陸軍小火器史(20) ─三十八年式・四十四年式騎銃ー

軍馬と騎乗する軍人

 騎兵は乗馬襲撃を本領とする。西洋で生まれた騎兵は19世紀に2種類あった。胸甲を着け長槍で武装した重騎兵と、サーベルだけをもった軽騎兵である。重騎兵の馬は大きく重かった。軽騎兵は捜索、偵察、連絡などを担う。馬は軽快で馬格も小さい。活躍ぶりが有名な秋山騎兵団をはじめとして日本騎兵は軽騎兵だった。
 日本陸軍の馬はひどく小さかった。幕末にフランスから馬が贈られてきたが、その大きさにはみな驚いたという。わが国の古来の馬はトカラ馬、奄美・琉球(与那国・宮古・八重山)馬などの小型馬(体高100~120センチメートル)と對州馬(対馬馬)、御崎馬(宮崎県都井岬)、木曾馬(長野県木曽地方)、北海道和種などの中型馬(体高130センチメートル)に大別される(『富国強馬-ウマからみた近代日本』武市銀治郎、1999年、講談社選書メチエ)。
 馬の体高とは地上から肩の高さまでをいう。室町時代(14世紀初~16世紀中)は「四尺=121センチ」をふつうの小馬として、「四尺五寸=136センチ」を中馬、「四尺八・九寸=145~148センチ」を「長に余る」という。源平時代(12世紀末ころ)は馬上の騎射戦が盛んであり、名馬は多く四尺七寸(142センチ)から同八寸(145センチ)だった。戦国時代(16世紀中~末)には体高五尺(152センチ)前後が上級武士の乗馬にされていた。その後、江戸時代を通じて、馬は小さくなるばかりだった。
 帝国陸軍の発足と同時に当局を悩ませたのが騎兵用乗馬、輜重兵(しちょうへい)・砲兵用輓馬(ばんば、当初は駕馬といった)、同駄馬(だば)の補充と改良だった。軍馬とは、将校乗馬、部隊保管馬、軍馬補充部保管馬と貸付予備馬を総称したものだった。
 乗馬とは指定された乗馬本分(じょうばほんぶん)とされた者、乗馬部隊の将兵などが乗用する馬のことをいう。輓馬とは野砲や輜重車などを馭卒(ぎょそつ・兵)に操られて牽引し、駄馬は分解した山砲や物資を背中に載せて輜重輸卒(しちょうゆそつ)などに口を取られて運ぶ馬をいう。
 騎銃は馬上での取り扱いを容易にするために、歩兵銃の全長を切りつめたものである。制式名では「騎銃」とされるが、「機銃=マシンガン」と間違われやすいために、騎兵銃といわれることが普通だった。乗馬する兵卒に交付され、騎兵、輜重兵、砲兵馭卒(兵)が背中に負って行動した。(18年式)村田銃にも(22年式)村田連発銃にも騎兵銃タイプが生産された。
 なお、「旧陸軍では輜重が軽視された」といい、輜重兵がバカにされたという通説がある。それは半分正しく、半分間違っている。どこの軍隊でも戦闘兵科の地位は高い。歩兵と騎兵には軍旗といわれる聯隊旗があり、これは明治の初めから直接戦闘兵科とされたおかげである。続いて砲兵があり、工兵があった。どちらも技術系であり、世間的にも一目置かれた存在だった。
 輜重兵は残念ながら、戦闘職としての専門性が低いと思われていたに違いない。仕事は食糧や馬糧、資材などを運ぶ輸卒を指揮・護衛するのが本務である。立派な戦闘兵科であるのだが、攻撃性はあまりない。乗馬しての戦闘が本来なので、兵卒の教育は騎兵に準じていた。装備も騎兵と同じだった。

38年式騎銃

 すでに日露戦争の戦訓から、日本騎兵は乗馬歩兵になっていた。軍刀をふりかざしての襲撃戦はほぼ起きなかったし、多くの戦闘は下馬しての機関銃や小銃による徒歩戦だった。接近しての対歩兵戦闘では、騎兵銃にも銃剣があったほうがよいというのが現場からの声だった。騎兵銃で射撃する。彼我が接近して接戦になろうとするとき、騎兵は銃を置き、軍刀を抜いて白兵戦に備えた。このとき、射撃が途切れてしまうのだ。
 38年式歩兵銃と38年式騎銃を比べると、銃身長が795ミリから487ミリと308ミリも短くなっている。したがって全長も1276ミリから966ミリと310ミリも短くなり、重量も3959グラムから3340グラムと619グラムも軽くなった。他に目立った改変は照尺である。最大2400メートルから2000メートルに下げられた。銃身が短くなっていても、もともと装薬は少なく、銃口から弾が出るまでにガスは十分膨張していた。初速は少し下がったが、弾着も高低にちらばりが少し増したぐらいで済んだ。

44年式騎銃

 1909(明治42)年、騎兵旅団は4個になっていた。第1騎兵旅団は千葉県習志野に司令部を置き、騎兵第13、同14の2個聯隊を隷下にした。騎兵第2旅団は同じく習志野に騎兵第15と同16聯隊。岩手県盛岡に騎兵第3旅団(騎兵第23・同24聯隊)があり、騎兵第4旅団は愛知県豊橋に騎兵第25と同26の2個聯隊。この8個聯隊が旅団騎兵といわれた。戦時には軍直轄騎兵となった。この他に各師団には師団騎兵があった。近衛騎兵聯隊以下合計19個聯隊である。
 4月、秋山好古(あきやまよしふる)騎兵監から大島久直(おおしまひさなお)教育総監に上申があった。騎兵監部とは教育総監部の中にあり、騎兵の教育訓練・兵器、戦術の研究・部隊の検閲などを行なう。騎兵監は騎兵界のトップである。
「騎兵銃に伊太利(イタリア)式の銃剣を附着(ふちゃく)して、研究のために騎兵実施学校に下附(かふ)せられたく」という上申だった。これが総監から陸軍大臣へ、技術審査部におりてきた。38式騎兵銃に折り畳み銃剣を着けてみようと研究が始まり、制式化されたのは1911(明治44)年12月30日である。伊太利式の銃剣とは、カルカノ・カービンM1891に取り付けられた折り畳み式のものだった。
 時計を少し戻して、上申の理由を読みなおしてみよう。要旨である。「騎兵は戦闘や警戒勤務にあたり、徒歩戦闘を行ない、白兵を使う時も多かった。軍刀はこのときに徒歩者の運動を軽快にさせない。その銃の操作を適確にもさせなかった。欧州では騎銃に剣を附すという傾向にある。・・・軍刀は従来のように腰に帯びるが、徒歩戦闘の時には鞍に装着するようにすることが必要である」
 問題は長大な騎兵刀と銃剣の二重装備である。騎兵と輜重兵の下士・兵卒は、32年式軍刀(甲)を支給された。片手握りで柄は短く、西洋式に護拳(ごけん、ハンドガード)と内部に指掛け革(ゆびかけかわ)が付いていた。全長は1002ミリと長大なもので、金属製の鞘(さや)や刀緒(とうちょ)などの全備重量は1.423キログラムもあった。同じ意匠の「乙」もあったが、これは他兵科の曹長などの上級下士官が佩用したもので全長は刃の部分が60ミリ短く、全長は920ミリ、重量も1.328キログラムと軽くなっていた。
 改造そのものに面倒はなかった。銃口近くに軸をこしらえ、折り畳み式の銃槍(じゅうそう)、スパイクを着けるようにした。仕組みは簡単で、ボタンを押して固定を解除する。バネなどはついていないので、先端をもって180度回転させる。これを「起剣(きけん)」といい、ロックを外して元に収めた状態を「伏剣(ふくけん)」といった。槍の断面は三角形で、出征するまでは刃をつけていない。起剣の時の全長は1351ミリで、38式騎兵銃に30年式銃剣を着けたときと変わらない。ただし、重量は3.78キログラムになった。銃身長が487ミリになったので、初速は708メートル/秒と歩兵銃に比べると遅くなった。
 外見の特徴は銃の清掃用の備品である?杖(さくじょう)が銃口下部から覗いていたのが、折り畳み式になって床尾に格納されることになった。兵が背に「負い銃(おいつつ)」するときに使う「負革(おいかわ)」の取り付け環が床尾の左側面についた。これで、槓桿が背中にあたることを防いだ。また、銃口の横から鉤型(かぎがた)のフックが突き出している。これは叉銃鉤(さじゅうこう)といって、ふつう3挺の銃を組み合わせて立てるためのカギである。

素晴らしい銃と騎兵の黄昏

 大正時代の後半になると、騎銃にも射撃精度の向上が言われるようになった。実は44年式には38年式騎銃より当たらないという評価があった。要するに射弾の散布界が大きいということだ。いろいろな理由が考えられた。起剣時に銃口のすぐそばに槍がある。これが原因だろうかなどと、さまざまな解釈があった。
 原因はどうやら銃と銃床の取り付け部の締め方の問題だったらしい。銃身と銃を支える木製銃床の間にはほんのわずかのすき間がある。それがないと、発射時の銃身のぶれや、銃床のゆがみを吸収しきれない。こればかりは試行錯誤を繰り返すしかなかったようだ。最終的に、間隙をつくることで解決がされた。
 この銃はたいへん美しい。残されている実銃も、バランス良く、機関部も精巧にできている。職工の手作り感あふれる出来あがりで、アメリカなどでは44式騎銃の大ファンもいるらしい。
 生産数は須川氏の調査によると、44年式騎兵銃は大正時代を通じて約5万5000挺造られたという。これらは前期型といわれ、東京の小石川小銃製造所(現文京区)で製造された。関東大震災(1923年)後には現北九州市の小倉で造られるようになった。小倉だけで1万挺が造られた。中期とされる1923(大正12)年以降、1935(昭和10)年までに1万5872挺、後期の36(昭和11)年から41(前同16)年までに2万9624挺の合計10万496挺が総生産数とされる。銃剣が着けられる38年式騎兵銃は、43万454挺であったから、装備された比率はおよそ1:4と考えられる。
 しかし、日本騎兵の黄昏は1920(大正9)年に訪れた。「騎兵無用論論争」が起きたのである。その前年には、朝鮮に第19と同20師団が創設された。騎兵4個旅団と師団騎兵21個聯隊となり、騎兵103個中隊、機関銃4個中隊になった。ところが、世界大戦の研究が進むと、騎兵そのものの価値が問われるようになってしまう。
 この詳細は、『帝国陸軍機甲部隊』(加登川幸太郎、1974年、白金書房)に詳しい。以下、この著作にしたがって説明しよう。「騎兵の乗馬戦闘はもうあり得ないから、騎兵は徒歩戦を主体とするように装備も訓練も変えるべきだ」という意見と、「ヨーロッパ大戦は陣地戦が主体だったが、あれは特異な状況である。今後も乗馬襲撃の可能性はあるし、何より乗馬襲撃こそ敢為な騎兵精神の象徴であり、徒歩戦を主とするなど騎兵の堕落だ」という意見の衝突だった。
 この論戦に参謀本部の歩兵出身の部長が加わった。「乗馬騎兵に価値はない。世界大戦中の騎兵は準歩兵的に戦ったのではなく純歩兵的な戦闘をすることで貢献した。馬は単に兵器輸送の手段にしか過ぎない。大部隊の乗馬襲撃が将来もありうるというが、襲撃戦をいどむなど、騎兵みずから壊滅を求めるにひとしい。さらに航空機の発達した今日、捜索について従来期待されていた騎兵の任務は、飛行機で知りえたことを確認するにすぎなくなった。騎兵など要らない。歩兵に乗馬訓練をすればたりる」といった騎兵廃止論である。
 この論争は、1920(大正9)年夏に及んで、騎兵界に大きな動揺を与えた。そして、一人の騎兵旅団長が憤激のあまり、割腹自殺をするという悲劇を生んだ。この年以降、戦車や装甲車についての研究も行なわれていた。若い世代からは「馬を捨て、機械化騎兵とすべし」という意見もあった。ただし、騎兵界の主流は、乗馬騎兵のままで装備を改善し、重火器を装備する方向で戦力を強化しようということになっていった。
 1922(大正11)年、山梨軍縮で歩兵の平時中隊数が1個大隊4個から3個に減らされた。各騎兵聯隊もそれぞれ1個中隊を減らし、合計29個中隊が削減される。師団騎兵聯隊(乙聯隊という)は2個中隊になってしまった。しかも「騎兵操典」が改正され、「騎兵の戦闘は乗馬戦、徒歩戦を併用する」とされた。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(2019年(平成31年)3月27日配信)