶持)」に次ぐものとする。
(5)脇差(わきざし)のみを帯びることができて、決して士分ではないが、装備、被服、脇差(長さは一尺二、三寸=約40センチ)などは官給する。給料は差しだした主人ごとに決めて年に10両を最高とする。食糧も官給する。
 被服については、わざわざ規定が細かい。西洋軍制は制服についてもうるさいのである。まず、野外で行動するから、「雨露霜雪(うろそうせつ)」にもあうから、春冬においては毛織物でなくてはならない。そこで、胴服や股引(ももひき、ズボン)は羅紗(らしゃ)でつくり、これまで火消し役の同心などが用いた形式にする。これが袂(たもと)のない筒袖といわれる上着と、裾の広がらないズボンのことをいう。夏や秋は呉呂(ごろ、粗い毛織物)・木綿などで胴服や小袴(こばかま)を同じ形式でつくる。
 行軍のときは草莽泥濘(そうもうでいねい)の地を選ばず、疾走(しっそう・走り駆けまわる)し、かつ携帯品を減らしたいので、草鞋(わらじ)は断固使わずに、草履(ぞうり)を用いる。草鞋はすぐ痛むので、替え草鞋を背嚢(はいのう)にぶらさげるのはよろしくない。
 帽子についても支給品がある。のちに長州戦争で「鍋かぶり」と言いはやされたように、のちに「たれ」がついた現在のキャップに近い物があった。明治になっての経験者によれば、「(まげを結う長髪では)髪は擦り切れるし、虱(しらみ)が湧いて困った」とある。そうしたことから断髪(ざんぎり頭)にする者もいたらしい。

歩兵屯所の開設

「茶袋(ちゃぶくろ)」たちは市内の屯所で生活していた。ダンブクロという言葉もいまは死語になったが、主に穀物を運搬・保存用につくられた粗悪な袋である。袖のない「筒袖(つつそで)」という上着と腰回りがだぶついた股引袴を穿き、色は元の紺色がさめてくると茶色に見えた。腰には短い脇差をさした歩兵を、江戸の町民たちは茶袋と呼んだ。
 屯所では小隊(20伍=40人)ごとに1棟の兵舎に暮らした。ラッパで起き、定時に訓練を受けた。毎月、実弾射撃訓練をし、春秋に1回ずつ大規模な野外演習をする。もちろん、門には武装した衛兵が立ち、無断外出はできない。ただし、月に6回、休日を設けて兵卒の3分の1ずつ、「終日遊歩勝手次第」という自由行動が許された。
 1863(文久3)年2月、江戸城西丸下(現在の最高裁判所付近)、大手前(同じく東京駅付近)に屯所がおかれた。続いて5月には小川町(同じく神田付近)、7月には三番町(同じく麹町付近)に次々と兵営が設けられた。大名や高禄の旗本たちの屋敷を改装したものである。
 装備品も支給された。羽織(上着のチョッキ)、紺木綿の筒袖(上着)、シャモ袴(ズボンのこと、ダン袋といわれたのはこれである)、それに真鍮製の脇差。これが1本につき5両というのだから、幕末のインフレもものすごい。この他、弾丸や火薬、雷管、草履、胴乱(弾薬や雷管を入れる)、背嚢(はいのう、オランダ式のランドセル)、各種の組紐や手ぬぐいなどにいたるまで、調達する装備品などは多種多様だった。
 この年は森田武氏によれば、陸軍入用に14万6000両、大砲、小銃製造費用に12万両、騎兵砲兵の当番所や兵営の普請費用に4万8000両などが支出されている。
 各屯営では兵士たちの制服に記章をつけさせた。兵営ごとの1~4までの区別である。筒袖服の袖には、丸の中に縦棒で1本から4本の別があるマークを付けた。

西洋銃隊の身体訓練

 江戸時代人は、ふつう走らなかった。左右の手を振って歩くこともない。走ることができたのは特別の訓練を受けた飛脚や、武士では一部の足軽、小者だけである。まっすぐ背筋を伸ばして立つこともなかったし、その必要もなかった。農山漁村では、幼いころから働いた。それでは決まった姿勢、決まった筋肉の使い方しかしない。兵賦でいうような17歳ともなれば、すっかり身体は固くなっていたのである。
 武士は手に白扇をもち、しずしずと歩く。急に雨が降っても走らない。農民は背中と膝を曲げてゆっくり歩く。大工や職人は道具を担ぎ、のそのそと歩く。商人は前垂れに両手を隠して、前かがみになって歩幅を小さくして歩いた。いずれも手をふらない。いくらか急いだとしても、右手と右足、左手と左足を同時に出す、いわゆる「ナンバ歩き」である。
 現代の時代劇などを見ていると、「皆の衆、たいへんだぁ」などと村人が走ったり、武士が歩調をそろえて歩いたりするが、あれは「らしく」みせるためのウソである。現在の俳優たちが、実際の江戸時代の人々の「近代化・規格化」されない個性だらけの身体の動きは再現することはとても無理だろう。
 まず、兵士の「膕(ひかがみ)」から伸ばさなくてはならなかった。「ひかがみ」は膝の裏側のことをいう。ひかがみが伸びなければ、直立はできない。これが当時の人たちには難しかった。幕末に来日した外国人の中には、「日本にはサムライという支配民族と、支配される他の民族がいる」と観察した人がいた。武士階層と庶民には体格や姿勢その他で明らかに異民族に見えるような差があったらしい。
 昭和初めになっても、軍隊の中に「怒られること」を「曹長殿にひかがみを伸ばされた」という言い回しがあった。油断すれば、すぐに昔の人は膝を曲げてしまったのだ。
 だから銃隊操練はまず、姿勢の矯正、運動の自在さから始めなくてはならなかった。いまもわたしたちが、いきなりスケートやスキーができないように、当時の多くの人は走ることはわざわざ練習しなければできなかったのである。
 少し後になるが、フランス軍の教官たちが、集まった幕府陸軍士官候補生たちにやらせた基本訓練がある。それはまず柔軟体操であり、目隠し鬼ごっこ、後ろ向きに走ることや、手つなぎ鬼、高いところから跳ぶことなどだったといえば、その苦労が分かるだろう。わたしたちが現代のような近代的な身体をもったのは、幕末維新からえいえいと続けてきた学校体育のおかげなのである。
「頭~右!」の号令で首だけを右に向ける。「直れ!」で元に戻す。1個小隊の40人が「小隊、前へ~進め!」で一斉に左足から踏み出して行進を始める。「全たぁい、止まれ!」で、声に出さずに「いち、に」で停止。
 歩き方も決めてある。歩幅は75センチであり、いまも陸上自衛隊は同じ。「遅足(おそあし)」は1分間に75歩である。葬送の行進で弔銃(ちょうじゅう)を発射する隊員などがこれを行なうことが見える。「早足(はやあし)」は1分間に110歩である。それから「駆足(かけあし)」。歩幅は90センチで毎分150歩である。毎分135メートルとなる。
 こうして徒手訓練が進む。小隊単位で整列、行進、停止、前進、後退、斜行進、旋回などができるようになると、いよいよ銃が渡された。

銃をもって行動するのは特異技能である

 どこの時代の、どこの国の小銃も、重さはおよそ4キログラムである。それは要求される射程からくる火薬量の問題でもある。銃が軽いことは銃の仕組みが華奢であるということだ。発射反動を抑えるにはある程度の重量が必要で、それは平均的な兵士の身体に合わせて考えられる。現代の小銃でも5キロにはいたらず、3キロ以上になっている。
 この長さが130センチにもなり、重さは約4キログラムの銃をいつも身に着けているというのはどれほどの負担になるものか。右肩に銃を載せるが、「肩へ~銃(つつ)」の号令に従い、「立て~銃!」で銃を右手で軽く握って、右足の横に床尾を付けて垂直に立てる。これを何度でも繰り返す。しかも、全員が同じ動作で、同じ時間でこれを行わねばならない。立てる、あげる、おろすなどの挙動は0.6秒を原則とした。
 銃槍(じゅうそう)を着ける訓練も行なわれた。バイヨネットである。「槍~附へ(やり~つけえ)」で腰から銃剣をとり、右手で銃口の横に装着する。ソケットのように差し込めるようになっている。「槍~脱せ(やり~はずせ)」で銃を立てて、はずして元のように腰に帯びる。のちには「着け~剣(つけ~けん)」、「脱れ~剣(とれえ~けん)」と号令が変えられる。
 このように銃についての訓練が終わって、はじめて弾丸と火薬が渡された。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(2018年(平成30年)12月5日配信)