陸軍小火器史(6) ―小銃弾薬の発達(その3)

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お礼

 YHさま、お便りありがとうございました。薩摩、大隅、日向の地形についてのご教示、ありがとうございました。守備する地形がきれいごとを言っていることを許さないとのご指摘にはすっかり納得いたしました。
 また、「飛び道具は卑怯なり」から「銃器への嫌悪」が生まれ、いまも武道界には異種競技戦への消極的なことなど、興味深いお話です。今後ともよろしくお願いいたします。

エンピール銃の導入

 幕末・維新期にエンピール銃といわれたのは、英国で製造されたEnfield Rifleのことである。このミニエー銃弾を使う小銃は、1853年に英国軍に制式化された。もちろん銃弾と装薬は銃口から押し込まれ、銃身内には施条があった。
 ミニエー弾は椎の実形の尖頭弾で、底部に窪みをつけて、そこに木の栓をはめた。発射薬によって木栓がおされ、後部が広がるように工夫されていた。そこが銃腔内のライフリングに食い込み、回転した。発射薬の燃焼で生まれるガスの漏れも少なくなった。弾丸は回転しているから、そのジャイロ効果で直進性も増した。
 球形弾丸を滑腔銃身で撃ちだすのがゲベール銃。それとの性能の比較がある。ゲベール銃は雷管で発火させる西洋銃の総称だが、岩堂憲人氏の『世界銃砲史』の中に命中率の比較をした数字がある。ミニエー銃は命中が期待できて、敵兵を確実に死傷させることができる有効射程が300メートルにも伸びた。
 おそらく銃を台に固定しての射撃による結果と思われるが、100ヤード(約91メートル)では、ミニエー銃対ゲベール銃の命中率は、94.5%に対して74.5%である。それが200ヤード(約182メートル)になると、80%対41.5%と半分にもなってしまう。300ヤード(約274メートル)では、55%対16%と歴然とした差が出る。さらに400ヤード(約365メートル)では4.5%しか的に当たらないゲベール銃に対して、ミニエー銃は52.5%が命中という圧倒的なちがいを見せつけた。
 肉眼で識別して人間を狙撃できる限度は500メートルくらいである。高層ビルを下から見上げて、その頂上に近い窓を見ると考えてほしい。だから、遠距離では密集した敵の歩兵集団などに一斉に発砲した。1000メートル近い歩兵の密集行進や、輜重部隊などにはそれは十分な脅威になった。
 エンピール銃の地板(じいた・機関部)には王冠のマークとTower という刻印がある。しばしば「鳥羽ミニエー」ともいわれる銃がこれである。タワーもまた、「鳥羽」と耳慣れた読み方をした結果だろう。この1853年式の特徴は、火門を保護するための蓋が用心鉄(ようじんがね・引き金を保護する)の鋲(びょう)から鎖でつながれているところである。また使用する弾丸が、ブリチェット弾という、弾丸の底部に木の栓をうめこまず、ガス圧だけで広がるようになったものだった(所荘吉氏の「図解古銃事典」による)。
 歩兵銃は口径14.66ミリ、銃身長は840ミリ、銃全長1250ミリ、重量は3.88キログラム、2つの環帯(バンド)で銃床と銃身は固定される。銃口部に照星と銃剣留(じゅうけんどめ)が付いている。照尺は500ヤードから1200ヤードまでを100ヤード単位で分画(ぶんかく)されて、500ヤード以下は固定照門(しょうもん)で行なう。福澤諭吉が訳した『雷銃操法』にも、照門と照星の重ね合わせ方の説明がある。
 撃発機(撃鉄・ハンマー部)は銃床の右側にある。1200ヤードといえば、約1097メートルにもなり、黒色火薬使用のライフルでは「前装銃中の最高傑作」という評価もうなずける。のちには機関部を改造して後装銃になったものもある。
 銃剣はヤタガン式といわれる湾曲した刃長57.5センチにもなる長大なものだった。陸軍兵器本廠の昭和4年版の『保管参考兵器沿革書』によれば、1860年に製造されたそれは全長725ミリとある。1250ミリの銃に取り付ければ、全長は1900ミリ前後にもなった。銃尾を地面に着けて斜めに立て、騎兵の突撃を防ぐには、こうした槍のような長さが必要だったからだ。
 1865(慶応元)年の5月に大坂に向かった14代家茂(いえもち)将軍の行列には、親衛1聯隊の600人がエンフィールド銃をもっていたと外国人の報告にある。「親衛」とあるから、幕府旗本の「撒兵(さっぺい)=軽歩兵」ではないかと考えられる。

ミニエー銃の射撃訓練

「込め~銃(つつ)!」の号令がかかると、右手で銃を身体の正面に立てる。左手にもちかえて、右手で胴乱から弾薬包を取りだした。銃を保持した左手で紙製の包みをもち、右手の指で紙製薬包の底部を引き裂く。発射薬(装薬)を銃口から注ぎ入れる。このあと、弾丸の尖端を上にして、紙もいっしょに銃腔にいれる。このとき、あわてて逆に入れるとやっかいなことになる。弾丸の後部は開かないので発射薬のガスは弾丸の脇から漏れてしまい、射程も短くなった。
 銃身の下部についた?杖(さくじょう、ロッド)を引きだし、2度、押し下げて弾丸を確実に装薬の上に落ち着かせる。乱暴に突っ込んで、弾頭を傷つけないようにしなくてはならない。?杖を元に戻すと、右手で銃把(グリップ)を握り、右の腰骨に固定して左手で銃を支える。
 いよいよプライマー(雷管)の取り付けである。右手の親指で、鶏頭(けいとう)ともいわれた打金(撃鉄)を静かに引き起こす。ロックしたら、右手で雷管入れから薄金でできたキャップ状の雷管をつまみだす。火門に親指で押し入れる。その後は引き金を引き、ハンマーをおさえながらゆっくりと雷管にかぶせる。これで、安全になった。「肩へ~銃!」で待機姿勢になる。
 いよいよ撃発である。「小隊~準備(かまえ)」で、撃鉄を引き起こし、「狙え!」で銃を構える。銃床を肩におしつけ、左の掌で地板を下から支える。人差指を引鉄(ひきがね)にかけて、右目で照門を覗いて照星と合わせて的(てき)に照準をつける。「打て!」の号令で、静かに引鉄をしぼる。撃鉄が落ちて雷管をたたき、装薬が燃焼する。これが撃発である。
 村田経芳によれば、英国式の狙撃術の教えがあるという。村田の言葉では、「息継ぎ、気抜け、狙い、指掛け、絞り」となる。英国陸軍での、ブレス(Breathe)、リラックス(relaxed)、アイム(Aim)、スラック(Slack)、スクィーズ(Squeeze)を村田流に翻訳したものだろう。
 息を吸って吐き、もう一度吸い、吐いて止める。そのとき銃口はまったく静止しているように見える。狙いにこだわり、4秒を過ぎると、銃口は楕円形を描いて動き出す。よく狙ってやろうと息を止め続けると動き出すので、素人はすぐに撃ってしまう。引鉄を強く引くから、動きは銃身に伝わって、弾丸はあらぬ方向に飛んでいく。
 当ててやろう、必ず当てようと思うからいけない。そこで気を抜く。ただし狙いはつけたままである。じっくりと指先に少しずつ力を加え、もう少しで撃鉄が落ちるというところまで引く。指先のやわらかいところで静かに引鉄を絞る。
 この最後の引鉄の絞りについての心得は『寒夜に霜が降るごとく』という表現で後世にまで伝わった。射撃で的を外してしまうのは、いわゆる「がくびき」である。力んでしまい、強くガクッというように引鉄を絞ってしまう。照準が正しく、静かに引鉄をしぼり、射弾が的を正確に射ぬくとき、筆者にはあたかも一筋の光線が銃口から的につながるように思える。
 ただ、敵弾が身近に飛来し、擦過音が聞こえ、至近弾は衝撃波まで身体に伝えてくる。そういう状況で、冷静に、この教えを守れるのは、なかなかふつうの人間にできるものではないのだ。あくまでも基本的な心得であり、訓練によってこの境地になるべく近づくようにするしかない。

下妻(しもづま)の射撃戦

 庶民を集め、洋式訓練を行なった幕府歩兵隊。その初陣は、1864(元治元)年3月の水戸藩の内乱から生まれた『天狗党の乱』だった。6月23日に幕府から鎮定軍が派遣された。
 歩兵頭(ほへいがしら・陸軍大佐に相当)北条新太郎、歩兵指図役頭取(ほへいさしずやくとうどり・同大尉)に率いられた歩兵隊2500人が出動した。進出したのは常陸国下妻(ひたちのくに・しもづま)である。筑波山の西方、鬼怒川(きぬがわ)と小貝川(こかいがわ)の間にある水運の中心だった。現在の茨城県下妻市である。当時は1万石の陣屋大名井上氏が治めていた。
 鎮圧軍の編成は詳しく分かっていない。野口武彦氏の研究によると、歩兵隊は1150人。100人で構成した中隊が7個と半隊(2個小隊で50人あまりか)で、各中隊と半隊には12ドイム(口径12センチ)ホーイッスル砲(榴弾砲)各1門が配属されていた。合計で8門である。砲兵隊としての集中運用ではなく、各中隊の直接火力支援にあたったものだろう。
 兵卒の小銃は銃剣付きのゲベールだった。雷管で撃つ、球形弾丸を使う前装銃である。もっとも水戸浪士隊などは、和装に火縄銃くらいと思われていたから、それで十分だと考えてもいただろう。『水門合戦聞取書』という文書には歩兵隊の挿絵が載っている。黒い帽子とズボンに白い上着、草鞋をはいて、長いゲベール銃を担いでいる。
 この銃の正式な名前は分からない。1845年にオランダで制式化された雷管式が有名である。銃尾はネジで塞がれていて、3本の環帯(かんたい)で銃身と銃床が固定されていたので、「三つバンド」ともいわれた。銃の口径は17.5ミリ、全長は1499ミリ、重量は4キログラムである。銃槍の断面は三角形で、刃の全長は400ミリだった。この弾丸と装薬はいっしょに固い紙で包まれていて、パトロンと呼ばれた。
 指図役(将校)は黒い陣笠に同色の長い筒袖の羽織でその下の胴服・ズボンともに洋装、黒い靴をはいている。鼓手やラッパ手もみえる。兵たちの白い上着は2年後の長州戦争でもおなじみになる夏服である。
 7月9日、歩兵隊は寺に集結、休息していたところ、暁闇に奇襲を受けた。浪士隊は大砲2門で400メートルあまりから撃ちかけた。裏門から小銃手の侵攻を受けて、本堂のまわりに火もかけられた。総指揮官幕だった府旗本はすぐに逃げた。踏みとどまったのは指図役が指揮する歩兵隊である。
「50人、70人ほどがそろって発砲し、すぐに『ころり(地面に伏せて)と弾丸を込め』て、敵の射弾が頭上を超すと、すぐに立ちあがり撃ち返していた。よくよく熟練していた。みな驚いた」(『藤岡屋日記』から野口氏が引用)実戦でも訓練の通り、伏せながらの弾丸・装薬込め、統制された一斉射撃などをしていたことが分かる。
 9月17日の野戦も興味深い。北茨城市磯原では歩兵隊は午後1時から同5時までの4時間にわたって銃撃戦を展開した。前面に壕を掘り、その土を積みあげて固めた胸壁(きょうへき)の背後に隠れて、敵が近付くと発砲する。胸壁の高さは、おおよそ肩口くらいまでである。低すぎると身を隠すのに不十分だった。背丈を超すほど高ければ、前方の見通しも立たないからである。
 前装銃が圧倒的に後装銃に比べて不利なのは、その手間だけではない。薬包を破り、装薬・弾丸を銃口から入れるときに銃をなるべく立てて、自分の姿勢も高くしてカルカ(?杖)を操作しなくてはならなかった。もちろん下妻の歩兵隊は伏せて再装填を行なった。ただ、それはやはり苦しい姿勢をおかしての不利な操作だった。もっとも早く、正確に再装?するには、安全な胸壁のかげで立ってそれを行なうことである。
 この10月、歩兵隊は現ひたちなか市の部田野(へたの)、17日には那珂湊(なかみなと)などで浪士隊と交戦をくり返す。接近戦になると、しばしば逃げたという。浪士隊に白兵(刀槍)をふるって、弾丸こめの最中に襲って来られてはたまらない。
『陸軍歴史』にも、当時の歩兵隊への批判が書かれている。「遠近測定が下手だ」というのである。適切な距離を示さなければ、兵卒は照準のしようがない。「いたづらに空弾を相放ち」とある。むなしく敵の頭上をこえ、手前に着弾するような射撃が目立った。野戦陣地を造ろうとしても手間取るばかりで不慣れだ。地形偵察や斥候の行動が鈍く、敵に不意急襲を受ける。
 それもこれも有能な、中・下級指揮官が不足していたからなのだ。

神奈川奉行所の警備隊

 この1864(元治元)年9月から横浜で英国陸軍から訓練を受けようという動きが始まった。すでにこの頃には、横浜にあった神奈川奉行所には独自の治安部隊が設けられていた。横浜村周辺の天領の村々の役人の子弟から志願者を募ったのである。身元もしっかりし、真面目な若者が多かったらしい。
『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』の1865年2月4日号には、韮山笠(にらやまがさ)といわれた柏餅のような帽をかぶり、筒袖、細袴で洋式銃を肩にした「日本兵」が描かれている。
 当初の計画では、士官、下士官だけを英国式伝習で育てようとした。幕府陸軍はとにかく頭でっかちの組織であり、将軍や高級将校はすぐにそろったものの、中隊長や半隊長、小隊長という人材がまるで足りなかったからだ。歩兵指図役頭取(さしずやくとうどり・カピテイン・大尉)は中隊の指揮をとる。歩兵指図役(1等ロイテナンド・中尉)は半隊長、歩兵指図役並(なみ・2等ロイテナンド・少尉)は小隊長を務めた。この定員がなかなか埋まらなかった。
 多くの旗本・御家人たちは、庶民出身の兵士といっしょに泥にまみれ、野外で過ごすなどということを嫌った。敵弾を避けるために、低いところに身を隠す。それには水たまりが向いている。水はもっとも低いところにたまるからだ。ところが、旗本の若殿様や御家人の若旦那がそんなことをするわけがない。
 高位高官たちは、能力の査定もないままに家柄で選ばれた。最高位は陸軍奉行(りくぐんぶぎょう)という。階級はオランダ語でロイテナンドゼネラールだから、明治以降では中将である。ちなみに、陸上自衛隊の師団長などがつく陸将の英語名は Lieutenant General となっている。次の将官は歩兵奉行で、ゼネラールマヨール General Major、旅団長をつとめ陸軍少将にあたる。陸自では Major Generalと称する陸将補である。
 聯隊長(レヂメントコマンデル)は歩兵頭(ほへいがしら)、コロネル、陸軍大佐(陸自では1等陸佐)に相当する。それは陸自でもColonelでそっくり。大隊長(バタイロンコマンデル)になるのは歩兵頭並(かしらなみ)、階級名はロイテナンドコロネル、陸軍中佐(同前2等陸佐)である。ここまでの人事にはほとんど問題はなかった。
 暇な名目だけの高級武官はいっぱいいたからすぐに決まる。トップの陸軍奉行は竹中丹後守(たんごのかみ)、美濃菩提山(みの・ぼだいさん)に領地をもつ高級旗本である。先祖はあの有名な羽柴秀吉の名軍師といわれた竹中半兵衛(たけなか・はんのびょうえ)といえばすぐにピンとくるだろう。とにかく少ないのが尉官級の指図役頭取、指図役、同並、そして曹長、軍曹といった下等士官である。
 この頃には神奈川奉行所の軍隊も1000名ほどの規模になっていた。これに対して横浜に駐屯する英国歩兵隊が模範を示し、戦術、部隊運動などの訓練を重ねて行った。なお、のちに脱走幕府軍のうちで荒くれた行動で評判を落とした「赤服の衝鋒隊」指揮官の古谷佐久左衛門もこの英国伝習に力を貸したに違いない。
 1小隊は40人。これが20個集まって800人で大隊となる。大隊は戦術単位であり、指揮官の号令のもと、縦隊から横隊へ変化し、散兵線を構成する。主攻方面に散開して前進する隊、それを掩護する隊、後方には予備隊として拘置される部隊。一斉射撃で敵を圧倒し、前進して最後には突進する。そうした訓練を繰り返していたのである。
 次回では、後装式小銃の発達と実際の戦闘の例を見よう。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(2018年(平成30年)12月12日配信)